断章四
六月二十五日、午前三時過ぎ。
「ちょっと休もっか」
前を歩いていたミカが歯痒そうに言う。私は内心、ほっとした。もちろん反対する理由はない。足はもちろん、もう腕が限界だったから。
なるべく平坦な場所に、ふたりがかりで運んできたものをそっと降ろす。
手の平を見てみると、案の定、真っ赤に腫れていた。まるで猫の肉球みたい。特に指はひどくって、所々にマメができている。感覚は薄れ、なのに熱い。どう見てもギリギリだ。しかし、弱音を吐ける状況ではなかった。
適当な木に背中を預け、私はずりずりと音を立てて腰を下ろした。湿った土や葉にお尻をつけることについては、とっくに気にしなくなっている。なにしろ全身、汗と泥でぐちゃぐちゃだ。
山に入ってからの三時間余りで、もう何回、休憩を挟んだだろうか。おかげで、なかなか目的地に着かない。私も、予てから計画を練っていたはずのミカも、甘く見ていた。山を。暗がりを。そして、人間ひとり分の重さを。
私はバッグから、スポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出した。握力が衰えているせいで苦戦したけれど、なんとかキャップを外すことに成功。一気に飲み下し、むはぁっと息を漏らす。こんなときでも、からだをうごかしているときに摂る水分は、おそろしく美味しい。近くで休んでいたミカが、こちらに顔を向ける。ふたりで軽く笑い合った。
そのあとは、無言の休息。なにしろお互い疲れていたし、私はミカにどう声をかければいいか、わからなかったから。
静かな闇の中、私はお社での、ふたりと共有した短い時間を思い返す。歪で奇妙で、眩しくて。そして、かけがえのない非日常。もう、あの日々は戻ってこない。絶対に。二度と。
「行こう」
十分ほど経ち、ミカが強い意志を感じさせる声で言った。
私は頷いた。膝に手を当て、ゆっくり立ち上がる。
「もう少しだから」
ミカはまたそう言った。
そして再び、あの人の乗る担架に、ふたりして手を伸ばした。