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Hotel Souma  作者: 霧海 森
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声なき父の宿泊簿

 「……本日は、お父さまのご宿泊ということで……」


 口に出した瞬間、成宮理人は内心で違和感を覚えた。

 “宿泊”という言葉が、やはり未だに馴染まない。

 目の前には、四十代前半と思しき男性客。背筋は伸びているが、どこか所在なさげで、挨拶に対する反応も遅れて返ってくる。


「ええ。……まあ、そういうことに、なるんでしょうね」


 そう答えた彼の声は、どこか遠くを見ていた。

 戸惑いと、未処理の感情のようなものが、輪郭を曖昧にしていた。


「『桐の間』をご案内いたします。お父さまは、先ほどお着きになったばかりで──ご希望の供花と、写真立てなどはすでに設置しております」


 理人の言葉に、男性──名を東條信一とうじょう・しんいちという──は軽くうなずいた。


「……俺、父親のこと、よく知らないんですよ」


「……と、申しますと」


「十歳のときに離婚して、それっきりです。最後に会ったのは、たしか二十年以上前。……そのあと、連絡がきたと思ったら、倒れたって」


 理人は言葉に詰まり、黙ってうなずいた。

 今までも、さまざまな“関係”を見てきたが、親子とはいえ、そこにはいろんな距離がある。


「顔もほとんど覚えてなかったけど……実際、見たら、やっぱり……父親の顔でしたよ」


 館内の廊下を歩く足音だけが、静かに響く。


「正直、何をしに来たのか、よくわかってないんです。ただ……どこかに、行かなきゃいけない気がして」


 “義務感”──いや、“予感”かもしれない。

 誰かが亡くなったとき、人は不思議と何かに突き動かされる。

 たとえそこに言葉がなくとも。


***


 「桐の間」は、モダンな和洋折衷の部屋だった。

 中央に安置された棺のまわりには、父が生前好きだったクラシックギターと、昭和の映画DVDが数本並べられている。


 信一は、棺の前に立ったまま、しばらく黙っていた。

 言葉を探しているのか、あるいは沈黙の中に何かを見つけようとしているのか。


「……すごいですね、ここ。まるで……生きてる人の部屋みたいだ」


「私たちは、“最後の滞在”という言い方をしています」


 理人の言葉に、信一は皮肉めいた笑みを浮かべた。


「最後の……ね。まったく。皮肉なもんです。こっちは一度も“滞在”できなかったのに」


 その言葉には、やるせなさが混じっていた。


***


 その晩、理人はスタッフ控室で、担当記録にメモを残していた。

 【遺族との関係性が希薄。会話も少なく、終始控えめな態度。過剰な介入は避けること】

 それはマニュアルに沿った対応であり、感情を挟まないための手順でもあった。


 ──ただ、どこかに引っかかりがあった。


 “知らない父を、なぜここまで見送ろうとしているのか”


 料理の希望はシンプルだった。「うな重をお願いします」──それだけ。

 思い出があるのかと聞くと、「さあ、なんとなく」と、信一は答えた。


 それでも、厨房では丁寧に下ごしらえされた国産鰻が焼かれ、香ばしい匂いとともに運ばれていく。


「よろしければ、一緒に召し上がりますか?」


 理人がそう提案すると、信一はしばらく無言のあと、小さく頷いた。


 「……食べたこと、あったんです。子どもの頃、一度だけ。川沿いの店で。……母親が、珍しく奮発してくれて」


「じゃあ……それを思い出して、注文されたのかもしれませんね」


「自分でも、気づいてなかったです。……不思議ですね。こんなとこで、昔の記憶を引っぱり出されるなんて」


 その晩、信一は黙ってうな重を口に運び、理人も隣に座って少しだけ手をつけた。


 沈黙はあったが、それは重苦しいものではなかった。

 “間”としての沈黙。音楽の休符のような、必要な静けさだった。


***


 三日目の朝。

 部屋には、ギターの音が静かに流れていた。生前、父が自宅で弾いていた音源をCDに焼いたものだという。


 「……本当は、ちゃんと話したかったんです。あのとき、もっと会いに行けばよかった。でも、それももうできない」


 信一は棺のそばで、しばらく目を閉じていた。


 「……けど、なんか、不思議と、こういう時間があるだけで……俺の中で、終わった気がするんです。未完のまま、じゃなくなったというか」


 理人は、静かにその言葉を受け止めた。

 ホテルのサービスが、遺体のためになるかどうかはわからない。

 だが、生きている人にとって──少なくとも、この人にとっては──意味があった。


 「……声はなかったけど、ちゃんと伝わったのかもしれませんね」


 信一は、ほんのわずかに微笑んで、棺の縁に手を置いた。


 「それなら……よかったです」


***


 チェックアウトを終えたあと、理人は空になった「桐の間」に一人で立っていた。


 何も語らない棺、静かに揺れるカーテン、ギターの音が余韻のように部屋に残っていた。


 “死者には、何も伝えられない”──そんなふうに思っていた。

 でも、ほんの少しだけ、今はわかる気がする。


 伝えられたのかもしれない。

 あるいは、伝わったのかもしれない。


 その“かもしれない”が、案外、思っていたよりも重いものなのかもしれない。

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