第三章 ①④
「灯油や」
弓弦は思い、倉庫から灯油の容器を引っ張り出して来た。
スズメバチの殺害方法はこうだ。
巣をたたき落とし穴まで転がし落とす。直ぐに戸で蓋をし、そこに灯油をぶちまける。
そしてライターで、いや、ダメや。灯油がかかった戸に直接ライターで火をつけたりしたら、いきなり燃え上がり自分まで焼けてしまうかもしれん。
戸に向けて殺虫剤式火炎放射器を噴射すれば距離もあるし、直ぐ殺虫剤式火炎放射器から指を離せば、それは消える筈や。
噴射した炎が殺虫剤の缶の中まで逆戻りするとは思えない。なったとしても多分、時間の猶予はある筈だ。だから戸に火がついたら直ぐに指を離せばええ。
血脇弓弦は頭の中でその行為を数回思い浮かべた。
出来ると思った。そして弓弦はスズメバチを皆殺しにする為の行動にうって出た。
スコップで巣を切り落とし、穴まで転がし落としたが、警戒していたスズメバチは襲ってくる所か、1匹も現れなかった。
弓弦は念の為に戸で穴を塞ぎ、外に餌を取りに行っているだろうスズメバチが戻って来るのを縁側に座り待っていた。
だが、待っても待ってもスズメバチの姿を見かける事はなかった。つい最近まで頻繁に飛び回っているのを目撃したのにどうしたのだろう?と弓弦は思った。
それに、ついさっき巣をみつけ燃やす事を思いついた時にも数匹見かけた筈だ。なのにその姿もない。
「変やな」と弓弦は思った。
別な場所に巣を作り直したのか?とも考えた。
スズメバチがちゃんとした巣があるのに別な場所に新しい巣を作ったりするのかは知らないが、とにかく幸いな事に今はそのスズメバチはいない状況だった。
巣が無ければ他の場所へ行くのだろうからどちらにしてもこの巣は燃やしてしまう方がいい。
弓弦は思い、一旦、閉じた穴を塞いだ戸を引きずり戻した。
蜂の巣の中を見てみたかったからだ。
スズメバチがいないなら何も怖がる事はない。
巣の中には翌年、女王蜂となる幼虫がいるらしいし、そいつの為に餌を取りに行く働き蜂や女王蜂一匹で作られて来た巣を女王蜂に代わって完成させる為に生まれて来る働き蜂の幼虫も見て見たかった。
最近、家の周りで見かけていたスズメバチはきっとそのどちらかの役割を持った蜂に違いない。そんな未来の女王蜂や幼虫を弓弦は見てみたかったのだ。
スズメバチの姿が見えない今、弓弦は巣を焼く事よりもそちらの方の興味が強くなっていた。
弓弦は穴に落としたスズメバチの巣を取り上げ地面に置いた。
広げた両の指を巣に突き刺し、刺した指を握る形で閉じ巣から手を引き抜いた。
その時、中にスズメバチがいるとは考えもしなかった。理由は一匹も見かけなかったからだ。
それを2度繰り返すと巣の中がはっきりと見えるようになった。
それをみた弓弦は、思わず手を止め生唾を飲み込んだ。そこには蜂の巣特有の巣穴は1つとしてなかったのだ。
それにも驚いた弓弦だったが、それ以上に弓弦を驚愕させた事があった。
それは未来の女王蜂の姿だった。まだ幼虫の筈なのに、その大きさといったらなかった。
殆ど弓弦が落とした巣と変わらぬ大きさだったのだ。
こんなのはありえないと思った。突然変異というものだろうか。
だとしても目の前の女王蜂の幼虫の姿を現実として受け入れる事が中々出来なかった。
おまけに幼虫のくせにその背には6枚の羽がついていた。そして大きな身体をうねらせながら、女王蜂の幼虫は小さな数本の足を器用に使い何かを食べていた。
女王蜂が何を食べているのか気になり弓弦は顔を近づけた。その口には働き蜂が咥えられていた。
まだ生きているのか、働き蜂が必死に逃れようと身悶えしていた。だが、それが出来ない事は覗き見ている弓弦と女王蜂だけが、わかっていた。
働き蜂の身体のパンフ、下腹部は既に食われた後のようだった。羽は千切れ女王蜂の側に落ちている。
威嚇や飛んでいる所で見かけると、一瞬恐れを感じるその黄色と黒のその凶悪な顔もこの時ばかりは、弱々しく弓弦の目に映った。
辺りにスズメバチの姿が見えなかったのは、恐らくこれが理由だと弓弦は思った。
子を喰らう異形の女王蜂の幼虫が弓弦の目の前で優雅に捕食を楽しんでいる。
その他の蜂や、スズメバチの生態なんてそこまで詳しくは知らないが、やっぱりこれは違う気がした。
今、自分が目にしているのがカマキリならわかる。
メスはオスを食うからだ。だがスズメバチは違う。
相手が死骸なら餌として持ち帰る事もあるだろうし、ミツバチや他の蜂になら襲って殺す事もある。
でもそれは成虫対成虫の話であって、幼虫の姿のままで、成虫の働き蜂を捕食するなんて……これは間違っていると弓弦は思った。
こんな奴が生まれる事を許しちゃ駄目や。もし、自分が巣を落とさなければ、やがてこの巨大なスズメバチの幼虫は女王蜂としては脅威的な大きさの成虫となっただろう。
恐らくそのような女王蜂に刺されたら人なんて即死するかも知れない。
いや、むしろそっちよりも人の皮膚や耳に噛みつき食い千切ったり、肉を食い破り体内へ侵入してまで人を食い尽くすのではないか。
こんな妄想は普通、大袈裟すぎて笑える筈だが、目の前に6枚の羽をつけた巨大なスズメバチの女王を見た今、弓弦は自分の妄想に全く笑えずにいた。
「直ぐにでも殺さんと駄目や」
弓弦は灯油缶の蓋を開け、女王蜂の幼虫へぶちまけた。同時に幼虫についている事自体あり得ない6枚の羽が、扇風機の羽が出すようなブォォォという羽音を立てた。
にも関わらず、この未来の巨大女王蜂の幼虫は働き蜂を食べ続けていた。
その姿に弓弦は怖気を覚えた。蕁麻疹のように全身に鳥肌が立った。暑さで汗が流れているのに寒さすら覚えた。
女王蜂の幼虫は、捕食していた働き蜂を食べ終えると今度は、ガチガチと下顎を鳴らし始めた。
後になってわかった事だが、下顎を鳴らすのは威嚇行動らしかった。つまり弓弦に対してこれ以上何かしたら許さないぞと女王蜂の幼虫は言っていたのだ。
だがこの時の弓弦は羽音とガチガチと鳴らされた下顎の音よりも、その存在自体に恐れを抱いていた。
実際、生態から考えれば幼虫から蛹、そして成虫になるのだから、この瞬間にいきなり襲われるとは全く考えられない。あり得なかった。
だがこの女王蜂の幼虫は、弓弦にそう思わせる程の、迫力があった。
その迫力と繰り返し鳴らされる羽音と顎を打ち鳴らす音の重複音が、弓弦の恐怖心を、心の中から全身へと広げ続けた。
こんな怪物、早く焼き殺してしまわんといかん!
だが、その気持ちはまだ恐怖心に勝てなかった。
だから弓弦は灯油缶が側にあっても、ライターと殺虫剤を手にしても異形の女王蜂の身体には中々、火をつける事が出来なかった。羽音は更に大きくなり弓弦を怯えさた。
どれくらいそうしていたのだろう。ふと我に返った弓弦は、意味不明な叫び声を上げながら女王蜂の幼虫へ向けて灯油をぶちまけた。
そしてライターの火をつけ、少し離れた所で殺虫剤を噴霧した。
火を噴霧した所へ近づけると、殺虫剤は直ぐに殺虫剤式火炎放射器へと変わり、弓弦は地面に置いたスズメバチの巣と同時に女王蜂の幼虫へとその火炎を向けた。
あっという間の出来事だった。火炎の先が巣と女王蜂の幼虫に触れた瞬間、弓弦の前に火柱が立ち登った。
驚いた弓弦は思わず殺虫剤を手放しその場に尻餅をついた。ゴォウと立ち登る炎の中で女王蜂の幼虫は身を焦がすその炎の熱に身悶えていた。
業火の中にあっても、異形の女王蜂はその威厳を保ち続けようと、6枚の羽は動かし続けた。
焼かれる炎の中で蠢き回り、更に不快な程のブォォォという羽音を鳴らした。瞬間、女王蜂は持ち上げる事など不可能に思えたその巨大な身体で突然、飛んだ。
火の玉のようなそれはとてつもない速さで弓弦の耳へ飛びついた。
「熱ちぃ!」
咄嗟に弓弦は女王蜂を叩き音そうとした。だが炎を纏った女王蜂はそれを許さなかった。
弓弦の耳に噛みついた。耳の肉を噛み千切るとそのまま耳の中へ向かって這いずり出した。
弓弦は指が焼かれる熱さに構わず女王蜂を捕まえた。皮膚が焼ける焦げ臭い匂いが鼻をついた。
弓弦は火の玉のような女王蜂の幼虫を地面へと叩きつけた。だがまだ死んでいないのか羽音が鳴り続けていた。
それすらあり得ない事だった。
「なして焼かれとんのにこいつの羽は燃えんのや!」
怒りと同時に弓弦は足を振り上げた。噛み千切られた耳から血が滴り落ちる。
その血が地面に落ちたのが目の隅に映った。同時に激痛が耳に走った。
数秒から数分、弓弦は耳をおさながら痛みを堪えていた。その間、振り上げた足は下ろされ、焼け焦げていく女王蜂を見下ろしていた。
巨大で異形なその命に必死にしがみつきながら、女王蜂は己の命が果てるまで決して羽音を止める事はなかった。
その姿はまるで命が尽きるその時まで死の淵にしがみつき、抗う異形な己の姿を、呪いのように弓弦の目に焼き付けようとしているようだった……
弓弦がその光景を目にしてから数日後、食いちぎられた耳の痛みもほぼ治まり出した頃、突然、耳の奥から羽音が聞こえた。
最初それは小さく鳴り響いた。ただの耳鳴りかと弓弦は思った。だがその羽音は数時間も経たずに大きくなっていったのだ。
「ワシはあいつに呪われたんか」
弓弦がその羽音があの女王蜂の出していた羽音と気づくまでそう時間はかからなかった。
数日鳴り止まなかった時は、さすがに耳鳴りの事をお母ちゃんに話そうかと思った。けど妊娠している時に余計な心配をかけたくないと弓弦は考えた。
鳴り止まない事で弓弦はずっとイライラしていた。そのイライラがある時、爆発した。
雷鳥と行った夏祭りで買ったいいが、半分も使っていなかった爆竹がある事を思い出し、それをライターと一緒に持ち、自転車に乗って家を出た。
爆竹に火をつけては見境なく民家や畑へ向け放り投げては逃げてはを繰り返した。
弓弦はいつしか随分と家から離れた河原の橋の上まで来ていた。そこで新たな爆竹に火をつけようとした時、見たことのある顔が軽トラに乗ってゆっくり近づいて来る。目が合った。柏木のジジイだと弓弦は思った。
その顔を見て弓弦はお爺ちゃんから聞いた話を思い出した。確か、随分と昔に柏木のジジイの子供がこの橋の下を流れる河の中で死体となって見つかったらしい。
それは夏の日でこの町に大きな台風が直撃していたらしい。自分の子供が死ぬとどんな気持ちになるんやろな。弓弦は近づいて柏木のジジイの軽トラを見ながら思った。
「ワシの耳の中におる女王蜂はの、自分の子を平気で食うとったんや」
軽トラが弓弦の側を通った。柏木のジジイの顔がハッキリと見えた。向こうも弓弦を見返した。
瞬間、柏木雫の顔がジジイの顔ととって変わった。弓弦は急いで爆竹に火をつけた。
雫に向けて爆竹を投げつけた。爆竹は軽トラの空の荷台の上へと入った。パンッ!と乾いた破裂音がした。軽トラが急ブレーキを踏んで止まった。運転席のドアが開いた。出てきたのは柏木雫ではなかった。柏木のジジイだった。
「何や、雫やのうてジジイか」
弓弦は舌打ちをし、急いで自転車に跨った。後ろを見ながら必死にペダルを踏み込んだ。
柏木のジジイは軽トラのドアの上に手を置いたまま、
「こらぁ。弓弦!何しよんな!」
と怒鳴った。 弓弦はそんな柏木雫のお爺ちゃんに向かって舌を出し笑った。
その僅かな時間、弓弦はすっかり耳鳴りの事は忘れていた。
鳴ってはいたのだろうが、気づかなかった。
だが、柏木のジジイが追いかけて来ない事がわかると再び、やかましい程に耳の中で羽音が鳴っていた。
それさ永遠に続くと思われた。だが山へ行き、カエルを捕まえ肛門や口の中に爆竹を押し込み破裂させたり、虫を焼いたりしている内に、いつしか耳鳴りが治っている事に気がついた。
その事が弓弦にとある考えを呼び起こさせた。それは耳鳴りを止めるには何かを、生きたものを焼き殺したら止むのではないか?という事だった。
その考えが浮かんだ弓弦は、羽音が始まる度に生き物を焼き殺すようになっていった。一匹で鳴り止み数日、鳴らないと思えば、10匹焼き殺しても治らない事もあった。理由はわからなかった。
けど弓弦なりにその理由と答えは持っていた。
つまり羽音は女王蜂の呪いであって、その呪いから解放されるには異形の女王蜂がやりたかった事、弓弦に焼き殺されない世界にあった生きていた自分を女王蜂が見たがっているのではないか?という事だった。弓弦はそのように考えたのだ。
羽音が直ぐに止む場合は、女王蜂が満足した時で、中々治らない時は物足りないという事。
つまり弓弦は羽音を止める為に、いつしか女王蜂へ忠誠を誓う働き蜂に成り下がっていたのだった。
けれど当の本人にそのような気持ちはなかった。当たり前だ。弓弦は人間なのだ。
異形といえど殺したのは所詮、虫一匹だ。殺した今、女王蜂の事など恐れてはいなかった。
単に、耳の奥で鳴る羽音がウザくて、イライラし、そのイライラが始まると自分でも何をしでかすかわからない事が嫌で、生き物を殺しているだけに過ぎなかった。
昆虫や爬虫類なんてその程度のものだ。人間の世界にいても大して目障りでも邪魔にもならない存在。
そんな生き物なら幾らでも焼き殺そうが誰も困らない。だから殺す。自分の為に焼き殺す。
火力が足りず叔父さんのように真っ白な骨にはならないが、まぁ今はそれでも良かった。それで耳鳴りが治るのだから。
そんな羽音は随分と長い間、聞こえなかった。
むしろもう治ったと思った程だった。
だがそれは間違っていた。雷鳥と会ってから直ぐ、それまでの弓弦を嘲笑うかのように再び、耳の奥から聞こえ出したのだ。
これが起きると自分の気持ちが不安定になり、イライラが始まる。
1人の時ならまだいいが、今は側に雷鳥がいた。
今更、用事を思い出したからと言える筈もなく、弓弦は雷鳥の後からついて行っていた。
だが羽音が最後に起きた時、今までと違う症状が起きた事は忘れる事は出来なかった。
初めての事で弓弦は慌てた。それは最初に頭が割れる程、痛くなり、その後で何故か顔を除いた全身に蕁麻疹が現れ、やがて焼けたように赤くなる。
肌の白い人が日焼けしたみたいになってしまうのだ。そしてその肌には次から次へと酷い火傷の後のように水ぶくれが出来始める。
それは穏やかな風が触れただけで痛みが起こった。そのような水ぶくれが全身まで広がるとその場所が何処であろうと、弓弦は絶対にその場から動く事が出来なかった。
動けば熱した鉄骨で殴られたような激痛に全身が襲われるからだ。
だが、その水ぶくれも焼けたような肌の赤みも、伴う痛みも、焼き殺せば治った。
新たな症状に対してはたった1度の経験しかないが、それを踏まえれば何とか対処出来るのではないかと弓弦は思った。
自転車を漕ぎながら、最大の痛みまでは5時間くらいが目安かと弓弦は考えた。
それだけの時間があるなら、充分、雷鳥に付き合える。
それに生き物を捕まえそいつを焼き殺す事で、身体の痛みの時間短縮や水ぶくれが現れないようにする事が可能な筈だ。
ただ殺されるだけの生き物も焼き殺される事で、弓弦の身代わりを果たしているのかも知れないが、それがどうしたというのだ。弓弦はワシが生きる為ならなんぼでも焼き殺しちゃる。
いわば弓弦の生の為だけに、生き物のその命が生贄としての役割を果たしているのだ。
現実にそのようなことが自分に身に起きたのだから、それを信じないわけにも、殺さずに我慢する事もあり得なかった……
「この辺りでいい?」
自転車を止めた雷鳥が後ろを振り返っていった。
河原ならどこだろうと構わない。弓弦は何かしら生き物が捕らえられれば良いと考えた。
雷鳥が集めた枯葉や枯れ草に火をつけた後で、その中へ生き物を投げ捨てようと考えていた。
雷鳥にバレずに上手く出来れば、上手く行けば激しくなりつつあるこの羽音も直ぐに治るかも知れない。そうなってくれれば、雷鳥自身に自分の嫌な姿を見せずにすむ。
弓弦は、女王蜂の呪いを受けない為に、身代わりとしての生贄を、雷鳥が側にいようと常に必要としていたのだった。




