第五話
「あれからどう?」
音楽室からキーボードを借りてくるのを忘れた新君はリズム取りの練習をしていた。打楽器のスティックを止めて突然言った。
放課後、適当に空いていた教室で文化祭の打ち合わせをしていた。ある程度話が纏まったところでそれぞれの時間を過ごしていた時のことだ。
演目の進行表を元に譜面の細かい書き込みに目を通していたわたしは顔を上げて答えた。
「相変わらずかんなちゃんと水と油で面白いかな」
転校してきてからの加奈ちゃんはいつも何かしらの葛藤を抱えているように見えた。
かんなちゃんと年中言い合いをしている直情的な加奈ちゃんを見ていると、どうしてか安心する。牙を剥くのとは違って見える。
わたしは不安だった。
加奈ちゃんは未だクラスに馴染めていない。
クラスに馴染みたいと思っているのかすら量れなくて、加奈ちゃんがどうしていたいのかわからない。
新君が尋ねたかったことはそのことについてなのに、まるで違う返答をしたわたしに、察した新君は一瞬遣る瀬無い顔をした。それから愉快に目を輝かせて可笑しそうに言った。
「かんなってさあ、何だかんだ言いながら水と油の相手が好きなんだよ!」
と、反復練習をしていた甲斐先輩がくすくす笑った。次いで言った。
「あの子さ、面白いよね」
新君とわたしは顔を見合わせた。
わたしはもう加奈ちゃんへ自分なりの本当の笑顔を見せることが出来るようになっていた。
加奈ちゃんはかんなちゃんにくっ付いて、わたしたちの練習を聴きに来る。かんなちゃんは最初、面倒くさそうで嫌そうだったけれど、今ではそんなこともない。最初は私たちも困惑を抱いたけれど、演奏をはじめた途端に心地好さそうに肩を揺らした加奈ちゃんの姿に一瞬で喜びを覚えた。
今はもう、少なくともわたしと新君の中では、かんなちゃんと共に加奈ちゃんが聴きにくることは当たり前の日常に成り代わっている。
甲斐先輩の加奈ちゃんへの接し方だけは相変わらずだから驚いた。
「面倒くさいとは言ったけど、俺。別にあの子のこと迷惑だなんて言ったっけ?」
「あ」と言ってそのまま新君が口を噤んだ。わたしは新君が言いそうになったことが何かわかってしまった。
甲斐先輩は面倒くさい人が嫌いなのではなくて、どちらかといえば好きなのだ。
これを口に出してしまうと、楽しそうに「面倒くさい」ある人への愚痴を止めどなく聴かされるかもしれないから、わたしも口を挟むのはやめた。
「……最初はちょっとどうかと思ったけれどね」
壁を作っていることを否定してから本音を言った甲
斐先輩には、とても「面倒くさい」親友がいる。甲斐先輩のその「面倒くさい」親友と共に天文同好会を立ち上げたかんなちゃんも、そして楽天家の新君まで「あいつは面倒くさい」といつも言う。どうしてかわたしは今のところ「面倒くさい」羽目にあったことがない。
その先輩もひどくわたしたちの音楽を愛してくれている。わたしたちの大切なひとり。
わたしはひとつの明確な答えを見つけていた。
わたしは加奈ちゃんがちゃんと好きだ。悩んでいたのは、前からちゃんと加奈ちゃんが好きだったからだ。
ひとつひとつを見つめていたら気付けた幾つもの形の在りようは、更に繋げていくことで新しい形に生まれ変わっていくのだと覚えた。それは永遠にきっと続いていく。形のない何ものかの正体を永遠に知ることが出来ないように。
もしかすれば、わたしが歌うことを愛する理由の一端にそれもあるのかもしれない。色んな想いが輪を繋いで広がっていくようにと。
笑っている加奈ちゃんが好きだ。加奈ちゃんにはいつも笑っていてほしい。そんな風に今は思う。
かんなちゃんとのやり取りで感情を露わにしたあと、「あまねちゃん、聞いて!」とやって来て、一通り経緯を話した最後に加奈ちゃんはすっきり笑う。加奈ちゃんの弁はいつも面白くて、わたしが笑うから加奈ちゃんがすっきりした顔で笑ってくれる。
わたしは昔の加奈ちゃんと過ごしていた頃の自然体とは少し違う形で加奈ちゃんの横で過ごせるようになっていた。見えていなかったものが少しずつ見えはじめたら、気持ちがぐっと広がって、自分でも驚くほどに近づいた。
かんなちゃんはなんだかんだで加奈ちゃんを気に入っている。あっけらかんとしている新君に加奈ちゃんは媚びることなく懐いていて、新君もいつも楽しそうで嬉しそうに見える。そうして元々世話好きな甲斐先輩も加奈ちゃんが嫌いではないことがわかった。因みに甲斐先輩の「面倒くさい」親友も加奈ちゃんを気に入っているけれど、まだ加奈ちゃんは変わり者のその先輩に慣れていなくていつもびくびくしている。
加奈ちゃんはあっという間にわたしたちの大切なひとりに成り代わっていた。本当にあっという間だった。
加奈ちゃんはわたしたちの前でぶりっ子を装うことをしなければ、牙を剥くこともない。いつも明るく元気で、わたしの好きな柔らかい笑顔も浮かべる。
円佳君に話したいことが増えた。わたしは加奈ちゃんが大切だと伝えてみたい。円佳君ならきっと微笑んでくれる。変わってしまったわたしたちの形に加奈ちゃんは関係ないのだと確かめたいのだとも思う。
わたしは未だに円佳君が見られない。円佳君を見つける為に必要なものが形となってくれない、見つからない、見えない。手に取れない。
こんなにも伝えたいことが増えていくのに、勇気がないわたしは臆病で、中学時代の出来事はその臆病さが起因していたのだと今ならわかる。
周りに自分の気持ちを押しつけるような加奈ちゃんを見て、わたしは怖かったのだ。自分も同じになってしまったらどうしようかと。
大好きだった円佳君の穏やかな微笑みを失いたくなくて、だから失う前に加奈ちゃんも円佳君も見えなくした。
発端は三人で笑い合っていたあの頃の先にあっただけ。三人で過ごしたあの時間はわたしの大切な時間だった。円佳君とふたりで過ごしたあの時間はいつまでもわたしの大切なもの。
いつまでも三人で笑っていたい、いつまでも円佳君のとなりで横顔を見つめていたい。わたしはいつかこのわたしたちだけの形が壊れるなんて、思ってもみなかった。
円佳君と静かに心地好く過ごしたあの頃に戻るために必要なこと、それはわたし自身が形ある行動をとることにしかない。
無性に円佳君が恋しいのに、みっちゃんのとなりに居る円佳君をわたしは変わらず見つけられない。
一度距離を置いてしまった加奈ちゃんと一緒。一度距離を置いてしまった円佳君のとなりに戻ることはひどく困難を伴う。
会いたい、となりであの微笑みをまた感じたい、そっと手を重ねたい。一日の終わりを二人で並んで見届けたい。
背中越しではなくて、ふたりで寄り添って変わり往く空を見送りながら、大切な一日を心に刻み込み仕舞いたい。
そんな風に願うのに、円佳君のそばへ行けないわたしの、形にならない想いばかりが膨らんでいく。
それらはまるで宙に浮いていた。
手を伸ばしても形がないから掴めなくて、さらさらと消える音だけが残る。
拮抗する気持ちのうち、形が見えているものは、恋しいというもの、今もまだとなりに居たいと願っているということ。その延長線上や対角線上にある感覚は見つからない、見えない。見通しが付く程の形を成していない。
この気持ちが形となったならば、またとなりに寄り添いたいというわたしの願いは何かしらの形を以って成るのだろうか。