第七話
わたしたちは昼食を教室外で摂ることが多い。だいぶんクラスに慣れてきた加奈ちゃんだけれど、ずっと気を張って教室にいるのは疲れてしまうだろうから。
その日、わたしたちは天文同好会の部室で過ごしていた。狭い部室の中は出来立ての同好会だから物も少なく、いつ来ても整頓されている。
会話の流れの中で、突然加奈ちゃんが目を輝かせて言った。
「あまねちゃんはね、わたしの憧れなの!」
パンを齧っていたかんなちゃんが咄嗟に口元に手をやりごくりと無理やり飲み込むと、態とらしくにたにた笑った。
憧れだなんて言われたわたしは言葉が出なかった。自分がどんな顔をしているかもわからない。
わたしを他所に、面白いおもちゃを見つけたようにかんなちゃんが加奈ちゃんを揶揄いだした。
「天なんて脳天気なだけじゃん」
さりげなくわたしのことまで揶揄うかんなちゃんに反論はできない。
確かにひとつの悩みと土手で一日の終わりを見送る時以外のわたしはそうである。いつだってそうしている。お兄さんが心外そうな顔をしたように、演奏会で緊張したこともないくらいには能天気な自覚が自分でもある。
フォークを握りしめて加奈ちゃんが「かんなはわかってない!」と頰を膨らませた。
照れくささ半分、嬉しさ半分、でも疑問。
わたしに憧れる部分なんて本当にあるのだろうか。箸を置いて考えてみても疑問。
きっとわたしは憧れられるような存在じゃない。目前を見つめるのが怖いわたしは、寧ろ今の加奈ちゃんの方が素敵だと思う。加奈ちゃんが少しでも在りたい自分でいられますようにと願いながら、毎日思う。
そのあと、わたしは加奈ちゃんの弁に面を食らった。いつだって強気な性格を前面に押し出しているかんなちゃんが、一瞬穏やかに静かに微笑んだ。
「あまねちゃんみたいに柔らかいふわふわした女の子になりたいの。わたし、こんなだから。いつどこにいてもふんわり笑ってるあまねちゃんが好き!」
いつだって微笑みを絶やしたくないだけの、のんびり屋で能天気のわたしが、そんな風に加奈ちゃんの目に映っていたことを初めて知った。
可笑しそうにからからとかんなちゃんが笑うから、加奈ちゃんが向かいに座るかんなちゃんを遠慮なく睨む。
「確かにあんたには無理かもね」
「これでも頑張ってるの!」
かんなちゃんは加奈ちゃんと幾つかやり取りしたあと、冷静な顔と声で言った。
「憧れなんて、所詮憧れだよ」
かんなちゃんらしい考え方だと思う。
かんなちゃんは冷静沈着、に見えて沸点が低くて怒る時は常に激怒。とにかく気が強いし口が立つから、喧嘩で負けたところを見たことがない。
わたしから見えるかんなちゃんは、形のないものをわざわざ形にしようなんて無駄、形ないままでいいとあるように映る。はっきりきっぱり物事を仕分けるかんなちゃんは形あるものを大切に大切にしているけれど、それは形ないものを蔑ろにしているのとは違うように感じる。
加奈ちゃんの言葉が嬉しくて、考えもなくわたしはこんな言葉を口にしていた。
「加奈ちゃんは加奈ちゃんのまんまが一番好きだよ、わたし」
と、加奈ちゃんが首を傾げた。
「わたしらしいってどんなだろう?」
かんなちゃんもわたしも言葉を失くした。
わたしたちの目に映っている加奈ちゃんは、あくまでわたしたちが知っている部分だけだ。わたしは加奈ちゃんの全てを知らなければ、加奈ちゃんを見ていて思うこともわたしの憶測でしかない。
加奈ちゃんは、やはりみんなよりも形に出来ないものをたくさん抱えているのだろう。そんな加奈ちゃんは、きっとそれらを形にしようともがいているのだ、ずっとずっと。そんな風に思えた。
「あのさ、加奈子。何かに憧れを持つって良いことだと思うけれど、あんたの成りたい自分て何?」
かんなちゃんが、冷めた目をしているくせにやたらと真剣な口調で加奈ちゃんに問いかけた。それは心を許す相手に対する情が伴う少しだけきつい口調だった。
考える加奈ちゃんと一緒にわたしも成りたい自分を考えてみた。
わたしが成りたい自分は形のないものに囚われない自分だろうか。それはきっと違う。囚われずにいるならば、歌声にそれを乗せようなんて思わないだろうし、形あるものだけしか見つめずに追いかけるはずだ。
わたしが見つけた答え、それは常に素顔の自分。臆することない素顔を晒せる自分に成りたい。
わたしらしくなんて考えずに、わたしの全身で何かを伝えたり笑ったりする為に必要なこと、それはこれだけだと思った。形あるものも形ないものも全て大切なわたしの一部なのだから。
「……いつも素直に居たい」
加奈ちゃんはそう言うと困ったような表情を浮かべた。
答えを出した加奈ちゃんは、たぶん答えを持っていた。
素直になれない加奈ちゃんの本音を円佳君は知っていただろうか。
わたしは、加奈ちゃんは常に素直だと思っていた。けれども加奈ちゃんの持つ本当の素直は違うところにあるのだろう。
まるで弱気なことを言ったことがない加奈ちゃんは、三人で居るといつも楽しいと笑っていた。いつも笑っていた。
いつしか笑わなくなって、わたしたちは三人で居ることがなくなった。
わたしと円佳君の関係がとても好きだと言っていた加奈ちゃんはいつか円佳君が好きになった。
加奈ちゃんが円佳君への気持ちをわたしに教えてくれた日、加奈ちゃんの恋を応援したいと思った。加奈ちゃんと円佳君がふたりで笑い合う姿を想像したら心が温かくなって、そんな光景をとなりで見つめていられたなら嬉しいと思った。わたしはまるでわがままだった。加奈ちゃんを応援しているくせに、今が変わらないと信じ込んでいた。変えなくてもいいと勝手に思い込んでいた。
加奈ちゃんが円佳君に自分の気持ちを伝えたあとも三人で笑い合っていたけれど、だんだん加奈ちゃんの笑い方が変わっていった。
ふたりとも大切な友達だから応援したいと思っていたら、加奈ちゃんに詰め寄られた。
「友達でしょ!」と強く言った加奈ちゃんにごめんなさいと言った。一緒に帰ろうと言った円佳君にごめんなさいと言った。わたしは毎日ごめんなさいと言って、自分の居場所を空けようとした。
そんな風に変わっていったわたしたちの形を、みんなは不自然だと言ったけれど、円佳君に対する加奈ちゃんの気持ちとわたしの気持ちはお揃いではなかった。
何かが崩れる音がした。
誰かが加奈ちゃんを非難した。加奈ちゃんが邪魔をしないでと言った。息苦しさを覚えていたのに、わたしはこのままでいいのと言った。きっと捻り出した声が小さ過ぎた。そしてそこには円佳君が居なかった。円佳君は何も知らない。
いろんな歯車が噛み合わなくなる度に、どんどん加奈ちゃんは円佳君の元へ近づいていった。わたしは完全に居場所を手放した。
みんなが守ってくれようとしたわたしの居場所をわたしは守れなかった。
ごめんなさいと言い続けて、そのうち円佳君と言葉を交わすことがなくなって、寂しそうな円佳君を見えなくした。嬉しそうに笑う加奈ちゃんの横で困った顔をしている円佳君が見えなくなった。
それからわたしは立ち止まったまま動けないでいる。先へ進む方法がわからない。
目を合わさなくなって、肩の向こう側が寂しくて、わたしはわたしたちだけの大切な言葉すら持ち得なくなった。
わたしちの形を失くしていた。