第八章 ④⑤
いざこざの最中、私に向かって田浦寿子が見せたあの笑みは実は母親に向けたものではないの?とお婆さんと別れてしばらく経った後、ヒヨリはそんな風に思った。
あの時、お婆さんは実は私の後ろにいて実の娘に対し殺意を込めた眼差しを向けていたのだとしたらどうだろう?あの時、田浦寿子が満面な笑みを浮かべたのも頷ける。
本来、人は自分より格下と思っている人間に対しては、余裕な態度を見せつけるような所がある。
学校のカースト制度と呼ばれるのもその類いだ。ボクシングや総合格闘技の試合前日のフェイスオフなどでも見られるように、内心はそうでなくても余裕を見せている方が、見ている側からしたら俄然、強く見えるのと同じで、田浦寿子も実であるお婆さんに対し、そのように捉えているのではないだろうか。
実際、あの場にお婆さんがいたのかどうかは別れてしまった今では聞きようがないが、確かにあの時、田浦寿子が浮かべた笑みにはそのような余裕感が漂っていた。
もし私の推察が正しいと過程し、そんな我が娘を見たお婆さんはどのように感じただろうか。
娘の為に身体まで売って生活費を稼いでいたというのに、最終的に売女と呼ばわりされた時の気持ちは如何なものだっただろう。
歯痒さと悔しさという感情が芽生えたのは想像に難くない。そしてお婆さんに対し一切の連絡手段を遮断した田浦寿子に対し、日に日に込み上げてくる感情に憎しみが含まれ始めるのは人としては普通の事だろうとヒヨリは思った。
生い先短い我が身を捨てるような真似をした実の娘に殺意が芽生えるのも時間の問題だったのかも知れない。
今の時代、老後の介護の問題がたまに話題になるけれどまさに田浦寿子はそれを何十年も溜め込んで来た母親に対する侮蔑と共に、置き去りにしたのだ。
お婆さんからしたら全く想定外の仕返しを娘から受けたのだ。2人で暮らしていたというくらいだから、家賃や生活費などの殆どは田浦寿子がまかなっていたに違いない。
プラスお婆さんの年金でたまには贅沢をしていたのかも知れない。近所からは母娘仲睦まじい暮らしをしているように映っただろう。
そう思っていたのがお婆さんだけだったというのは悲しい話ではあるけど、2人の人生という物語りから見れば、それは起こるべくして起きたどんでん返しという事なのだろう。
だからお婆さんは私に田浦寿子の殺害を頼んだ。突飛な話だった。
そんな依頼を受けるのは、ダークウェブ等に集う者か闇バイトと知らず応募し、僅か数万円の金で特定の人物を殺すように命令され、断ろうとしたら家族等を殺すと脅され仕方なく馬鹿な行動に出る者達だけだ。
もしくは本当に存在しているのかは知らないけど、殺し屋くらいなものだ。
それ以外の人はこのお婆さん頭がイカれてるわとシカトするか、生真面目な人ならお婆さんから住所を聞き出し警察に届けるかも知れない。
そんな事を考えながらお婆さんから受け取った田浦寿子の住所が書かれた紙を開いては閉じ、閉じては開くを繰り返しながら、我が家がある目白へ向かう電車に揺られていた。
そう。先に電車を降りたのはお婆さんの方だったのだ。ヒヨリはお婆さんの話が気になり目白では降りずその続きに耳を傾けた。
そして最終的に、田浦寿子殺害を私なんかに依頼するような真似をして鶯谷で降りた。去り際にお婆さんはヒヨリに向かってこう言った。
「私のお願いは、頭のイカレた年寄りの戯言だと思わないで欲しいの。本気よ。私は本気で貴女に頼んでいるの」
「ご冗談を仰らないで下さい」
「本気だと言ったでしょう?」
そう言ったお婆さんの瞳は、人を殺害し捕らえられた殺人者がメディアに向けて時折り見せる不適な笑みに含まれる眼差しそのものだった。
ヒヨリはその瞳を逸らす事なく見返した。お婆さんは緩やかに停車し始めると私を見返しながら席を立った。
そして一瞬も私から目を離さず次々と吊り革に手を伸ばし、反対側のドアまで後ろ向きで歩いていった。
ドアが開いた時も、降りる人を優先させギリギリまで車内に残り私を見返していた。
そして閉まるアナウンスがあるとホームとの距離や隙間など確認すらせず足を下げた。
ホームに降り立ったお婆さんは電車が発車するまで扉越しにヒヨリを見つめていた。
まるでヒヨリの全身に刻み込むかのような本気という意思をヒヨリに投げかけ続けた。
ヒヨリもヒヨリで一瞬たりとも目を逸さなかった。
そして姿が遠ざかって行くとヒヨリはスマホを取り出し、雷鳥と弓弦へ向けてLINEをした。
駅で見た田浦寿子の街頭演説からお婆さんとの間に起きた事を簡潔に伝えた後、詳しい事は会った時に話すわと打ち込みスマホをしまった。
それから何分経ったか知らないがまだ2人からの返事はない。仕事中なのだろう。
ヒヨリは受け取った紙を取り出して、田浦寿子の住所を頭に叩き込んだ。
そして閉じたり開いてを繰り返しながら目白までの時間を退屈から程遠い自分の精神世界の中を旅しながら降りる時を待った。
その世界の中では、お婆さんは幾人もの人へ田浦寿子殺害を依頼していた。
住所が書かれた紙を手渡し本気だとアピールしていた。そうする事でいつか本気で我が娘を殺してくれる人間が現れてくれる事を信じ、来る日も来る日も田浦寿子が演説する場所へ出向き、それを見ている人や文句をいう人を見つけては私に対ししたような事を繰り返し行っているのかも知れない。
でも一般的な70代のお婆さんとして考えたら、インターネットも上手に利用出来ないだろう。
勿論、そうじゃない人がいるのもヒヨリは知っていた。90代のゲーマーもいるくらいだ。
ダークウェブを知っている老人だって一定数はいるだろう。けど、お婆さんにはそれが出来るとは思えなかった。実際に出来ないからこのような手段で私へお願いして来たのだ。
改めて思うと、私は何故、ご自分の手で殺害しないのですか?と問うべきだったと思った。
そんな時に限って年寄りだから無理だわ等とあのお婆さんが言うとはどうしても思えなかった。
田浦寿子殺害を依頼するような真似を続けていると思われるのは、葉の雫と言う団体の良い噂を聞かないからなのかも知れない。
自分を親だといい、止めさせたい、けれど葉の雫を解体してくれない。
母親としては世間に迷惑をかけている事に胸を痛めていて、そのような事ならいっその事、娘には死んで貰った方がよっぽど良いのだと考え殺害依頼の証拠とも捉えられる紙すら残すような真似をするのも、もし誰かが田浦寿子を殺害した時に、世間から同情を得る為の作戦なのではなかろうか。
酷い親子喧嘩の延長に付け加えるような世間の噂。今更ながらヒヨリは私は被害者であるというアピールにも似たお婆さん行動にふと苛立ちを覚えた。
結局、あのお婆さんは自分の事しか考えていないのかも知れない。
口では娘に捨てられた寂しい老婆を語り、その実、私に話した事は全部嘘かも知れなかった。
真実だなんて証拠はどけにもありはしないのだ。ヒヨリは、私は、あのお婆さんの暇つぶしに利用されただけかも知れないと思った。
ただ揶揄われただけだとしたら、あのお婆さんは一流の詐欺師みたいなものだ。話しも上手く、私の心を惹きつけた。
客観視していた自分もいたが、目白で降りなかった時点で、私はお婆さんの手の平の上で転がされていたようなものだった。
「ババアやるじゃん」
雷鳥と弓弦以外の人間は絶対に信用しない私だけど、いつしか話を信じてしまっていた。
この際、お婆さんの話が嘘だろうが本当だろうがどうでも良かった。
あの老婆は私から関心を買い、同情を得て、あの老婆の為に私は自分の時間を使わされた訳だ。
ヒヨリは益々葉の雫という団体に、田浦寿子とその母親であるお婆さんに興味が沸いた。
お婆さんは鶯谷で降りたが、あれだって嘘かも知れないのだ。言い方は悪いが鶯谷だなんていかにもって感じがしてならなかった。
若い頃から貧乏を強いられ続けながらも、必死に生きてきた老婆が住んでいそうな駅名じゃん。渋谷や代官山等で降りたのであれば、こんな風には思わなかっただろう。
ヒヨリは苦笑いを浮かべた。受け取った紙に書かれた住所は既に頭に入っている。丸めようとして止めた。
この紙には老婆の指紋がついている。田浦寿子への脅迫、もしく殺害予告をした罪で警察に突き出したりするような真似はするつもりもないが、それでもどうしてだろう。破り捨てる気にならなかった。
目白に着き改札を抜け商店街のある左手に曲がった時、雷鳥から連絡が来た。
「何それ。めっちゃ面白そうじゃん?」
ヒヨリは行き交う人の邪魔にならないよう道路側のガードレールまで移動した。足を止め、返信する。
「色々と私の妄想も加わってさ。かなり面白かったよ」
「詳しい教えてよ」
「LINEでいうの面倒くさい。だから次に会った時話すわ」
雷鳥はわかったといい、予定を聞いて来た。
ヒヨリは週末を指定しようとして、辞めた。
弓弦が土日が仕事だったからだ。
「来週の月曜の夜なんてどう?」
しばらく雷鳥からの返信は来なかった。きっと自分の仕事のスケジュールを確認しているのだろう。
「うん。いいよ。月曜の夜で大丈夫。待ち合わせ場所は、いつもの所でいい?」
「いや、歌舞伎町にしよ」
「ヒヨリ、まさか火事場泥棒でもするつもり?」
「そんな事、私がする訳ないじゃん。雷鳥だってそうじゃなう?」
「そうだね。僕達もだけど、弓弦はそういうの大嫌いだからさ」
「うん。知ってる。こんな事を言ったら他人から不謹慎だって言われるだろうけど、私も雷鳥も弓弦も、燃えた物を見るのが好きなだけだもん」
「うん。あの焦げた臭いもたまらなく好き」
「私はそうでもないかな。寧ろそっちより炎が物を焼き尽くす時にみせる獰猛な獣の雄叫びのような猛る姿が好きだよ」
「ヒヨリは昔からそれ言うよね」
「で、そう言った私に雷鳥は言うんでしょ?ヒヨリ、ヒヨリの言いたい事がいまいちイメージ出来ないって」
ヒヨリの返信に対して、雷鳥は涙目の絵文字を連打して来た。
「親父か!」
そう返すと雷鳥は月曜日にねーと送って来た。
ヒヨリはそれには返事を返さず自宅へ向かって歩き出した。
途中、チキンの良い香りが鼻をついたがケンタは最近食べたばかりだと思い出し、店前で止めかけた足を再び踏み出した。




