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Hotel Souma  作者: 霧海 森
4/4

ひとりぶんの、贅沢

 その依頼は、どこか異様だった。

 予約者の名前は「田口一人たぐち・かずと」、享年四十八歳。

 だが、連絡先に登録された親族の名も、来館予定者の欄も、白紙のまま。

 死亡確認を行った病院から、事務的に送られてきた書類には、淡々と「ご遺体は本日午前〇時、指定の火葬待機施設へ搬入予定」とある。


「身寄りが……いないんですか?」


 俺は上司にそう尋ねた。

 すると、彼は苦笑交じりに答えた。


「そのようですね。でも、生前にご本人がうちを予約していたそうです。最上ランクの“夜空”の部屋を、三泊四日。オプションの追加装飾も、香りも音響も、全部あり」


 贅沢すぎる――と思った。

 “夜空”の部屋は、一泊で一般の生活感覚なら数十万円。セット割引を活用しても、三泊ともなれば相当な額になる。

 それを、誰にも見せずに?

 誰にも、付き添われずに?


「……自分で、贅沢を買ったんですね」


 思わず、そう口に出すと、上司はわずかに目を細めた。


「理人くん。贅沢っていうのはね、“見せる”ためだけのものじゃないんだよ。きっと」


 その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。


 


 ◇


 


 田口一人氏の搬入は、午後だった。

 簡素な白布に包まれたその身体は、痩せていた。まるで、いくつも何かを我慢してきた人のように。


 手続きを終えたあと、俺は「夜空の間」のセッティングに入った。

 部屋は南向きで、大きな窓から空が見える。昼は青く、夜は星が散る。装飾担当の香坂と一緒に、花を運び、カーテンを整え、アロマディフューザーをセットした。


「音楽は、何がいいかしらね」


 香坂が呟く。遺言には「静かな音楽を」としかなかった。

 結局、ショパンのノクターンを選んだ。ピアノが夜を濁らせない程度に静かで、どこか無言のものたちに似合っていた。


 誰も来ないと分かっていても、俺はスーツを着直して、部屋の空気を整えた。

 田口氏は何も語らない。ただ、穏やかに、横たわっていた。


 でも、その穏やかさが、どこか――空々しく見えた。


 


 ◇


 


 三日目の午後、予想外の来客があった。

 「〇〇老人ホームの者です」と、名乗った女性職員。細い体つきで、手には茶封筒を持っていた。


「田口さん、うちのホームにいらした方で……急なことで」


 職員は語った。彼は、あまり多くを話さない人だったが、ラジオを流すのが好きだったという。政治や芸能、将棋の番組。

 家族の話は、まるで出なかったそうだ。


「でもね、亡くなる数週間前に、『自分が死んだらHotel Soumaに頼むから』って、ぽろっとおっしゃってて」


 職員はそれを笑い話のように話したが、俺には笑えなかった。

 誰にも言わず、誰にも見せず、誰にも頼まず。

 それでも彼は、このホテルを選んだのだ。


「……変わった人だったけど、嫌な人じゃなかったですよ。じゃあ、これで」


 職員は封筒を置いて、深く一礼して去っていった。

 中には、彼のメガネと、ノートが一冊入っていた。小さな走り書きのような文字が、ぎっしりと並ぶ。


 開くことは許されていない。だから、それが遺書なのか、日記なのかも分からない。

 でも、その重みだけは伝わってきた。


 彼は、ここに来るつもりで、長い時間をかけて“準備”をしていたのだ。


 


 ◇


 


 最終日、夜空の間は、静まり返っていた。

 音楽は流れていたが、どこか遠く、まるで自分の耳にさえ届いていないようだった。


 俺は一人、棺のそばに立っていた。

 理人――ホテルで働く俺にとって、たくさんの「お見送り」をしてきた日々の中で、こんなに孤独な空間は初めてだった。


 飾られた花は萎れず、カーテンは風に揺れない。

 アロマは香りを保ったまま、空気に何も溶かさなかった。


「……こんなに綺麗にして、意味があるんでしょうか」


 思わず、声に出した。

 誰にも届かないと分かっていながら。

 誰にも答えてほしくないと、知っていながら。


 それでも、どこかで俺は、あの人が**「ここでよかった」と思っていてくれたらと、願ってしまった**。


 誰も見ない贅沢。

 誰も触れない空間。

 それでも、それが“あの人自身が選んだ場所”なら。


 


 ◇


 


 ドアを閉めるとき、俺はふと、自分の背中に何かが残っているような気がした。


 寂しさではなく、違和感でもなく――妙な、納得のような、あきらめのようなもの。


 


 誰かに見せるための贅沢じゃない。

 誰かのためでもない。

 ただ、自分で「ここがいい」と思える空間で、最後の時間を過ごすこと。


 


 それは、もしかすると、生きているときにできなかったことの、埋め合わせなのかもしれない。

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