第四話
窓際の一番後ろに付け足された机、わたしやかんなちゃんのそばに来る時以外、加奈ちゃんはいつも席に着いたまま外を眺めていた。その表情には構ってほしいと書いてあるのに、話しかけてくる子たちへ、加奈ちゃんはとにかく大人しく返答しまごつく。会話が伸びず、困ったみんながさりげなくそばを離れていく。
悔しそうな顔で俯く加奈ちゃんのそれは、二律背反したものを持て余しているかのように見えた。
そんな加奈ちゃんを見るのは初めてだった。
助け舟をだすべきかもしれない。けれどわたしは、加奈ちゃんの問題だからと割り切ってしまった。酷い友達だと自分でもわかっている。
加奈ちゃんがわたし以外の他の誰かへ執着を移してしまえばいい。
そんな風に思ってしまうわたしはやはり酷い友達だ。だから今のわたしは、わだかまりとは関係なく、加奈ちゃんの親友にはなれないと思う。相応しくない。
甲斐先輩を冷たいと感じたくせに、充分わたしも冷たい。
転校してきてから一週間以上経って、加奈ちゃんに話しかけるクラスメイトが減ってきた。そうして加奈ちゃんはわたしたち以外と会話らしい会話を成り立たせていなかった。
加奈ちゃんは賑やかだったり強気だったり忙しい。自分から他人へ踏み込むことは躊躇わないけれども、他人が自分に俄かでも踏み込んでこようとすると牙を剥く。しかしそれは拒絶とは違った。
そんな風にしか他人を受け入れられない加奈ちゃんを前に、相手はもちろん同じ感覚を持って接してしまう。だから誰も拒絶はしない。
拒絶するならば、関せずに完全に距離を置く。だからある時諍いが起こった。
加奈ちゃんと諍うみんなは拒否できないわたしとは違った。
まるで極端なその真ん中に居ながら、わたしは何も出来なかった。ただただ辛さだけを握りしめる。
最初の一度でわたしは知ってしまったのだ。
そういう時、加奈ちゃんにはわたしの言葉が届かない。
争うことが苦手なわたしは言葉を持てなくなってしまった。
教室の隅で明るくない表情を浮かべ続ける加奈ちゃんを見ていたら、ぽつりと忘れかけていたことを思い出した。
忙しい性格をしているくせに、加奈ちゃんは時々とてもおっとりとした笑顔を浮かべる。
きっとそれはわたしと円佳君しか知らない加奈ちゃんの顔。わたしは加奈ちゃんのその笑顔が好きだった。円佳君も好きだと言っていた。
今のわたしは加奈ちゃんの嫌いなところばかりを見つめてしまっていたことに気づいた。
素敵なところをいっぱい知っていると言いながら、これはわたしと円佳君の問題だと思いながら、加奈ちゃんだけが悪いわけじゃないと知りながら、結局加奈ちゃんを悪者にしていたのだ。只管に自分を擁護していたのだ。
加奈ちゃんの良いところだけを見つめてみることにした。きっとその形は多過ぎてきりがない。
この話をみんなにしたら、「天ちゃんらしい」と何事にも前向きな新君は目を輝かせて、「天ちゃんらしい」と甲斐先輩は加奈ちゃんを拒絶したのにはにかんだ。かんなちゃんは、「天はそれでいい」と愉快そうに笑った。
わたしは今の加奈ちゃんに何かしらの変化を求めているのかもしれない。
無性に円佳くんと話がしたくなった。加奈ちゃんが帰ってきたよと教えたいと思った。きっと円佳君は今だって微笑む気がする。穏やかに微笑むだろう円佳君の姿がわたしは見たいのかもしれない。
いつか円佳君とわたしがふたりだけで居るようになって、加奈ちゃんと居る時もわたしの横に円佳君が一緒に居るようになった。ふたりで居る時も三人で居る時も、円佳君はいつも穏やかな微笑みを浮かべていた。
三人で一緒に居た頃、となりにまだ円佳君がいた頃の、穏やかな日々が懐かしい。円佳君はいつも目を細めて心地好さそうに笑っていた。
円佳君と加奈ちゃん、ずっと三人で心地好く過ごしていられたら幸せだなと思っていたのに、わたしたちの関係はそのうち壊れてしまった。
毎朝行き会うのに、おはようも言えないわたしはやっぱり何も言えない。円佳君も何も言わないから余計に言えない。
みっちゃんには言いたくない。きっと嫌な顔をする。
わたしの周りがごちゃごちゃしはじめた時、みっちゃんの目が険しく加奈ちゃんを捉えたことを知っている。それから円佳君を見る瞳にも嫌悪が浮かんでいた。
みっちゃんはわたしに、わがままと本音を吐くことは違うと言った。随分経って後、本音を言わないのもわがままかもねと言った。
円佳君に伝えるにはわたしから直接話すしかない。
伝えたいこととは裏腹に、わたしの中には形にし難い感覚があった。
円佳君のことを思うと恋しいのに、様々な感覚が押し寄せてそれぞれの形になってくれない。
土手で膝を抱えるわたしの後ろで鳴るきぃというブレーキ音、それが円佳君の自転車だとみっちゃんが教えてくれた。
わたしたちは、一日の終わりを一緒に見送る時間がとても好きだった。みんなの中に居ると活発な円佳君の、静かな笑顔が好きだ。
初めて円佳君と一緒に帰った日、家を通り越しても、円佳君は「また明日」と言わなかった。足を止めずに話の続きをしていた。
学校を出て直ぐの角を曲がって住宅街をくねくね歩くと、狭めの一本道に出る。どこを曲がっても同じ道に出るから、曲がる場所はいつも気紛れに決めていた。その狭めの道の延長線上に徒歩通学の円佳君とわたしの家はある。通学の中で、この道を歩いている時間が一番長い。
円佳君の家から少し歩くと田んぼがぽつりとある。わたしはその田んぼから見る風景が好きで、毎日必ず足を止める。
田んぼは一年を通して姿を変えていく。その田んぼと一緒に見える景色も毎日違う風に目に映る。
その時、自然と足を止めたのはわたしではなくて円佳君だった。
「この景色、好き」とわたしの方を向いておっとりと言った円佳君に「わたしも」と返した。うちの前の土手の話をして「一緒に見つめてみたい」と気持ちが零れた。目を細めて「見てみたい」と柔らかに言った円佳君がわたしを見つめた。
それから円佳君はもう少し行くとあるわたしの家まで送ってくれた。
日が沈んでいて一番星が輝いていた。
一緒に同じ景色を見つめる日々が始まって、わたしは一番星と円佳君の横顔を抱きしめて、大切な歌を口ずさんでから眠りにつくようになった。
無性に淋しい夜、今もそうしていると、すうっと眠りに落ちることが出来る。
円佳君はいつも夕方のあの時間に、一日を見送りたくてあそこで自転車を止めるだけかもしれない。目を合わせなくても、となりに居なくても、言葉がなくても、わたしとの時間を共有したくてそこに居てくれるのか、わたしにはわからない。見晴らしがいいから一日の終わりがよく見える。それだけかもしれない。
今の円佳君の中に、まだわたしは居るのだろうか。
会いたいけれど会えないわたしは不安なんだ。不安を覚えているに違いない。
不安ほど不安定な形はないと思う。
見えているようで見えていない。
見えていないようで見えている。
狭間にあるそれは曖昧過ぎて、形を既に持っているのかもしれないのに、見つめても形として見え難く、わたしの手にはまだ取れない。
この不安をどんな形で消化すればいいのか見つからない。
わたしはどうしたらいいのだろう。どうしたいのだろう。
その曖昧さがもどかしくて、わたしは感覚のままを言葉へ乗せてみた。出来上がった詞はまるで抽象を保っていた。
これはこれでわたしの持つ形あるものであるから、出来上がった詞を前にわたしは思った。
形を持てないのではなく、形を持たないものなのかもしれない。
わたしは今の円佳君との関係を加奈ちゃんへ伝えてしまうべきなのかもしれない。壁がまだあることを知らせるべきか思い悩みはじめた。
わたしと円佳君のことを誰よりもよく知っているのは加奈ちゃんだった。いつからか三人で一緒に過ごしはじめて、一番近くでわたしと円佳君を見ていたのは加奈ちゃん。
だからそれはやっぱりしてはいけないことにも感じる。
このつっかえを手放せないでいるのはわたしだけかもしれない。わたし以外の全ての人の中ではとうに終わったことなのかもしれない。消えているだろうつっかえを掘り起こすのは間違っている。
かんなちゃんや新君、甲斐先輩はわたしの円佳君に対するこのつっかえを知っている。知っているだけで詮索はしない。わたしのつっかえがわたし自身のものだけであることを理解してくれている。だから時々ぽつりぽつりと円佳君への曖昧になってしまった形があるのかどうかもわからない想いをみんなに打ち明ける。
わたしのこのつっかえは、ある時歌に乗ってしまった。練習曲を終えた瞬間に新君と甲斐先輩が神妙な顔をしていた。だからぽろりと少しだけ言ってしまった。取れないつっかえと少し重なってしまったと。
会いたいのに会いたくなくて、会いたくないのに会いたいこの感覚は何だろうと尋ねたら、二人は答えをくれなかったけれど、わたしにも悩みがあって良かったと妙に納得されたのは入学してすぐのことだった。
その時、「こんな風に歌に乗せられるなら無駄なものじゃない感覚だと思う」と甲斐先輩が言った。その感覚、大切にしたらいいよと。
どんな感覚でも感触でも、もどかしくても葛藤を抱いても、抱えるもの全てがわたしの大切な大切な感情であることは確かだった。