永遠のルームサービス
この施設に就職して、まだ二週間。
今でも、自分がなぜこの仕事を選んだのか、正直よくわかっていない。
「Hotel Souma」──
亡くなった方に数日間の“宿泊”を提供する、全国でも珍しい施設だ。
火葬場や納骨堂、葬儀プランも一括で請け負っており、価格はセット料金である程度抑えられているとはいえ、高級路線に分類される。
遺体を運び、部屋に案内し、好きだった料理や音楽を“提供”する。
言ってしまえば、生きていたときよりも贅沢な時間を過ごさせるわけだ。
正直、納得はしていない。
死んだ人間に、ここまでしなくてもいいんじゃないか──そう思っている自分が、心のどこかにいる。
けれど、それを口にするわけにはいかない。
新卒採用でこの施設に入ったばかりの自分には、発言権などあるはずもなかった。
──そんな自分が、今日初めて担当する“お客様”を迎えることになった。
***
「本日はご来館いただきありがとうございます。担当いたします、成宮理人と申します」
深く頭を下げながら、理人は自然に表情をつくるのに少し苦労していた。
目の前には、棺を抱えた運送スタッフと、それを見守る三十代後半の女性。清楚な服装に落ち着いた表情をしているが、その目の奥には疲労と喪失の影が濃い。
「母は、生前からこのホテルのことを気にしていたんです。『死んだらここに連れていって』って……冷蔵庫にパンフレット、貼ってました」
「そうだったのですね……。お母さまには『月の間』というお部屋をご用意しております。春には窓から満開の桜が見える特別室でございます」
「ありがとうございます。……母、きっと喜んでると思います」
遺体を“泊まらせる”というこの施設のコンセプトに、理人は未だ慣れない。
まるで生きているように──あるいは、生きていた頃よりも丁寧に扱われるその光景に、違和感を覚える。
しかし、宿泊客──いや、遺族たちは、それを当然のように受け入れている。
「ご滞在は三日間でお間違いないでしょうか」
「はい。火葬の日まで、ここでゆっくり……過ごさせてあげたくて」
“過ごさせてあげたい”──
その言葉もまた、理人にはまだどこか異質に聞こえた。
***
「成宮くん、夕食は“和・極上”プランにしてあるから、お寿司の準備お願いね。ウニとイクラは多めに」
支配人の天海は、いつもの柔らかな笑顔で声をかけてきた。
五十代手前、落ち着いた声と動作。理人から見れば、いかにもこの仕事を“楽しんでいる”ように見えた。
「……寿司ですか。召し上がれないのに、意味あるんですかね」
口から出た言葉は、思ったよりも重たかった。
天海は少しだけ笑って首を傾ける。
「意味なんて、あとからついてくるんだよ。大切なのは、“想い”だから」
その言葉に、理人は反論もできず、ただ黙って頷いた。
正直、何が正しいのかもまだわからなかった。
***
部屋は、まるで高級旅館のようだった。
ヒノキの香りが漂い、間接照明が温かく包むように灯っている。
棺はまるでベッドのように据えられ、周囲には故人が好きだった小物や写真が飾られている。
「音楽は、お母さまの好きなものをお選びいただけます。プレイヤーのボタンを押していただければ、流れ始めます」
娘がスイッチを押すと、部屋にシャンソンの調べが静かに流れ出した。
「バラ色の人生」──生前、よく口ずさんでいたという。
「母、この曲が大好きだったんです。『私もバラ色の人生を送りたい』って、よく笑ってました」
「……素敵な思い出ですね」
理人は、それ以上の言葉が出てこなかった。
遺族にとって、この数日がいかに大切な“時間”なのか。
頭では理解できても、腹の底にはまだ落ちてこない。
やがて、厨房から香ばしい匂いが漂ってきた。
ウニとイクラが豪快に盛りつけられた握り寿司。
氷の上に飾られたその皿が、丁寧に部屋へと運ばれてくる。
「どうぞ、お母さまの好きだったお寿司です」
「ありがとうございます。……なんだか、信じられませんね。こうして、最期の食事を“用意してあげられる”なんて」
娘のその言葉を聞いたとき、理人の胸に小さな違和感が生まれた。
“用意してあげる”ことに、これほど深い意味を見出す人がいる。
──それが、意外だった。
***
三日間の滞在が終わる朝。
部屋にはすでに桜の花が活けられ、送り出しの準備が進んでいた。
「……お母さん、きっと喜んでますよね」
娘の言葉に、理人は少しだけ目を伏せて、考える。
──喜んでいるかどうかなんて、誰にもわからない。
死者が笑うことも、泣くことも、もうないのだから。
けれど、目の前の女性は、ほんの少しだけ笑っていた。
その笑みが、どれほど無理をしていたとしても、涙のあとにやっと浮かんだものだったとしても──
(……悪くは、ないのかもしれない)
遺体が何を思うかはわからない。
でも、生きている人が、少しでも笑える時間があるなら。
そんな場をつくることに、ほんのわずかでも意味があるなら──
「はい。……きっと、そうだと思います」
理人は、ほんの少しだけ表情をやわらげてそう言った。
自分の言葉に自信はなかったが、それでよかったような気がした。