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第二章 少女には向かないお仕事

 私の胸の鼓動は授乳中の赤ちゃん猫の喉みたく、トクトクトクトク、せわしなくうごいていた。眼球がピンボールのように跳ねているのが自分でもわかったし、脂汗が止まらない。とにかく、ひどく動揺していた。

 どれくらい時間が経っただろうか。とりあえず口を開けるほどには回復したとき、私はまず、横にいる派手なビジュアルの女の子に声をかけた。

「あ……アザミさん。君、ちょっと来て」

 この頃には、彼女はさっきの能面みたいな表情を脱いで、これまでと同じ陽気な笑みを浮かべていた。

「えー、なにー? ミカでいいよぉ。あたしとサトコの仲じゃーん」

 そういえば名字とはいえ、この少女の名前を声に出すのは、これが初めてだった。だけど、もう。本当。そんなことはどうでもよかった。

「いいから、ちょっと。ちょっと来いよ」

 私はアザミミカの両肩を掴み、半ば引きずり下ろすようなかたちで階を一段、二段と降りる。

「あれー。なんかしゃべり方、変わってない?」

「うっせー! どういうこと? 話が全然ちがうでしょ!」

 動揺。混乱。怒り。そして、たしかな恐怖。私の胸中で多くのものが芽生え、暴れていた。それでも、なるべくお社の中までは届かないよう声を抑え、ミカを責める。肩を揺すぶる。誠に遺憾ながら、揺れる胸を楽しむ余裕はなかった!

「ちょ、ちょっとこわいよ。力が強い。圧がすごい。田舎のヤンキーみたい」

「『田舎の』って付ける必要ねえだろ! なに、なに。なんで。なんで男の人がいる?」

「落ち着いてよー」

 なにがおかしいのか、ミカはキャラキャラと笑っている。想定外の事態に焦る私と対称的で、随分のんびりしたものだった。もしかしたら、意図的に演じているのかも。けれど私に、その真偽を計る術はない。

「さっきサトコも訊いてきたっしょ? ここでなにか飼ってるかって。アレがそうだよ」

 中にいる青年を指差し、ミカは平然と告げた。

「いや訊いたけど。いやいやいやいや、まさか人が住みついてるなんて思わないしっ」

 そもそも人間をペット扱いすんなよ。奴隷商人か。

 ていうか私、さっきなんて言った?

 お社にいるのは、子猫や子犬だと思い込んでて。その考えをミカに明かしたとき。すかして、なんて言った?

 ーーまあ、そんなところかなって

 ーーま、大したことじゃないよ

 ーーわかった、タヌキだ。キツネ?

 そんな気取った言動を経ての、この取り乱しようである。

「っきゃああああああ」

「うえぇっ?」

 羞恥が私に火をつけた。勢いに任せ、ミカの首めがけて両手を伸ばす。しかし、これにはさすがに向こうも抗った。結果、私たちは手と手を取り合い、段を降りたり昇ったりしながら、もつれ合う。

「なーにが『サトコは冴えてるねえ』だ! ばかにしやがって。ばかにしやがって!」

「ちょっ、なにす……いたたた! 髪挟んでる、髪!」

 私の怒りの猛攻は、残念ながら彼女の息の根を止めるまでには至らなかった。手四つで押し合い引き合うふたりの力は拮抗し、ジリ貧状態。やがて、じわじわ私の昂りがしぼみだしてきた辺りで、「あの」と〈待った〉がかかってしまう。

 お社の中から再び響いた、例のしっかりした声。私はおずおず、声の主へ顔を向ける。青年は、やさしく微笑んでいた。

「よかったら、こっちで話さない? 万一、人に見られたらマズいしさ」

 たしかに、それは……たぶん困る。正面に顔を戻すと、ミカが鼻息を荒くしながら頷いた。その間の抜けた様子に、なんだか私は肩の力が抜けてしまって、

「はい。……わかりました」

 そうして、ようやく手を離した。

 両手が自由になったミカは髪先をいじり、「んもー、勘弁してよ」などとほざいた。そして、こちらが言い返すより早く、お社の中へと踏み込んでいく。私は身構え、少し遅れて彼女へつづいた。

 このお社には照明器具すら付いていない。だから目が慣れたとはいえ、それでも中は暗かった。その上、体重をかけるたび、ぎしぎしと軋む床板にも、いらん不安をかき立てられる。一歩踏み出すのにも勇気が要った。

 ふと、青年の近くまで寄ったミカが身を屈める。少ししたら、室内にオレンジ色の光が灯り、広がっていった。明るい。近づいて覗くと、彼女の前には、キャンプで使われるような電池式のランプが置かれていた。

「扉、閉めといてくれる?」

「ああ、うん」

 そういえば半開きのままだ。私は言われた通りにしようと、一旦引き返した。そして扉の内側に付いている簡素な取っ手に触れる。ざらりとした感触が指を這い、パッと手を離した。錆とカビによって、一瞬で黒ずんでしまった指先。それを見て、なんだか腹が立ってきた私の脳裏に、このまま駆けだして家に帰っちゃおうかな、なんて妙案がよぎった。

 そぉっと振り返ると、なんとミカと青年は、どちらも黙って私を見ていた。思わず息を呑む。ふたりして、こちらを上目使いに窺う素振りは、異様にそっくりだ。私は薄ら寒いものを感じて扉に向き直り、親指と人差し指で取っ手を摘んで素早く閉めた。

 わかってる。どうせ逃げたって、また家に押しかけられるんでしょ。だったら、もう。腹を括るしかない。大体、まだ、なんの説明も受けていないのだ。

 口を結び、彼女たちが待つ左奥のスペースへと向かう。そんな私に、ふたりは同時に口角を上げ、やさしく微笑みかけてきた。ひょっとして、逃げるかどうか試されてた? 実験動物モルモットと、そのうごきを観察している研究者を連想し、私は密かに苛立ちを募らせた。

「こんにちは」

「……ど、どうも」

 間近にて再確認。私たちを暗がりで待ち構えていたのは、もちろん猫でも犬でもタヌキでもなく、ひどく痩せ細った青年だった。

 辺りの床に散らばる、無数の新聞紙。その中央には、横幅の短いマットレスが敷かれている。これもランプ同様、持ち運びに適したアウトドア用品なのだろう。彼はその上で寝袋に入ったまま身を起こし、上半身だけ覗かせていた。

 離れた距離からでは気づかなかったけれど、黒いニット帽を目深にかぶっている。頰はこけ、目は窪んでいた。辺りが暖色に包まれていても、肌が白いのは十分に見て取れる。まるで、溶かしたロウソクを全身の素肌に塗りつけでもしたみたい。顔全体のふくらみが少ない分、相対的に耳は大きく感じた。半袖シャツから伸びた腕は、私のものより、ずっと細くて頼りない。

 彼のまわりーー新聞紙の上にはランプのみならず、大小さまざまの物品が転がっている。ラジオ。座布団。タオル。洗面器。ティッシュ箱。水の入ったペットボトル。大きなポリ袋。あれやこれや。中でも目立つのは、やはり寝袋だ。痩せこけた青年の半身をすっぽり呑み込んでいる黒い寝具は、人喰いの大魚を思わせる迫力があった。

 私が新聞紙の前で立ち往生しているうち、青年が肩を揺らして咳き込みだした。痰の絡んだ、あまりよくない咳。

 ふいに、既視感がよぎった。似た光景に見覚えがあった気がする。なんだったっけか。

 咳き込みつづける青年の背中をさすりながら、ミカが言う。

「こっち来て座んなよ。座布団、サトコの分も用意しといたから」

「ああ、うん」

 記憶を辿る暇はなかった。

「あ。新聞紙の上、スリッパは脱いでね。土足厳禁ですよ、お客さん」

「あんたが言うな」

 おどけた嫌みったらしいセリフに毒づき、それでも私は従った。床に重ねられた新聞紙を靴下越しに踏む。白いソックスにインクが付着しないか、少し心配。

「手、アレ使って」

 膝立ちして青年の背をさすっているミカが、目の前にあるウェットティッシュのボトルを顎でしゃくった。手の汚れを拭けということらしい。

 私は言われるままに一枚抜いて、汚れを念入りに拭う。多少マシになった。つづいて、指差されたポリ袋の中にティッシュを放る。そして私は彼女の隣、青年の左足の近くに置かれた座布団へ腰かけた。柔らかい、厚手の敷物の感触に、どこかほっとする。

 青年の方は咳が鎮まったようだった。ミカに手渡されたティッシュを口元に当て、ぜいぜい言っている。あまり見ていて愉快なものではないので、私はふいっと視線を逸らした。

 そのとき、薄れかけていた記憶が甦った。

 そうだ、この光景。小学校へ上がったばかりの頃に亡くなったおじいちゃんの部屋が、似たようなかんじだった気がする。いや、もちろん、こんな不衛生な環境下ではなかったはずだけれど。

 おかあさんがお世話をさせられていた、父方の祖父。必要最低限の品物だけに囲まれた寂しい部屋で衰えていく、痩せこけたおじいちゃん。あの景色とそっくりだ。

 ミカは湯呑みにペットボトルの水を注ぎ、ストローを差した。それを青年の手にある、まるめたティッシュと取り替えるようにして渡す。青年は無言でストローに口をつけた。手慣れたやりとり。いまだ頭が追いつかない私を尻目に、ふたりはこの状況にかなり馴染んでいる。無断でお社に侵入している彼女たちより、なんだか自分の方が場違いみたいだ。

 青年は顔や首に肉がない分、頰や喉の膨らみは顕著だった。飲んだ水がからだのどこをどう通っていくのか、はっきりわかる。私は彼を眺めながら、これ以上、奇異な現状に慌てふためくまいと奥歯を噛み締めた。

「ふう」

 水を飲み終えた青年は息を吐き、湯呑みを床に置いた。

「いや、失礼。一度咳き込みだすと、どうにも止まらなくなっちゃってね。人に感染うつるような病気じゃないから、その辺は安心してくれるかな」

「……はあ」

 風邪などの感染症ではないということだろうか。鵜呑みにはできない。そんな言葉を危機感ゼロで受け入れられる人間は、現代日本に存在すまい。しかし、慣れた様子で彼の世話をするミカが健康そのものといったていでいるので、あながち嘘ではないのかも。

 私がどう答えようか迷っている間に、青年は眉を顰め、苦笑してみせた。

 そして、

「驚かせてしまって、申し訳ない」

 私に向かって頭を下げてきた。咳がつづいたことに対しての謝罪でないことは、切々とした口調で、すぐにわかった。初っ端、私が取り乱した件についてか。青年は二の句が継げない私や、横でにまにましている小癪なばか女に、やさしく語りかけた。

「まさか僕について、なんの説明もしていないなんて思わなかったから。こっちもびっくりしたよ」

「はっはっは」

 笑って済まそうとすんな、ばか女。

「きちんと説明しなくても、頼めばちゃんと来てくれる。わかってくれる。サトコはあたしが見込んだ、都合のいいお人好しなわけよ」

「……喧嘩売ってんの?」

 調子のいいヤツ。さっきは遅刻したことをねちねちなじってきたくせに。大体、こいつが私のなにを知ってるっていうんだ。腹が立つから、もう放っとこう。

 私は青年におそるおそる訊ねる。

「あの、お名前を伺ってもいいですか?」

 普段、滅多に縁がない、若い男性とのやり取りだからだろうか。もしくは特異な状況ゆえか。さっきまでの興奮はすっかり霧散していたが、それでも声が震えてしまった。

「ああ、失礼したね。……クワマチ、ナオです。よろしく」

 涼やかで落ち着いた、大人の異性の声が耳朶をくすぐる。私は、「あ、ど、どうも」と、たどたどしく応えた。しかし、ばか女が横で、にやーっと憎らしい顔を浮かべているのにハッとなり、気を引き締め直す。

「どうして、こんなところにいるんですか?」

 そもそもの疑問を訊ねる。おそらく一昨日、私が掃除をしに訪れた際も、この場でこうしていたのだろう。あのときは境内掃除とミカにばっかり意識を向けていて、気づきようがなかった。

「やむにやまれぬ事情……と言えば、見逃してもらえるのかな」

 彼は申し訳なさそうな顔を浮かべて、一度言葉を切った。私はごくりと唾を呑む。いやな予感しかしなかったからだ。

「僕はさ、島の外から流れてきた逃亡犯なんだ」

「……は」

 その爽やかな声音は、不穏な湿りを帯びていた。


「今日は顔合わせってことで、ここまでにしとこっか」

 そう言ってミカが早々に切り上げてくれなければ、私はさらなる醜態を晒していたかもしれない。まあ、あの場で再び暴れる気力なんて、とっくに残ってはいなかったのだけど。

 とにかく、わからないことだらけだ。なにをどう判断すべきか、私ひとりの頭では答えが出ない。

「どういうつもり?」

 帰り道。石段を降り切り、砂利の敷き詰められた坂道に差しかかった辺り。そこで私は改めてアザミミカを糾弾した。だが彼女はどこ吹く風といった様子で、道沿いに生えた青いススキを撫でている。

「アザミ。聞いてる?」

 私は彼女の前に立ち塞がり、遊んでいる手を掴んでキッと睨みつけた。私ときたら、ここ数日はなにかに振り回されっぱなし。そして、その大半の元凶はこいつなのだ。これ以上イライラさせられるのはごめんだった。

 一方、

「あー」

 目の前の美少女は口をぽかんと開けて、間の抜けた声を出した。私が怒りのあまり、口の中に砂利でも詰め込んでやろうかと企て始めたところで、やっと視線が合う。

「ミカでいいってばー。あたしも、ずっとサトコって呼んでんだし」

「あんた人の話を」

「アザミミカ。呼ぶときはミカね。よろしく」

「……ああ、はい。ミカ。よろしく」

 その強引な調子に、私はどうにも主導権を握れない。もどかしい。そして、むず痒い。同年代の子の下の名前を声に出して言ったのなんて、いつ以来だろう。付き合いの長いシイナすら、何年も呼べていないのに。

「で、さっきのこと訊きたいんだけど。まずさ、うちの神社に、なんで勝手に人が上がり込んでんの?」

「あー……うん。うん?」

「おいっ」

 ミカの返事は、まるで「そんなこともあったっけね」とでも言うような、ぼんやりしたものだった。なんとも腹立たしい。

「ハイハイ、そうね。気になるよね」

 彼女は軽く二度頷き、こちらの手をするりと振りほどいた。

「なんていうか……あの人、拾ったんだよね」

「拾ったあ?」

 思わず間延びした私の返事に、彼女は元気よく頷く。

「そう、拾ったの。あたし、ばあちゃんの家にいるって言ったじゃん? でも退屈だから、あっちこっちをうろうろしてて……そしたら、行き倒れみたくなってるナオくん見つけてさー」

 粗い説明ではあるが、おぼろげに想像はできた。しかし、まだまだ疑問は多い。

「だから、あの神社に連れ込んだっていうの?」

 かろうじて、「頭どうかしてんじゃない?」というセリフは呑み込んだ。

「そうそう。実はこの辺、ちっちゃい頃に島に来たとき、探検したことあるんだよね。で、あそこなら、なにか隠しとくにはいい場所かなーって思いついて」

「……神域を子どもの秘密基地扱いしないでほしいんだけど」

 一応、私の予想は当たっていたわけだ。もちろん人間と犬猫とでは、まったく話がちがってくるけれど。

 それでもミカの言い分を聞いて、少しは納得できた。地元の人間だって滅多に寄らない、ほぼ廃墟に近い神社。一時的にでも人を匿うには、意外と最適の場所なのかも。

「それ、いつ頃からの話?」

 ひょっとしたら一昨日のみならず、私がゴールデンウィークに掃き掃除をしに行ったときも、お社の中にあの青年がいたのかもしれない。下手するとミカも。それは私にとって、やや由々しき事態であった。

 は、鼻歌とか聞かれてなかったかな。

「えーっと先月……五月の終わりぐらいかなー。よく覚えてないけど」

 私は密かに胸を撫で下ろした。でも、そうか。先月からか。ついでに気づいた。衣替えの前に島へ訪れたから、彼女の制服は冬服なんだ。

「で、死んだじいちゃんが使ってたキャンプ用品なんかをいろいろ持ち込んで、あそこでお世話しだしてさ。今日でかれこれ一週間? 十日くらい? はじめは特に大変だったよー。慣れない階段で行き来は辛いし、ナオくん全然うごけないし」

「う、うごけない、の?」

「からだ見たっしょ? あ、寝袋の中に入ってちゃ、わかんないか。もう全身ガリッガリ。初めて会ったときは、なんとか石段登るくらいはできたんだけど。いまは、もう。咳もひどいし、ありゃ、かなり悪い病気だね」

 そりゃあ咳は、あんな空気の悪いところに籠っていたら、いっぱい出るだろうさ。しかし、たしかに。彼のからだは上半身だけ見ても、ひどく痩せ細っているのは十分わかった。

「んでさ。最初は虫退治が本当キツくってー。蜘蛛の巣はヤバいし、Gはデカいし。あんなサイズのG、あたし初めて見たよ。こんなだよ、こんな。見たことある? もしかしてこの辺じゃ普通? 超こわくってさー、お社の外にナオくん置いて、ばあちゃんが買いだめしてた殺虫剤ごっそり持ってきてー」

「びょ、病院とか。連れてった方がいいんじゃないの。……それか、警察」

 身ぶり手ぶりを交えた長話を遮って、私は本題に切り込んだ。ミカのうごきがピタリと止まる。

 逃亡犯。彼は自らをそう名乗った。冗談で言っていいことじゃない。どんなに口調が弱々しくても。やさしげでも。その言葉は重く、そして危険だ。だって、犯罪者ってことだ。悪いことした、こわい人ってことだ。

「な、なにして逃げてきたのかな。あの人」

 私が不安に駆られて疑問をこぼすと、ミカは小さく口を開いた。

「なんかね、人を死なせちゃったんだ……って」

 数秒、呼吸を忘れた。

「死なせたって。……こ、こ、殺したってこと?」

「ナオくんは、そう言ってたよ」

 あっさりした物言い。それが逆に不安を煽る。

「本当?」

 ミカは肩を竦めた。

「どうだろ。そうなのかもね」

 あやふやな返事。しかし、ふざけているようには見えない。どうなんだ、これは。

「や、ヤバくない? ヤバくない?」

「……そうだね」

 こちらの危機感を汲んでか、ミカはわずかに口を歪めた。ばつの悪さを紛らわすような苦笑い。そして唇に親指を押し当てて黙る。考え込むときの癖なのだろう。たしか、初めて会ったときにもそうしていた。

 ミカはしばらく困り顔を浮かべていたが、やがて親指をパッと離した。そのつやつやした指の腹を、私はつい目で追ってしまう。リップのついた、甘そうな、親指。

「あたしだって、そりゃー初めは警戒しないでもなかったけどぉ。……でも、なんか。やっぱ悪い人には見えなかったんだよねー。ちゃんと免許証で名前も確認さしてくれたし」

「免許?」

「うん。保険として預かってる。見る?」

「……一応」

「じゃあ、はい」

 ミカはスカートのポケットから取り出したものを私に手渡した。たしかに彼の免許証らしい。現在ほど痩せこけてはいないが、細身の青年の顔写真が載っている。名前の欄には〈桑町直〉と記されていた。クワマチナオ……どうやら先程も、しっかり本名を名乗っていたようだ。記載されている住所は東京だった。

「な、名前。わかるなら、携帯で調べなよ。ざ、罪状とか。犯罪歴とか。そういうのって、インターネットで出てくるんでしょ」

 私は携帯電話もパソコンも持ってないから、よくは知らんけど。でも、そういうものだとテレビで言ってた。

 ちゅぽっ、と今度はしゃぶるようにして指をくわえたミカは、少ししてから口を開け、

「いやー、一応検索かけたけど、指名手配とかはされてなかったよ。……そうなると、逃亡犯ってのも眉唾だよねぇ」

 なんて、のほほんと答える。

「案外、ただの家出少年……青年? だったりしてね。自分を大きく見せようと、大袈裟に盛っちゃうことってあるじゃん?」

「まあ……うん。いや、でも」

 いまのこれは、いくらなんでも度が過ぎている。

「だからって、あんたが隠れ家紹介して、お世話してあげる必要あんの? 絶対危ないでしょ」

 そもそもが、行き倒れてたって? 知り合いばかりでごった返してる、こんな狭い、小さな島で? 怪しすぎる。

「いやー、針金みたいに痩せてる見た目以外は、普通のおにいちゃんってかんじだったしさ。それに一旦は手を差し伸べといて、あとから放り出すとかぁ。そんな、ひどいことできないっしょ」

「それは……そうかもしれないけど」

 でも、人を殺したって言ってる人を匿うなんて。なんだそりゃ。絶対やめた方がいい。

「あと、たぶん殴り合っても勝てるし」

 ミカは拳を構えて、シャドーボクシングの真似ごとをやりだした。すぼめた口からこぼれる、シュッシュ、シュッシュという息がうるさい。

 まあ、その余裕はわかる。かつてシイナから、「ローランドゴリラみたい」などという謎の褒め言葉を頂戴したことがある程度には、私は腕力には自信があった。そんな私の怒りの猛攻をこいつは凌いでいる。さらに先刻の言葉を信じるならば、あの青年はほとんど自力でうごけない、衰弱した病人だ。女子中学生でも、まったく敵わないってことはないだろう。

 でも、そんな考えは危険だった。体格、腕力の差なんて、包丁や殺虫剤、ボールペンなんかの日用品でもコロッとひっくり返ってしまう。たとえば父親に反吐を吐かされて以来、私がアイツと相対したとき常にペンを握りしめているのは、いざというときの用心と、心の平穏を保つためだ。子どもでも、準備と覚悟さえあれば大人とだって戦える。きっとそう。相手が弱いことは、けっして安全の保障にはならない。

「危ないよ」

 私はもう一度繰り返した。けれどもミカに堪えた様子はない。

「平気だってー」

「男の人だし、なにかあったら」

「あっはっはー、ないない」

 自信満々の笑顔。私の心からの忠告は、しかし、どうにも届かない。私は不満と、いくばくかの心配を募らせた。

「じゃあ、私が通報する」

「え」

 途端にミカの顔から笑みが消えた。

「だって普通に危険だもん。あんたがやらないなら、私が片付ける」

「ちょっ、ちょ。待って待って、マジ待って。それは困る」

 私にしてみれば、かなり真っ当な判断だと思うのだけれど、ミカには想定外だったらしい。さっきまでの余裕はなくなっている。攻守逆転。ほんのり小気味よい。

「あそこでトラブルが起きたら、私だって困るんだよ。うちの神社のブランドが落ちる」

「ブランド」

「……なんか文句あんの?」

「いや、ない……よ」

 目を逸らして言うミカへ当てつけるようにして、私はため息を吐いた。

 こいつのことは好きじゃない。むしろ嫌い。でも、このまま放っておいて大変なことになったら、さすがに寝覚めが悪いじゃないか。

「大体、今日まで人知れず匿ってたんなら、なんでわざわざ私を連れてきたの」

 黙っていれば、それで済んだはずなのに。

「いやー……それは」

「なに」

 言い淀むミカに、私は強気で迫る。これまでの鬱憤を晴らすかのような攻勢。我ながら性格が悪い。

「サトコなら、ダイジョブかなって」

「……ダイジョブって、なにが」

 初心うぶで大人しそうな田舎娘なら、黙認してもらえるとでも? 見通しが甘すぎる。

「手伝って、くれるかなって」

「手伝い?」

 まさか、あの青年の看病を? 私は驚き、戸惑った。一方、早くも元気を取り戻し始めたミカは、相好を崩してつづける。

「そうだよ。そんなにトラブルが心配なんだったら。……見張りがてらで、いいからさ」

 彼女は言葉を一旦切り、じっとこちらを見つめてくる。大きくて澄んだ瞳。吸い込まれそう。

「手伝ってよ」

 私は奥歯を噛みしめ、そんなメリットのない勧誘に乗るばかがいるかと、鼻息を吹いた。


 次の日の学校。昼休み、廊下でシイナとすれ違った。私はぼっちで、向こうは何人かのお友達とご一緒。ちらりと目が合う。シイナは笑いながら、こちらに手を振ってきた。それが友愛か、あるいは優越感から来るものなのか、わからない。不安になる。身が縮こまる。さらには百円ショップでのことが頭をよぎり、私は反応しなかった。視線を外して通り過ぎる。ほんの数秒の出来事。

「えっ?」

 背中越し、不思議とはっきり届いた、シイナの意外そうな声。

「どうかした?」と訊ねる友人に、シイナは「ううん、なんでも」と答え、そのまま去っていった。

 昨日までの私なら、きっと無理して愛想笑いを返そうとしただろう。でも、今日はなんだか耐え切れなかった。あの子の笑顔を不快に感じた。気持ち悪かった。

 昨日も笑ってたくせに。ほかのヤツらと一緒に、私を笑いものにしたくせに。

 私は自分のからだの震えを感じながら教室に戻った。

 これが私の日常。ちょっとのことで誰かを信用できなくなり、ぶつかることを避け、そっと距離を取る。そうして、ひとりぼっちになってきた。私だけの小さな世界。ひとりきりの、日々。


「遅いっ」

 前日同様、制服姿で鳥居に背を預けていたミカは、こちらの顔を見るなり言った。

 私は腰に手を当て、平然と応じる。

「いや、そんなでもないでしょ。昨日と同じくらいでしょ」

 なんでだろう、妙に落ち着く。こいつ相手なら、はっきり物が言える。

「昨日の時点で遅かったじゃん! 改善しようという意志が感じられないっ」

「うるさいなあ」

「はぁーっ?」

 ミカは口答えをゆるさなかった。腕を組み、面倒くさい彼女みたいな口調で私をなじる。

「大体さー、なんでケータイ持ってないの? 連絡取れなくて困んだけど。ホントに現代人? 友達いないと必要ないわけ?」

「あああ、うるさい、うるさいっ」

 こっちが少しでも黙ろうものなら、勢いよく捲し立ててくるから堪らない。しかも私、まだ友達がいないと認識されている。事実ではあるものの、一応は否定したはずだ。なぜ、こいつは信じないのか。

 それに携帯電話。たしかに便利そうだし欲しいけど、ぼっちの中学生が田舎で持ってたって、ネット依存症になるだけだ。そんな事態に陥るために、高価なおもちゃをあの男にねだるなんて、冗談じゃなかった。

 そんなことを考えている私の横で、美少女はぎゃいぎゃい喚いていた。

「あのさあ。うるさいって、なに。サトコが悪いんじゃん。常識がなってないんじゃん。あたし、なんか間違ったこと言ってる?」

 しつこい。ねちっこい。あと細かい。我が強くって、そして意外と束縛系。絶対付き合いたくないタイプ。

 ちょっと、やり返したくなってきた。

「ねえっ」

「なに!」

 まだまだ不満げなミカに、私はからかい半分で水を差す。

「その、胸を持ち上げてるポーズって、なんなわけ? なにアピール?」

「はっ?」

 虚を衝かれた彼女は高い声を上げ、わずかに頬を染めた。すぐに組んでいた腕を解き、気勢をそがれた様子で、ぼそっと答える。

「サトコのとちがって、重いから疲れるんだよ。アンタも大人になればわかんじゃね?」

「タメだろうがっ」

「うおっ」

 ミカがうろたえるほどの勢いで、つい吠えてしまった。いかんいかん、落ち着け私。もっとクールで知的な返しを……ダメだ、思いつかない。

「えー……そっちこそ大人になってから、垂れて泣けばいいのに」

「なんだとっ?」

 そうやって私たちは、ごちゃごちゃごちゃごちゃ低俗な罵り合いを繰り広げながら手水鉢で手を洗い、お社の前まで歩いた。つづいて私ひとり、昨日ポリ袋に入れて階の裏に隠しておいたスリッパを取り出す。ミカの分は、すでに一番低い段の上に揃えて置いてあった。

「もしかして、先に入ってた?」

「誰かさんのおかげで、時間が余ってたからねー」

 いちいち癇に障るヤツ。私は舌を鳴らしてからスリッパに足を差し込んだ。

 なぜ、ミカの誘いを断らなかったのか。

 ミカと、そしてあの青年が気になったから。あるいは彼女の身を危ぶんだ上で気持ちを汲み、様子を見ようと思ったから。もしくは単純に、強引な勧誘に根負けしたからかも。はっきりこれだと言い切れる理由はない。どれでもあって、どれでもない気がする。拒否する理由なら、十分あったはずなのに。

 だけど十中八九、ミカは初めから私に看病の手伝いをさせるつもりだった。だからこそ家まで押しかけ、約束を取り付け、お社に招き入れた。かなり勇気と覚悟のいる、リスキーな行動だったと思う。私が通報すると言ったとき彼女は慌てていたけれど、当然、秘密が露見する可能性は考慮していたはず。

 ならば、もし私が協力を拒んでいたら、より面倒なことになっていたかもしれない。歯向かうことで、なにかされる可能性があったわけだ。大袈裟だとは思わない。だって私はあの青年はもちろんアザミミカのことだって、まだ満足に知らない。信用ならない。ゆえに、ここまでの判断は間違っていないのだ。たぶん。

 しかし、どうにも奇妙だった。

 ヤツの目論見通り、まんまと踊らされている自分に腹が立つ。状況はどう考えても怪しいし、おっかない。それらを重々承知だというのに。私はなんだか不思議と。昨日より、さらに。わくわくしていた。

 お社の扉はミカの手により、今日も年季の入った音を軋ませて開いた。私は中をそっと覗き込み、しばらく目を慣らす。だんだん見えてくるのは、やっぱり昨日と同じ光景。

 カビくささを堪え、ゆっくり息を吸い込んだ。落ち着いて昨日のやり直し、仕切り直しだ。彼と改めて向き合わねば。

「ああ、いらっしゃい」

 やつれながらも爽やかな風体のナオさんは、まるで自宅への来訪者に対してそうするみたいに私たちへ声をかけてきた。自称逃亡犯で、ひょっとしたら人を殺しているかもしれない青年。そんな風には、とても見えない。やっぱり、話を盛っているというミカの見立ては正しい気がしてきた。そうであってほしいと思った。

 ふいに、暗がりの中にいる彼と目が合った……気がした。

 そして、

「よかった。また会えた」

 そう投げかけられた私は扉の横に突っ立ったまま、「ど、どうも」と、どぎまぎしながら挨拶し返す。耐性ゼロ。だって仕方ない。佐藤郷子は昨日まで、若い男性から親しげに話しかけられた経験など皆無だったのだ。

 私は気持ちを切り替えるべく、彼から視線を切った。

 彼のことを抜きにしても、古びたお社の薄暗い室内は、やはり空気が重い。奥に供えられた、お酒やお米のシルエットでさえもが不安を煽る。思わず私は最奥に手を合わせた。

 ナオさんは、こんなところにずっとひとりで、こわくはないのだろうか。大人だから。男の人だから、平気なのかな。

 そんなことを考えながら目を閉じて拝んでいると、背中に手を回される気配を感じた。

「おいーっす」

 ミカは気の抜けた声を出しながら、私の背を押して中に入れ、扉を閉めた。そしてまた堂々と、我が家を歩くように進んでいく。果たして慣れか、鈍感さゆえか。私みたいに気後れしている様子は、まるでない。

 ミカがランプに明かりを灯し、闇が弱まる。私は内心ほっとした。彼女を早足で追いかけ、昨日と同じく、寝袋の横の座布団に座った。

「また来てくれて、ありがとう」

「い、いえ。別に」

 別に、お礼を言われるほどのことでは。気恥ずかしくって、最後まで言葉を紡げなかった。こんな陰気な場所なのに。逃亡犯だと名乗ったくせに。ナオさんの笑顔は、とても爽やかだ。

「今日もサトコは遅刻したけどねー」

 私の隣で、ミカがぼやいた。

「黙れよ」

 私はキッとなって切り返す。そもそも落ち合う時間は決めてなかったし、遅刻じゃない。

 ナオさんが肩を揺すって笑う。

「打ち解けたね」

「……いえ、そんなことは」

「まあお互い、この島じゃーほかに友達いないしねー」

「黙ってってば」

 私の否定をミカが遮り、そんなミカの発する言葉に私は理性を崩される。そして、友達がいないことを人前で指摘されると、ひときわダメージが深いのだということを学んだ。

「ははは。いや、心配してたんだ。突然のことだったろうし、昨日も揉めてたしさ。協力はしてもらえないんじゃないかと思ってた」

「……そりゃ、まあ。まだ戸惑ってるところは、正直ありますけど」

 どもらないよう気をつけながら、私は素直に答えた。性別とか年齢とかとは別問題で、やっぱり無遠慮なミカを相手にするのと同じようには、彼と話せない。不法占拠を咎めるでもなく、不可解な点を追及するのでもなく。私は状況に流されるまま、言葉を継ぐ。

「ここでなにか、悪さをしようってわけじゃないんですよね?」

「もちろん」

「じゃあ、まあ。……私にできることが、あるなら」

「ありがとう」

 やさしい微笑み。私は顔が火照るのを感じて目を伏せた。

「あたしは初めから信じてたよっ」

 ミカがこちらの手を取り、喜色満面で大袈裟に言った。私は「うるせえよ」と小声で返し、彼女の手を強引に振りほどく。

 ナオさんは、なごやかな表情を浮かべていた。改めて見ても、彼の幽鬼のように白く細いからだは、不健康そのもの。あまりうごけないというのは、どうやら本当らしい。やはり大病を患っているのだ。本人は感染するようなものではないと昨日言っていたが、病気の詳細について直接訊ねるのは憚られた。

 長くこの場所に居続けているという割には、あまり体臭は気にならない。室内のカビのにおいが強いせいかもしれないし、彼の新陳代謝が低下しているせいなのかもしれない。ただひとつ、かすかに香る歯周病のようなにおいが鼻をつくのは気がかりだった。口腔内というより、もっと奥。衰えた臓腑から溢れて漏れて、漂ってくるような。そんなにおい。

 やっぱり、異質じゃないか?

 雰囲気に呑まれ、すっかり流されているけれど。ようやく私は、彼個人について不安を感じだした。状況。環境。健康面。それらだけでなく、彼の存在そのものに。

 ここに来たことを早くも後悔し始めている自分に気づく。しかし、いまから引き返すのは難しい。なにより、隣でニコついている危機感のない鈍感女を置いて投げ出すのには、抵抗があった。

「どうかした?」

 ナオさんが首を傾げる。目が合って、私はどきりとなった。

「あ、いえ。あぁー、えっと。それで私、なにをしたらいいのかなって」

 しどろもどろになり、ミカとナオさんを交互に見やって訊ねた。ふたりはきょとんとして顔を見合わせる。

「なにをって」

「特に、ねえ」

「……え?」

 彼らの困惑するような様子に、私こそが戸惑う。

「ご飯は、さっき食べたし」

「からだは拭いてあげたし」

「あとは、もう」

「……添い寝?」

 ふたりして呵々大笑。実に楽しげ。からかわれてる? 私はカッとなって立ち上がった。

「帰る!」

 腹立たしい。多少なりとも心配し、覚悟を決めてきた人間に、なんて態度だ。特に隣のばか女。

 彼らに背を向け出口へ向かおうとする私の肩を、ミカが素早く掴む。

「ちょちょちょ、冗談だってば。そんな怒んないでよ」

 私は振り返り、まだ失笑気味の彼女を睨んだ。

「ばかにされたっ。ばか女にばかにされた!」

「ばかっ? ……それでもいいから。それでも必要だから。ほら、見張るんでしょ。あたしがナオくんに襲われたら、どーすんのさ」

「あんたなんかどうだっていいっ」

「はぁーっ?」

 にわかに憤るミカの後ろで、ナオさんは全身を震わせ、うずくまって笑っていた。


 帰り道。砂利を蹴飛ばしながら歩く私を、ミカが取りなそうとしてくる。

「とにかく放課後、できるだけ毎日来てほしいんだよねー。それまでに、あたしが大体のことはやっとくから」

 私は微妙に引っかかるものを感じた。

「毎日? やることもないのに?」

「そう。ナオくんの顔見るだけでもいいからさー」

 その猫撫で声に、むしろ自尊心を傷つけられる。こっちが一体、どんな気持ちで手伝いを了承したと思ってるんだか。

「行く意味ある? それ」

「……たぶん?」

「なんで、あんたも疑問形なんだよ」

 しばしの静寂。ややあって、ミカが口を開いた。

「いやー、正直ふたりきりだと息が詰まっちゃって、間が持たないんだよねー。だからサトコがいてくれると、助かるっていうかー」

「……あんたが気まずくしてるとこなんて想像つかないけど」

 初対面の、あの自堕落な神主とだって打ち解けていたじゃないか。

「とにかくお願いっ。都合の悪い日は、無理にとは言わないから」

 ミカはこちらに向かって両手をぱちんと合わせ、祈るように目を瞑った。こうなると断りづらい。一時は軽んじられ、肩透かしを食った気分だったけれど。

「ああ、もう。わかったよ」

 私がそう返事をした途端、彼女は口角を広げ、にまぁっと怪しい笑みを作った。ああ、またもや後悔の予感。だけど、すでに乗りかかった船。諦めよう。

 それにしても、まだまだ気になる点は多い。

「実際、いつまでいる気?」

「んっ」

 腹立たしい笑顔を解いたミカは、親指で下唇を押し上げ思案する。

「いつ、か。……まあ、ナオくんが外に出られるようになるまで?」

 あれだけ弱っている病人が快復する日数。正直、私には見当がつかない。

「あんた自身は、あとどのくらいいられるの? 引っ越してきたわけじゃないんでしょ?」

「ああ、そっちはダイジョブ。あたし次第でどうとでもなるから。最長で……夏休みいっぱいまでは島にいられるかな」

 私は驚きで目を見開いた。いまはまだ、六月半ばだ。

「そんなに? 出席日数とかヤバいんじゃない?」

「まー、諸般の事情ってヤツでね。推薦狙ってるわけでもないし、いつ復帰してもオッケーってかんじ」

 彼女はそう言って、再びにんまり笑う。怪しいにおいがプンプンする。停学? 休学? 地元でなにをやらかしてきたんだ、このばか女。気になる。気になった。しかし、こいつに関心を持っていると本人に思われたくないので、深く掘り下げはしなかった。

「あっそ。……でも、そんなに猶予はないと思うよ?」

 そう返す私に、ミカは口だけうごかして、「ゆうよ?」と声に出さずつぶやいた。

「もうすぐ、大祓おおはらえだから」

 私がそう言っても、彼女は首を傾げるばかりだった。


 大祓は毎年六月と十二月の終わりに全国の神社で行われる、罪や穢れを祓い清める神事だ。六月のそれは夏越なごしの祓とも言われ、通常、社殿前にちがやで作ったの輪を構える。その日ばかりは、いかになまくらな宮司といえども、管理している神社の体裁を整える必要があった。私が日曜に境内掃除をしたのも、その前準備のようなものだ。

 それらについて説明すると、

「そう、か。そんなのがあるんだね」

 寝袋に入って寝転んだ状態のまま、ナオさんは唸るようにして言った。

 大祓は私にとっては当たり前の行事だが、神道に馴染みがなければ、知らない人もいるようだ。特に伝統行事への意識が薄い、都会の若い人なら無理もないか。

 私の隣で、ミカが口を尖らせる。

「そういうのは、もっと早くに言ってくれないと困んだよねー。あたしらにも都合ってもんがあんだからさー」

「うるさい、異教徒」

 木曜日。私はまた、小さなお社に訪れていた。今日は放課後に買い物があったし小雨が降っていたこともあったしで、昨日よりも遅い時間。いまの時期は七時過ぎでも外は十分に明るく、この時間に家を出ても身を案じてくれる家族は私にはいないから、なにも問題はない。せいぜい、ミカの小言が鬱陶しいだけだった。あらかじめ遅くなるって言っておいたのに!

 むしろ私より、どんな時間でもここにいる、ミカの家庭状況の方が問題ではなかろうか。

「ここで実際、大祓のときになにかをするってわけじゃないんですけど。それでも月末近くになったら、人が来ると思います。神主だけでなく、近隣の人とかも」

 三度目ともなれば、さすがにナオさんとも普通に話せるようになってきていた私。会うたび醜態を晒してきたせいで、変に慣れてしまったのかもしれない。怪我の功名?

「なるほど。いや、早めにわかって助かったよ。ありがとう」

「い、いえ」

 お礼を言われて、私は目を伏せた。彼のやさしい言葉と笑顔に、ほんのり心があたたかくなる。

「さて、どうしようか」

「ねー、参ったねー」

 ふたりは意外と冷静だった。

 私は横を向き、ミカに訊ねる。

「随分と落ち着いてるけど、本当に大丈夫? ここ以外、身を寄せる当てでもあるの?」

 もしくは、もう潮時だと考えているとか。そう思い至ると、私は安堵とも落胆ともつかない、奇妙な気持ちになった。

「あぁー、ないこともないかなー。ばあちゃん家の納屋だったら、ここと同じくらいの広さだし」

「……ああ、そうなんだ」

 相反する謎の感情が増していく。私は自分で思っていたより、この非日常的な状況に関心を寄せていたらしい。でもアザミさん宅に移動するってことなら、これ以上関わるのは本気で遠慮させてもらいたい。他所様の家でこっそり男の人を匿うなんて、おっかなくって仕方ない。

「なんならサトコの部屋でもいいけど」

「ふざけんな」

 私がミカに噛みつくと、またナオさんは肩を震わせた。

「大体が、もうすぐ夏だしさー。いつまでもは無理だと思ってたんだよねー」

 ミカが制服の襟を摘み、胸元をパタパタさせて言った。

 私は軽く頷き、同意を示す。

「たしかに、暑いかも」

 いまは時刻的にそれほどでもないけれど、日中は小窓を開け放っていてもキツいはず。しかも、まだ六月の中旬に差しかかろうという時期なので、厳しい暑さになっていくのはこれからだ。この建物は、ますます人が住めるような場所ではなくなっていく。

 いや、まあ。元から神様の住処なんだけどね?

「まー都会よりはカラッとした気候だから、まだマシな方か」

「……そういえば、あんたの地元ってどこなの?」

 私は横目でミカの胸元を覗きながら訊ねた。彼女がどこから来た何者なのか、私はいまだによく知らない。ナオさんの住所は、免許証の記載によれば東京らしいけれど。

「んー? ……この島よりは、発展してる?」

「……答えになってないんだよ」

 また地元を見下されている気がして、うっすら腹が立った。

 私はにんまり笑うミカを放置し、

「ナオさんは暑くないんですか?」

 今更ながら訊くと、彼は少し困った風に眉を寄せた。

「うーん。まだ僕は、あまり気にならないかな。いまのところ」

 ひとまず安心。相変わらず顔色は悪く見えるけれど、本人が言うなら、そうなのだろう。

「ガリガリだからねー」

 ミカが素っ気なく言った。

「羨ましいかな?」

「……ばかじゃない?」

 細身すぎる青年と、大きな脂肪のかたまりをふたつぶら下げた女の子の、他愛ないやり取り。なごやかな空気に流され、私は知らず知らずのうちに笑みをこぼしていた。


 しみったれた小さな灰色の世界で、ひとりぼっちのはずだった。そんな私は突然、怪しいふたりに囲まれて、どうにも奇妙な日々を送りだす。

 いまだに不満や不安、そして疑問を抱えながらも。彼らの存在は、私に影響を及ぼし始めていた。私のなにかを変えようとしていた。

 お社にいるときでも、いないときでも。なんだか視界が、色づいて、見える。なにをしていても、お社でのことが頭に浮かぶ。なんでだろう。不思議。

 しかし、ふたりに大祓について話した日。自宅に帰ってきてからの数分で、私はぼやけかけていた、陰鬱とした感覚を取り戻した。

 居間の卓袱台に積まれた、お気に入りの少女漫画。

 自室に立ち込める、煙草の不快な残り香。

 冷蔵庫に入れておいたはずの、消えたおかず。

 流しに放置された、汚れた食器類。

 ずっと避けて暮らしている男が、私の部屋に入って蔵書を物色し、少ない予算で拵えた作り置きのご飯を食い散らかした。

 珍しいことじゃない。アイツにとって、この家にあるものは、すべて自分のものなのだ。従って、娘の私にプライバシーを主張する権利はゆるされていない。いままでも同じようなことは何度もあった。まあ、こんなのは本来、普通の家庭の親子でも、ざらにある話だろう。

 でも、よく。よくいまの緊張状態の中、そんな真似ができるよね。

 やんわり注意しても無駄。わかってる。わかってた。だって、アイツには道理が通じない。でも、その日の私はなんだか堪らず、あの男になにか言ってやらなければ気が済まなくなっていた。せっかくの色づき始めた日々を、台無しにされた気がしたのだ。

「ねえ、なんで私の部屋に入ったの?」

 夜遅くに男が帰宅してすぐ、正面切って訊ねた。

 向こうは数秒ぽかんとし、やがて胡乱な目を巡らせて、ゆっくりこちらを見る。

「夕方ぁ、暇やったからなぁ」

「……勝手に入らないでって、前にも言ったけど。本も出しっぱなしだし」

 男は私が手に持つ漫画をちらりと見て嘲った。

「あぁー、しょうもないもん読んどるなぁ。なにが面白いんや、それ」

 ぐっと息が詰まった。だったら読むなよ。会話にならない。

「私のご飯を食べたのは?」

「……私の? さっきから私のて、なんや?」

 男の顔が赤く染まっていく。手に持っていたパチンコ情報誌をまるめ、こちらの肩をバシンと叩いた。

 大して痛くはない。それでも身は竦み、喉の奥から「ヒッ」と声が漏れてしまった。

「どれも俺の金で買うたもんやろうが。なんの文句があるんや」

 こわい(、、、)。たちまち気持ちが萎んでいく。なにも言い返せない。情けなくて。悔しくて。目に涙が滲んでいく。

「すみませんでした」

 目を伏せ、震え、縮こまり。私は、ただ怯えていた。ポケットの中のボールペンに手を伸ばす気力すらえている。

「こっちが野放図を見逃してやっとんのに、いつもいつも、その態度はなんや。大概にせえ」

「……はい」

 ああ、ちくしょう。ちくしょう。やっぱり、やめておけばよかった。

 抗う意志。理由。動機。ある。あった。でも、戦えない。もしうごけば、もっとよくないことが起こると、経験上わかっていた。これまでの積み重ねにより備わった、脳内アラートが鳴り響く。心が挫ける。

 男の言葉に私はただ頷くばかりを繰り返し、自ら踏み入ってしまった嵐が過ぎ去るのを待った。きっと、おかあさんが、そうしていたように。

 やがてゆるしを得て、私は男の手の脂がついたままの愛読書を抱え、ふらつきながら部屋に向かう。

「のぼすんなよ」

 背中越しに届く、まだ憤りを残した声。保護者としてではない。自分に従わない者に対して抱く、征服者としての横暴。些末なプライドから来る幼稚な怒り。

 こんなものに、私は逆らえないのか。

 嗚咽を堪え、かろうじて返事をした。

 なんでだ。なんでいつも、どこでも、私が責められるんだ。なんで私が悪者なんだ。

 部屋に戻るなり、私は抱えていたものをゴミ箱に放り込んだ。


 やさしい夢。

 懐かしい思い出の再上映リバイバル

 世界に、あたたかな空気が満ちている。春か夏。いや、秋かもしれない。冬もあり得る。気温じゃ判断つかないや。だって、あたたかいのは温度のせいじゃない。幸せだからだ。

 まだ三つか四つ。保育園に通ってもいない頃。遠い記憶。

 私は、ふんわりとした幸福感に包まれていた。

「サトちゃん、おんぶしよっか?」

 息を切らして、あのお社へとつづく長い石段を上がる幼い私に、おかあさんがやさしく言った。

「だいじょうぶ」

 私はきっぱり断った。本当はそうしてほしかったけど、これから境内掃除をやらされる母の負担を増やしたくなかったのだ。

「わたし、おかあさんとちがってわかいから」

 そう付け足すと、母はニコッと微笑んだ。そして私を置いて、小走りでお社まで駆け上がっていく。そうだ、こんな人だった。いつもやさしいのに、変なところでムキになる。

 私は不安になって、母を慌てて追いかけた。置いていかないで。置いて行かないで。私を置いて、消えないで。

 半泣き状態で石段を登り切ると、笑顔を浮かべたおかあさんが鳥居の前で待っていた。堪らず私は抱っこをせびり、汗びっしょりの顔を母の胸に押しつけ、思いっきり甘えた。大好きなおかあさん。ずっと一緒。

「あら、こんにちは」

 ふいの母の言葉は、お社の方に向かって投げられていた。

 抱っこされたまま首を捻ると、そこにいたのはーータヌキとキツネだった。まるまると太ったチビのタヌキと、のっぽのキツネ。

 キツネはお社の外壁の前で固まっている。なんだか少し、緊張しているみたい。一方タヌキは私を見るなり、ニコニコしながら近寄ってきた。

 世にも珍しい、二足歩行のまんまるタヌキ。母の腕から降りた私に茶色い手《、》を伸ばして一言、

「あそぼ」

 そうして私は。おかあさんの見守る中、タヌキと、やがてキツネとも、一緒に遊んだ。誰かに話しても、きっと信じてもらえない。夢そのものってかんじの記憶。


 枕元で目覚まし時計のアラームが鳴り響く。私は顔を顰め、時計のスイッチをベチッと叩いて止めた。せっかくいい夢を見ていたのに台無しだ。

 母が亡くなってから時折見るようになった、懐かしい思い出の再上映。おかあさんと。そして、タヌキとキツネ。いや、さすがにタヌキたちが二足歩行したり口を利いたりなんて、あり得ないけど。こんな風に何度も夢で見るたびに、記憶が改竄されていったのだろうか。

 元となった体験自体は、あったはずなのだ。ナオさんと会う直前、うっかり話してミカに笑われてしまったが。私はあのお社で、たしかにタヌキやキツネと遊んだ。もう、おかあさんはいないから、誰にもたしかめられはしないけど。

 時間を確認。バスの時刻まで、まだ一時間以上ある。それでも私は布団から、もそもそ抜け出た。もし、あの男がまだ寝ているのなら、起きだす前に家を出ておきたい。

 御霊殿にお茶をお出しして。朝食は……いいか。晩ご飯も食べてないけど、どうにも食欲が湧かない。無理して摂る気にはならなかった。

 金曜日。重たい気分を引きずっての登校。

 始めの二時間はなんとか持った。しかし抱えていたダメージが大きかったせいか、それとも食事を抜いたからか。私は三限の体育を前に、軽い貧血を起こした。保健室に行くと養護教諭にあれこれ訊かれて面倒なので、授業は見学しよう。

 体育教師に許可を取り、体育館の隅、もっとも無難な安全圏へ。そこには私のほかに、もうひとり見学者がいた。

「サトちゃんも?」

「……うん」

 シイナだった。体育は他所のクラスとの合同なのだ。

 私たちは隅に隣り合って座った。大した会話もなく、同級生たちがチープな音楽に身を任せ、独創ダンスに興じている様を眺める。

「ねえ、サトちゃん」

 ぽつりとシイナがこぼした。気のせいか、少しばかり表情が硬い。

「なに」

 私はいつもの調子で返す。すると彼女はこちらに顔を向け、じっと見据えた。

「最近、なにかあった?」

「なにかって」

 最近どころか、ずっと前から抱えている家のこと。そして、ミカたちとのことが頭によぎった。しかし、どちらもシイナに話すようなことではない。

「別に、どうもしないけど。なんで?」

「いや、うーん。なんでだろ」

 はにかむようにして笑うシイナは、どこか困っている風でもあった。

 このあいだ廊下で私に無視されたことを引きずっているのだろうか。いや、ひょっとすると私が、抱えている苦労を表情に出していたのかもしれない。なんにしても、あまりつづけたい話ではなかった。ええと、なにか別の話題を。

「私も、ちょっと訊いときたいんだけど」

「ん、なぁに」

「……あのお土産の缶バッジって、本当に外国で買った?」

 少し悩んで、かねてからの疑問を口にした。するとシイナは目をまるくして、まじまじと私を見つめる。そして、おかしくて堪らないといった調子で肩を震わせだした。

「ふっ、ふふふ」

「な、なに」

「やっと訊いてくれたー。そんなわけないじゃない」

「はぁっ?」

 うっかり大きくなりかけた声を慌てて抑える。見回した限り、先生や同級生たちに気づかれはしなかったようだ。

「ど、どういうこと」

「だって日本語だよ? 海外旅行には行ったけど、アレはその帰り、こっちの空港のお土産屋さんで買ったの。ツッコミ待ちだったのに、サトちゃん、なんにも言ってくれないからー」

「……マジか」

 あの『えっふぇると〜う』の缶バッジ。もちろん怪しいとは思っていたけれど。だからこそ、いま訊ねたのだけど。まさかシイナがそんな嘘をつくなんて、私には考えにくかったから。

 ふたりして静かに笑い合う。しかし私は実際、その驚きと心地よさとは別のところに意識が寄っていた。

 この子を疑うようなこと、これまで一度もなかった。しなかった。だってシイナは、いい子だから。彼女の周囲との関係や距離感、その摩擦で、いやな思いをさせられることはあったけど。そのたび仕方のないことなのだと、自分に言い聞かせてきた。そこに目をつぶってさえいれば、シイナは唯一、私を嫌わないでいてくれる存在だった。だって、シイナは。

 ふざけたりしない。悪いことなんてしない。それがシイナ。私の中だけのシイナ。

 恥ずかしい。

 たぶん私はこの子に、無垢でやさしいだけのキャラクターを求めていた。望んでいた。当てはめていた。彼女自身を見ようともせずに。

 ふと、アザミミカの陽気な顔が浮かんだ。この気づきは、あのばか女に出会った影響で視野が開けたからこそ……なのだろうか。だとしたら。

「腹立つなあ」

「もぉー、ごめんってー」

 私の胸の内など知らぬシイナは、えらくニコついている。

「ねえ、今日ウチ来ない? 久しぶりに遊ぼうよ」

「あ、ええっと」

 こんな風に誘われたのも、シイナの家に行ったのも、小学生のとき以来。

 少し揺れた。でも、結局こう答えた。

「やめとく」

「どうして? そんなに具合悪い?」

「うん……ううん。そこまでじゃない」

「じゃあ、忙しいの?」

「……うん。放課後、用事あるから」

「いつでもいいんだよ? 土日でも。サトちゃんの暇なときに」

「当分は、無理かな」

「……そっか」

 シイナの笑顔が萎んでいく。こういうときのフォローの仕方が私にはわからない。

 しばし沈黙。ややあって、彼女は懇願するような声で言った。

「私たち、友達だよね?」

 どうだろう。そうなんだろうか。だったら嬉しい。でも、もしそうだったとしても。

 このやさしく気の利くさかしい少女にとって、私はきっと、その他大勢のひとりに過ぎない。優先順位も下の方でしょう? だから笑う。笑った。あのとき、ほかの連中に合わせて、嘲るように私を笑ったんだ。

 なのに、友達かって?

 また気持ちが翳り、私はふいっと視線を逸らした。そして想いを口に出せぬまま、静かに頷く。

「うん」

 こんな気の抜けた返事にもシイナは自信を取り戻したようで、おしゃべりを再開しだした。その横で適当な反応を示しつつ、私はお社でのことに意識を飛ばし、現実から逃避するのだった。


「どしたの?」

 鳥居で待っていたミカは、こちらを見るなり、そう言った。

「なにがよ」

「いや、なんか。なんかいろいろ溜まってそうだなーってかんじ」

 私、そんなにわかりやすいのかな。

「別に。どうかしてても、あんたに関係ないでしょ」

「のっけからカンジ悪っ? ピリピリした空気、ここに持ち込まないでよねー」

「わかってるよ。……いや、実際お社になんでもかんでも持ち込んできてる、あんたには言われたくない」

 寝袋だの座布団だの、人間だの。

「おっ、うまいこと返すじゃん。調子出てきた?」

「黙れ」

 つんけんしながらも、私は実のところ、そう不愉快な気分ではなくなっていた。

 悔しいけど。なんか、こいつの顔を見ると。ほっとしてしまう。

「あっ。ていうか遅刻。また遅刻。いっつも遅刻。どーなってんの」

「……うるさいっ」

 やっぱり細かい。しつこい。嫌い。

 でも、まあ。気は楽だ。家より。学校より。

 その日の手伝い……というより談笑を終え、翌日の土曜日も私はお社へ通った。土曜に授業はなかったけれど、ミカがいつもと同じ時間でいいと言うので、その通りにした。

 しかし、なにをするでもなく、ただふたりの顔を見に行くだけというのは、ことのほか退屈だった。場の緩衝材として呼ばれているわけだけれども、そもそも口下手な私に楽しげなトークなどできるはずもない。ほとんどがミカとナオさんの会話に耳をすませて、たまに相槌を打つくらいで終わってしまう。ふたりが朗らかに話しているのを見るたび、自分の存在価値が揺らいだ。

 砂利道でのミカとの別れ際、とうとう私は自ら手伝いを申し出てしまった。

「えぇー、別にいいよぉ。サトコはいてくれるだけでさー」

「それが逆に苦痛なんだってば。手伝えって言ってきたの、そっちでしょ。なんかさせてよ。ほら、明日も学校休みで暇だし」

 ミカは唇を指で押さえてしばらく黙り込み、やがて渋々といったかんじで頷いた。

「じゃあ明日のお昼、十二時きっかりに来て」

 そうして私は、ふたりと出会ってから初めて能動的に、看病の手伝いをすることとなった。息苦しい日常の外。怪しげな非日常へ、自ら一歩踏み出した。

 彼女から求められている本当の役目など、このときは露知らぬまま。


 翌日、日曜日の正午過ぎ。私はこれまで同様、鳥居の前でミカと合流した。今日の彼女は大きめのバッグを肩にさげている。

「遅いんだよ」

 数分の遅れなんて誤差の範囲だろうに、ミカは懲りもせず、いつものセリフだ。しかし普段より、ずっとテンションが低い。余裕がないと言った方が正しいだろうか。

「あ、ごめん」

 私は迂闊にも謝ってしまった。失敗したと思った。下手に出ると一層しつこく責め立ててくるのが、私の知るアザミミカなのだ。

 しかし今日に限って追撃はなかった。

「行こっ」

 彼女は冷めた様子で鳥居をくぐる。どうにもおかしい。私のせいなのかも。

「あのさ」

 だんだん気になってきた私は、ミカが手水鉢で手を洗っているとき、後ろから声をかけた。彼女は中腰のまま、窮屈そうに振り向く。

「やっぱり、この時間に来るの迷惑だった? ふたりの邪魔かな」

 そう言うと、ミカは目をまるくした。蛇口を締めて立ち上がり、首を振って否定する。

「ううん、そんなことない。嬉しいし、助かるよ。……次に遅刻したら、さすがに手が出ると思うけどー」

 不穏なセリフを笑顔で付け加えたあと、彼女は真剣な表情を浮かべた。

「でも、ねえ」

 ぼそりと短い、つぶやくような声音。つづく言葉を探しているみたいだ。私は脇をきゅっと締めて構えた。

「なに?」

「……寝たきりの人が介護を受けてるとこって、サトコは見たことある?」

 介護。看病よりも、なんだか言葉が重い。誤魔化す余地のない真面目な話題。

 私は少し考えて答える。

「ええっと。小さいときに死んだおじいちゃんが、そうだったから。少しは」

 少しは、記憶に残っている。だから、それがどれだけ大事で大変なことか、理解してはいるつもりだ。当時の私はただ覗き見ていただけで、大変だったのは本人と、唯一の介護者だったおかあさんだけだったけれど。

「そっか。それなら……ちょっと安心」

 ミカはかすかに頬をゆるめた。いつも感情表現豊かで大袈裟な素振りを見せる彼女にしては、少々珍しい笑い方だった。

「あと。ひとつだけ、絶対にやってほしくないことがあってさ。難しいかもしんないんだけど」

「な、なに?」

「介護してるとき、なにがあってもナオくんに、不快そうな顔を見せないでほしいんだ。それって結構ショックだと思うんだよね」

「う、うん。気をつける」

 ミカの切々とした様子に気圧され、私は即座に頷いた。意外だった。そりゃあ神経質なところはあるけれど、こいつはもっと、ちゃらんぽらんな子だと思っていたから。

「じゃあ、行こ」

「……うん」

 そうして私はいくらかの不安と緊張を胸に、いつも通りミカにつづいてお社の中へと入った。


「この時間に会うのは初めてだね」

 横たわっているナオさんは、今日も涼しげに微笑む。私はその笑顔に、過去最大の安心を覚えた。

「そうですね。平日は難しいですけど、土日なら」

 はにかみながら、真実この人の力になりたいと思った。どんな事情があるにせよ、ミカが言っていたように、私も彼が悪い人間には見えない。

「あたしは先週の日曜も、このくらいの時間にサトコと会ってるけどねー」

 さっきまでと一変し、ミカは明るい調子だ。

「ああ。そういえば、そうだったっけ」

 早いもので、こいつと出会って、もう一週間が経つ。

「あのときのサトコったら、ひどかったよー。あたしを置いて、走って逃げてっちゃうんだもん」

「だ、黙れ」

 人聞きの悪いことを言うな。あれは戦術的撤退だ。

 いまにして思えば。初めて会ったとき、こいつがお社から離れなかったのは、私が中に入らないか警戒していたのだろう。他所に遊びに行こうなんて言ってきたのも、ここから引き離したかったからか。

 でも。なんでそのあと、ミカはわざわざ私を誘いに来る気になったのかな。

 横を見ると、彼女は薄く微笑んでいた。その笑顔は穏やかで。でも、ナオさんのとちがって、見ていて落ち着かなかった。

「じゃあ始めよっか。まずどうする? 下は?」

 ミカの軽快な口調。下という単語の意味に私が思い至るより早く、ナオさんが小さな声で答える。

「まだ大丈夫……かな。先にご飯がいい」

「はいよー。じゃあ、その前に歯磨きね」

「……ご飯の前に、歯磨き?」

 私が口を挟むと、ミカは明るい調子で答える。

「知らない? 歯磨きって、食後より食前にやる方が歯の健康にいいんだってさ」

「へえ」

「食べ終わってすぐの歯磨きは、せっかく滲み出た唾液も洗い流しちゃうから、逆に勿体ない説があるとかないとか」

「へええ」

 知らなかった。いつも食後にばかり磨いてた。

「まあ食べたあとは大抵お茶とか水とか飲むし、結局唾液はなくなっちゃうから、あんまり鵜呑みにもできないらしいけど。でも食べる前に磨くのは間違ってないっぽい」

「……えらい詳しいね」

 すらすら出てくる豆知識に、私は感嘆の声を漏らした。

「一応、親が歯科医やってるからさー」

「ああ、そういうーー」

「ミカ」

 珍しく、ナオさんに会話を遮られた。

 私たちはふたりして、何事かと彼を見た。

「お腹すいた」

 ミカはゴホンとひとつ咳払いをし、小さく笑った。そしてかたわらにあったプラスチックのコップを掴み、こちらに差し出してくる。

「じゃあ、そういうわけでアシスタントくん。外の水を注いできてくれたまえ」

「はあっ」

「ごめんね、頼めるかな」

「はっ、あ、はい」

 不本意な呼ばれ方に異議を唱えるより早く、私はナオさんの申し訳なさそうな口ぶりに勢いを削がれた。歯ブラシの入っているコップを大人しく受け取る。

 私が手水鉢の水を注いで戻ると、ナオさんは寝袋から出て壁に背を預け、マットレスの上に直に座っていた。だから服越しとはいえ、私はこのとき初めて、彼の全身を目にしたのであった。

 思っていた以上に細い。いや、小さく感じる。健康維持に最低限必要な肉さえ捨て去ってしまったような、寂しいからだつきだった。

 これは。この人は。果たして、こんな状態から快復できるのだろうか。

「もたれかかってないと、座ってるのがきついんだよね」

 ナオさんが微笑む。棒立ちになっていた私は、ハッと我に返って頭を下げ、ミカの隣に戻った。

「はい、注いできた」

「あー、ありがと。じゃあ、磨いてあげてくれる?」

「わ、わかった」

 言われるがまま、私は受け取った歯磨き粉を歯ブラシにつけ、ナオさんの横に膝をついた。そして彼の口に向かって、おそるおそる歯ブラシを伸ばす。

 しかし、

「いや、待って」

 途中で制止が入った。

「できる、できるよ。自分でやるから」

 苦笑いを浮かべ、彼は私の手から歯ブラシを奪う。

「そう? なら、いいんだけど」

 ミカは意外そうな声。私は、ほっとしたような。それでいて、ちょっと残念な気持ちになった。

 ミカがナオさんのシャツの襟に、タオルを引っかける。よだれかけの代わりらしく、実際それは大いに役立った。もごもごと口の中で歯ブラシがうごくたび、わずかに開いた口から白いあぶくが溢れる。口元を伝いぽたぽたと垂れたそれはタオルに染み込み、すぐさま泡雪のように溶けて消えていった。

 肝心の歯磨きは、磨くというより口の中を撫でているような力の入り具合だ。ペースも、のろい。遅々として進まないうごきは、なんだか見ていて、もどかしい。ただ、ナオさんは真剣そのものの目をしている。わざとやっているわけではない。それだけの筋力も残っていないのか。

 少し、こわくなった。ここまで弱っている人に、私がなにをできるっていうんだろう。

 彼はときどき咳き込み、えずき、そのたび口のまわりとタオルを汚した。私とミカは固唾を呑んで見守った。要した時間は二、三分くらいだったろうけれど、実際に磨けていたのは、たぶん一分ほど。いや、もっと短いかもしれない。わずかな時間、あんな磨き方で、どれだけ口の中を綺麗にできたかは疑問だった。さっきのミカの講釈の甲斐もなさそう。でも、私たちはなにも言わなかった。

 ナオさんはコップの水で口をすすぎ、それをバケツに吐いた。そして、ふうっと息を漏らす。

「久しぶりに、自分でやってみたけど。ダメだな。こんなことで、もう。疲れてしまった」

 ミカはタオルで彼の口元や首すじを拭い、相槌を打つ。

「リハビリ代わりにはなったかもね」

「……あの」

 ふたりが苦笑し合っているのを余所に、私の不安は増していく。

「大丈夫なんですか? からだ、弱ってるんですよね。やっぱり病院で診てもらった方が」

 ナオさんに出会ったときから気になっていたことを、私はおっかなびっくり、ついに直接訊ねた。だって、いまの環境が、からだにいいはずがない。

「ああ、平気だよ。寝てたら楽になるから」

 彼の陽気な返事は、とても信じられるものではなかった。しかし私に、その言葉を真っ向から否定する強さはない。

「そう、ですか」

 ふと見ると、ミカがこちらを無言で睨んでいた。私は思わず息を呑む。余計なことを言うなって? いや、でも。だって。

「さー、お待ちかねのご飯だねーっ」

 彼女は私から視線を外し、明るい調子でバッグを漁った。そして大きなランチジャーを取り出すと、「ぱっかーん」なんていう、間の抜けた効果音を口にしながら蓋を開ける。水面下の緊張がゆるんだ。

 容器は、ほうれん草のおひたし、きんぴらごぼう、鮭の塩焼き、プチトマトの入った一段目。ロールキャベツと玉子焼き、まるまった薄切り肉の入った二段目。そして、おにぎりがぎっしり詰まった三段目に分かれていた。

 地味で彩りには欠けるが、そそられる内容だ。私はあまり食に気を遣う方ではないので、こういうメニューは新鮮だった。特に、母が亡くなってからは。

「すごい」

 こちらが称賛の声を上げると、ミカは自慢げに鼻を鳴らした。

「どうよ、なかなかっしょ? しっかり手間暇てまひまかけてるんだから」

 私は素で感心していた。

「へえー、あんたが作ったの?」

「ううん、ばあちゃん」

 なんだこいつ。

 ナオさんは堪えきれず、ふふふと含み笑いをこぼした。

「ミカのおばあさんは、すごく料理上手なんだ」

 なんとも幸せそうな表情。

「ナオくんの好きな肉トロ、今日も入ってるよ」

「ああ、嬉しいな。早く食べたい」

 私はその会話に、かすかな驚きを覚えた。

「え。これ、ナオさんも食べるんだ?」

 こんなに弱っている人だから、てっきり介護食のようなものしか受け付けないと思い込んでいた。そういう言外の意味を察してか、ミカが軽く頷いてみせる。

「そうそう。ナオくん好き嫌いないから。なんでもダイジョブみたいよ」

「はあー……って、ちょっと待って」

 私は、やや焦って訊ねる。

「これだけ立派なお弁当を用意してくれてるんなら。……ミカのおばあさん、ナオさんのこと知ってるの?」

 するとミカは、つうっ、と親指で下唇を撫でてから微笑んだ。

「ううん。ばあちゃんは、あたしがひとりで食べると思ってる。実際、ほとんどあたしが食うし」

 改めて、大きなランチジャーに詰まっていた中身を見る。大人の男の人でも、割と堪える量ではないだろうか。

「え、あんたは毎食こんなに食べてるの?」

「まー、大体ね。入りきらないときもあるけど、おかげでナオくんに回せる分を確保できてるかんじ?」

「ふーん」

 栄養が胸に行ってんのかな。

 ナオさんが、ちょっと意地悪げな笑みを浮かべる。

「だから、昼ご飯が一番豪勢なんだ。朝晩は残りものとか、冷めた食パンとか。少し味気ない」

「文句があるなら、次から水と塩だけになりますけど?」

 すかさずカウンターがバシッと決まった。

「だって今朝も食パンはカチカチで……いや、なんでもない」

 ふたりが言い合っている中、私は新たな情報に気を取られていた。ミカは朝も晩も、ここに来ているのか。いや、考えてみれば、そりゃそうだ。犬や猫のお世話だって、餌を一食与えて終わりじゃない。ましてや相手は人間だ。

 このとき私はミカに、初めてナオさんへ対して以上の戦慄を覚えた。彼女はどれだけの覚悟と負担をもって、彼のお世話をしてきたのだろうか。こんなにからだの弱った男の人を中学生の女の子がひとり、人知れず看病しつづけるなんて。今更ながら、普通できることじゃなかった。

 ミカがこれほど心を砕いてナオさんのお世話をする理由って、一体なんだろう。私のように、乗りかかった船だからってだけとは到底思えない。

「サトコ、聞いてる?」

「えっ!」

 ふいに呼びかけられ、私はびくりとなった。つい考えに没頭していたらしい。

「ごめっ、なに?」

「もー、サトコはご飯持ってきたのかって訊いてんの」

「あ、ああ。うん、持ってきた」

 答えつつ、一昨日スーパーで買ったソーセージパンを出してみせた。値引きシールは剥がしてあるけど、それでもミカのお弁当を見たあとでは、少し恥ずかしい。

「え、それだけ?」

「うん。まあ」

 水筒に入れてきた、自家製の麦茶を取り出しながら答えた。休日の昼は、いつもこんなかんじだ。そんなに食べる方じゃないし、なにより安上がりだから。

 ミカが大きなため息を吐いた。

「しょうがない。分けてあげるから好きなの食べなよ」

「……いいの?」

 私は思わず、期待で声が上擦ってしまった。

「だって、なんか悪いし。ねえ」

「そうだね。どうせ僕は食べ切れないし」

「あ、ありがとう」

 ふたりが穏やかに勧めてくるので、私にしては、割と素直にお礼を言うことができた。

 ミカたちのお弁当と比べたら、実は賞味期限も切れているパサパサの惣菜パンは、やっぱり寂しくって貧相だ。こいつは晩ご飯に回すとしよう。

「サトコ、アレルギーとかある?」

「ううん。特には」

「そっ」

 ミカは自分のバッグから、割り箸の束が詰まっているポリ袋を取り出した。そして、そのうち二膳を抜き取り、ひとつを割ってからナオさんに。もうひとつをそのまま私に手渡した。本人は自前の箸を用意している。つづいて容器の蓋におにぎりをひとつと、いくつかのおかずを載せた。さらに、ひっくり返した段ボール箱の上に蓋を置き、箱ごとナオさんへ差し出す。水を注いだ湯呑みも。どうやら箱は彼専用のテーブルらしい。手際のいい、慣れたうごきだった。私も余った蓋を皿代わりに受け取る。

 ところで、あれほど饒舌に蘊蓄を傾けていた割に、ミカ自身には歯磨きをしようとする素振りはない。あくまでナオさん優先か。まあ当然、家を出る前に磨いているんだろうけど。私だってそうだし。

「じゃあ、いただきまーす」

「いただきます」

「い、いただきます」

 めいめい、思い思いに箸を取る。私はまず、ずっと気になっていた薄切り肉のかたまりを摘んだ。さっきミカが言っていた肉トロなるものは、これのことだろう。

 筒状にまるまっている牛肉は、ひとくち齧っただけで旨味が溢れ出した。甘辛いソースとお肉の味わいは、身震いしそうになるほどだ。しかも、お肉の中にはチーズがくるまれていて、それが濃厚なコクをより深めていた。とろりとした食感。なるほど、だから肉トロ。ほんのりあたたかいお肉は噛むほどに口の中でほぐれていき、そのたび肉汁が飛び出した。

「ほっ……ほー」

 気づけば我が口から、間の抜けたため息が漏れていた。ふたりが手を止め、何事かとこちらを見る。私は慌てて目を伏せた。

「いや、その。美味しいです」

 ミカが声を出して笑い、ナオさんはやさしく微笑んだ。

「でしょー。うちのばあちゃん、マジで料理上手だから。達人だから。すごい便利」

「いや言い方」

 批判しながら、私の箸は止まらなかった。まろやかで甘い味付けのロールキャベツ。ほどよい塩加減のおひたし。歯応えよくも、しっかり砂糖醤油の染み込んだきんぴらごぼう。どれもこれもが、ひどく美味しい。懐かしい、当たり前の家庭料理ってかんじだ。久しぶりに「ご飯を食べてる!」って気がした。

 私に全部は取られまいと、ミカががっつきだした。ナオさんもゆっくり箸を運び、うまそうに食べている。

 私がこんな風に誰かと楽しく食事をするなんて、一体いつぶりだろう。学校給食や自宅とは雲泥の差だ。

 お社の中での飲食なんて、もちろん本来はご法度。しかも、よりによって神道では長く不浄とされてきた牛肉を頬張るなど、罰当たりも甚だしい。でも神様ごめんなさい、美味しいんです。

 薄暗く湿っぽい建物。それでも、ほのかな平穏に包まれた空間。その中に自分もいる。私は言い知れない幸せを感じていた。

 このまま、ずっとこうしていたい。


 食事のあとも、私は不慣れなりにナオさんの看病を手伝った。病気そのものか、あるいは治療の影響かで、ほとんど毛髪の残っていなかった頭を洗ったり。からだを蒸しタオルで拭いたり。そしてミカの言う、〈下〉も。

 抵抗がないと言えば嘘になるけど、表には出さなかった。その最中、ナオさんは言葉少なで、逆にミカは饒舌だった。関係ないこと、あること。どうでもいいこと、そうでもないこと。彼女のおしゃべりがあったおかげで私は気が紛れ、乗り切れたのだと思う。

 ミカの看病は丁寧で、なにより思いやりがあった。彼女は私が考えていたより、ずっと人間ができていた。

 派手な外見で頭からっぽ。ばか女。彼女へのそんな認識は、自分が恥ずかしく、情けなくなってしまうくらいの偏見だった。


 外に出たのは、午後二時過ぎ。もっと長い時間お社の中にいたと思っていたから、少し意外だ。

「まー、大体こんなかんじ」

 石段を降り切り、砂利道を半ば上がった辺りで、ようやくミカが口を開いた。

「年頃の女の子がやることじゃないっしょ? 無理しなくていいからさー」

 へらへらしながら、こちらの様子を伺っている。一方、私の気持ちは決まっていた。

「やるよ。手伝う、これからも。あんたやナオさんさえ、いやでなければ」

「……そっか」

 ミカは口元をゆるませてはいたが、笑っているのか困っているのか、判断しづらい表情を浮かべていた。

「いやなの?」

 私が率直に訊くと、彼女は両手をばっさばっさと煽いだ。

「そんなわけないじゃーん。今日だって助かったよ。ふたりきりだと、どうしてもテンション落ちんだよね。いつもはナオくん、あんなに食べないしさー」

「……そうなんだ」

 思い返される、ささやかな食事風景。容器の蓋に載せた、いくつかのおかず。肉トロ、おひたし、玉子焼き。それらとおにぎりを数口齧ると、ナオさんは箸を止めてしまっていた。普段はあれより少食なのか。

「しれっと多めに盛っといたんだけど、結構フツーに食べてたねー。歯磨きのときといい、若い子の前で張り切っちゃったのかな」

「……あんたもタメなんでしょ」

 照れくさいのを誤魔化さんと、私は語気を強めてツッコんだ。ミカはまた、へらへら笑っている。

「あのさー」

 もうすぐ公道に出ようかというところで、ミカは高く上げた足を、砂利に向かって大きく振り下ろした。いくつかの小石が音を立てて弾ける。釣られて私も立ち止まった。

「変に思った?」

「えっ」

 突然のことで、問いの意味がよくわからない。

「なにが?」

「いや、ほら。ええと」

 ミカは口をもにょもにょさせて、言いづらそうにしている。たとえば私が同じように口ごもったら、その話し相手はなにをもたもたと……と苛つくだろうが、こいつの場合は愛嬌があってかわいらしい。美人は得だなー、なんて感心した。腹は立つけど。

「なんつーか。……あたしみたいなのが、見ず知らずの人を介護って、普通しないじゃん? 異常じゃん? その辺、サトコからしたら、どうなのかなーってさ」

 思わず耳を疑った。こいつ今更、なにを言い出すんだ。

「そんなこと言ったら、最初から変なことだらけだよ」

「……まー、そうだろうけどさー」

 ふざけているわけではないらしい。妙にそわそわ、きょどきょどしている。私はその様子がおかしくて、つい吹き出してしまった。

「ちょっと、なに」

 顔を顰めたミカに詰め寄られ、私はたじろいだ。

「いや、ごめん。むしろ……あんたをもっと、だらしないヤツだと思ってたから。だから、そういう意外さはあったよ。ちゃんとしてるなーって」

「へえ?」

 不思議だった。私が建前抜きで、素直に、正直に胸の内を明かせている。こんなこと、いままでできなかった。そんな相手、いなかった。

 なんで。よりによって、こいつ?

 一緒にご飯を食べたから? その空気が心地よかったから? かもしれない。わからない。どうあれ我ながら、ちょろいなあ、なんて思った。でも、そんなにいやじゃあないんだ。

「あんたって、やることみんな丁寧なんだよね。そのぶん、口うるさいとこあるけどさ」

 ここ数日見てきた、ナオさんとの接し方。特に、さっきまでのわずかな時間で、私のミカに対する目は変わった。鼻につくところはあっても、こいつはやさしい子だ。いいヤツなんだ。もちろん、やっていることそのものは、常識の埒外ではあるけれど。

 ミカは満更でもなさそうに、目と口元をゆるめた。

「あたしも」

「え?」

「さっき中に入る前、サトコ、あたしのこと呼び止めたじゃん? で、迷惑だったかなーって言ってさ。この子、人並みの気遣いできるんだーって、びっくりした」

 両手を広げてのオーバーリアクション。そこはかとなくムカつく。

「ばか女に言われたくない」

 ミカの口角がひくっと上がる。

「ソレやめてくんない? ばか女っての。なんか無性に腹立つんですけど」

「そっちが挑発してくるからでしょ。売り言葉に買い言葉ーっ」

 私はそう返し、ミカを置いて小走りになった。砂利道を抜けて公道へ出る。

「ちょ、待てっ。話終わってないから」

 堪らず、私の口から笑みがこぼれ出た。追ってくる彼女の声と足音が、いやではなかった。初めて会ったときとは全然ちがう。前ほど、こいつのことを嫌いではなくなっていた。いやいや、いまだって別に好きではないけれど。

 ふたりの行き先は公道に入ってすぐ、左右に分かれる。私は右、ミカは左。だから私は名残惜しさを感じつつ、向こうの反論が小気味好くも鬱陶しかったので、さっさと帰ろうとしていた。

 しかし、ちょうどそのとき、一台の白いワゴン車が前方から走ってきた。そして私は、その場で釘づけになった。私たち歩行者を確認して減速しだした車に、見覚えがあったからだ。すれ違う寸前、助手席に座る人物が私に気づいた。目を見開いて、こちらを見る。私と、背後に立つミカを。

 車は停まることなく通り過ぎていった。ほっとしたところで、後ろからミカが駆け寄ってくる。

「知ってる子?」

 こちらの動揺を察したらしい。私は少し迷ったあと、簡潔に答える。

「同級生」

 助手席にいたのは、シイナだ。私の幼馴染みで、いい子で、誰からも好かれていて。実はふざけることもあって。そして私が一昨日、一緒に遊ぶのを断った相手。そんな彼女が、いま私たちとすれ違った。

「へえ……仲良くはないんだ?」

「えっ。なんで」

 ぎくりとして訊き返す。なんで。なんで、そう思うの? そう思われたの?

「なんかサトコ、すげービビってるし。警戒心ありありってかんじ」

「……ビビってない」

 こういうところが嫌いなんだよ、アザミミカ。こいつは時たま、自然に煽ってきやがる。

「別に仲は悪くないよ。ほら、このバッジくれた子」

 私はショルダーバッグを抱えて、目立つところに留めてある缶バッジを見せた。

「あー、ソレ。罰ゲームで付けさせられてんのかと思った」

「ぐぅ」

 鉄塔のイラストと、でかでかと書かれた『えっふぇると〜う』。たしかにセンスは褒められたものじゃない。ひと月以上、外国土産だと騙されていたことも先日発覚した。だが、けっして嫌がらせでくれたわけではない……はずだ。

 しかし私は、またもや百円ショップでのシイナの笑い声を思い出し、歯噛みした。せっかく馴染んでいたものだけど、そろそろ外そうかな。

「ねー、もしかして見られたらマズかった?」

 ミカは自分といるところを見られて大丈夫かと訊いていた。真剣な表情。こいつでも一応、まわりの目は気にするらしい。いや、これまで人知れずナオさんを匿ってこれたヤツなんだから、当然、警戒心は強いのか。

「わかんないけど……平気だよ」

 見慣れない子と私が一緒にいたのを見かけたからって、シイナが積極的になにかしてくるなんてことは考えにくい。せいぜい噂話が関の山だ。お社に近い、この場所は少し悪かったかもしれないけれど、だからってナオさんにまで行き着くはずはない。

 私にしても、お社でのことを誰かに話したり警察に通報したりなんて気持ちは、すでに霧散していた。

 だから平気。問題ない。

 そう思っていた。

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