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第三話

 昼休み、わたしは甲斐先輩と音楽室に居た。

 甲斐先輩は怒るとそれはそれは恐ろしいのだけれど、普段はとても穏やか。そもそも滅多に怒らない。

 穏やかな表情を崩さない甲斐先輩は常に何かを抱えているようにも見える。それを顔に出すことを好まないのか、単純に気にしないでいるだけなのかはわからないけれど、翳った自分を他人に見せることがまるでない。時々、何かの拍子に困ったように笑うことはある。

 物事を整理することが得意な甲斐先輩は、形になれないものをどうやって整理しているのだろうか。

「ちょっと! その不景気面、いい加減やめろって」

「だってー、そんな気分じゃないんです」

「だってーじゃない。折角人が可愛くしてあげてるのに」

「それよりもわたしは先輩がどうしてこんなこと出来るのかさっぱり謎」

 わたしは今、甲斐先輩の手によって化粧を施されている最中だった。

 甲斐先輩はとにかく器用だ。だからといって男の人がお化粧を熟せるなんて思いもしない。

「あ! だから動くなって」

 文化祭の打ち合わせをしながら昼食を摂ったあと、新君が教室に忘れてきたわたしの辞書を取りに出ていった。すると甲斐先輩が鞄から小さなポーチを取り出した。文化祭でわたしにお化粧をしたいから練習させてと押し切られた。

 小さなブラシが顔面をちょこまかと動く。慣れていないからむず痒くて堪らない。化粧なんて機会がないからしたことがなかった。それはもうむずむずうずうずが止まらない。

 動くなと言われると動きたくなるのが人間の性、それを我慢していたら、なんだか笑いが込み上げてきた。

 わたしがくすくす笑いだしたら、甲斐先輩がご機嫌に破顔した。背がとても高い甲斐先輩は綺麗な顔立ちをしている。大男なのに笑うと女の子みたいに可愛い。

「そうそう、そうやって笑ってなさい」

 出来たよと渡された鏡に自分が映っている。いつもと少し違う自分が居る。不思議な気分で、くすぐったい。

 こんな自分の形もあったのかと少し驚いて、それからわたしはなんだか嬉しかった。

 はにかんだら、目を細めた甲斐先輩が満足そうにわたしの頭を撫でた。甲斐先輩はよくわたしの頭を撫でる。その大きな手は安心感をくれる。

「うん、可愛い可愛い。さすが俺」

 自画自賛する甲斐先輩はギターオタクで化学オタクだ。化粧も化学だと言いそうだ。

「それにしても新が遅い」

 甲斐先輩は使ったメイク道具を傍らのポーチに仕舞い、次いでお化粧落としを取り出した。さっさとしないと休み時間が終わってしまう。とにかく新君が戻ってこない。自分たちが今音楽室に居る本当の目的はお化粧の練習ではない。

「このまんま授業出るわけにはいかないものねえ」

「そ。このまま待ってたら落とす時間なくなっちゃう」

 そう言って甲斐先輩がメイク落としのシートを手にした時だった。黄色い声が入り口から飛んできた。

「わあ! あまねちゃん、可愛いー!」

 加奈ちゃんだ。その後ろに顰めっ面のかんなちゃんが居た。

 うっかりわたしたちは音楽室のドアを閉め忘れていたようだ。

「誰?」

 小声で甲斐先輩が面倒くさそうに聞いてきた。

「うちの転校生、です」

 そんな遣り取りをしているところに加奈ちゃんが構わず混ざってくる。

 甲斐先輩はやさしい。態度に一切出さずに丁寧に加奈ちゃんの相手をはじめた。

 わたしと呆れきった顔をしているかんなちゃんは、甲斐先輩の顔を見ただけでわかってしまった。

 甲斐先輩は、瞬時に加奈ちゃんに対して感じたことを整理して区別した。

 優しく相手をしている甲斐先輩は加奈ちゃんとの間に壁を作ったように見えた。

 学年も違うわたしと新君と甲斐先輩、そしてかんなちゃんが仲良く在れるのは、大切な者同士の素敵なところを尊重し合えるからだ。気付いてしまった機微へ、必要なら言葉を渡しても、無闇に相手へ踏み込むことを好まない。

 そんな関係性を好むわたしたちの時間に、加奈ちゃんは土足で踏み入ったに等しい。嫌悪感を抱かせても仕方のない方法で、相手の気持ちなど省みずに飛びついた。どんな人でもあまり好まない出会い方だと思う。

 新君早く来ないかなあと、こっそり全ての原因をここには居ない新君に押し付けてみる。

 甲斐先輩はわたしの化粧を丁寧に落としながら、器用に加奈ちゃんの相手をしている。すっかりわたしは蚊帳の外にいて、入り口の横に背中を預けているかんなちゃんが無言で腕を組んでいる。

 メイク落しがひんやりとして気持ちが良い。なんだがすっかり疲れてきた。



 「お待たせー!」と辞書を片手に駆け込んできた新君が、見知らぬ女の子へ目を釘付けにした。それからそろりと視線を逸らした。

 たぶん、加奈ちゃんではなくて甲斐先輩を視界から外したのだと思う。

 するとかんなちゃんが横から思いっきり新君の背中を叩いた。「ぎゃあ!」と叫んで恨めしそうな目をした新君は、流石は幼馴染み、大概かんなちゃの性質を理解している。新君に対するそれは間違いなく八つ当たりだ。だから新君は文句を言わない。

 気の毒になってしまったけれど、きっとわたしのせい。もしわたしのせいでなければ誰のせいだろう。



「さーて、練習すっかあ」

 新君にしては低い語調でさっさとピアノに向かって行く。顔には決して出さない。

「聴いていったら駄目ですかあ?」

 猫なで声の加奈ちゃんが甲斐先輩にお願いすると、躊躇いもなく甲斐先輩は溜息を吐いた。何かの拍子に眉間に皺を寄せる癖のある甲斐先輩はそれをしなかった。

 かんなちゃんがすうっと加奈ちゃんの腕を引っ張る。加奈ちゃんは大人しくそれに従った。

 なんだかその場に居た、加奈ちゃんを含めた全員に申し訳なくなってしまった。



 ふたりが音楽室を出ると、時間がないから一曲だけ合わせることにした。

 甲斐先輩の大事な人に語りかけるような優しいギター、新君のピアノへ慈愛を注ぐような穏やかなのに弾むピアノ、そしてわたしの声が音楽室に響きだす。

こうしていると、小さな音楽室がどこまでも広がっている気分になる。

 このわたしたちの世界で満ちた音楽室の中で、わたしたちはそれぞれ様々なことを想い馳せる。想いはそれぞれ違うベクトルへ向いているのに、三人で作った曲はいつもそれぞれが抱きしめる想いを繋げてくれる。

 わたしたちの奏でる音色が溜まらなく好きだと、いつもかんなちゃんは言ってくれる。大好きなもののひとつだと嬉しそうに微笑む。かんなちゃんはバンドのメンバーではないけれど、今のわたしたちの音楽はそのかんなちゃんの微笑みを以って出来上がる。

 音を奏でる時に抱きしめる大切な想いのひとつに、みんなの共通するかんなちゃんが存在しているから、勝気な彼女の普段見せない静かに満ちたような微笑みがわたしたちの音楽の完成形。



 甲斐先輩の仰々しい溜息で加奈ちゃんは何を感じただろうか。わたしには量れないものだ。

 去り際の加奈ちゃんの浮かべた表情には不満と淋しさが伴っていた。 

 加奈ちゃんのその横顔はわたしが好まないもの。

 それは突き放せない自分が正しいのかわからないからかもしれない。



「中学の友達?」

 音楽室から出て歩いていたら新君に聞かれたから、わたしは友達だと答えた。

「いじめっこじゃなくて?」

 頷くと新君は更に畳み掛けてきた。どうしてか納得いかないらしい。すると横から黙っていた甲斐先輩が言った。

「あの子、天ちゃんのこと大好きみたいだよ」

 わかっている。加奈ちゃんはわたしのこともちゃんと好きだって。でも、わたしよりもわたしの周りのものにばかり不躾な興味を持つ。

 明らさまに顔を顰めてしまった。新君が驚きの声を挙げる。そうして複雑そうに「なるほどね」と呟いた。

「ああいう子はね、はっきりきっぱり言ったところで大変なんだよね。悪意がないから。だったら放っておいた方がよっぽど害がない」

 そんな風に言った甲斐先輩が珍しく冷たく感じた。棘があるように感じてしまった。

 理屈屋の甲斐先輩がギターの音色にそれを乗せることは一切ない。それは甲斐先輩の中にひとつの大切で明確な何かがあるのだと思う。甲斐先輩の一番愛おしいものへの想いはきっとぶれない形としてあるのだろう。

 ぶれない感覚を持つ甲斐先輩の中で加奈ちゃんは印象が悪かったに違いなく、あれは見て見ぬ振り、拒絶する時の顔。新君がいじめっこじゃないかと疑い、なかなか諦めなかったのもそういうことだと思う。

「とっても良い子なんですよ? でも少し奔放なところがあって。前にね、涙目で詰め寄られたことがあったんです。友達でしょ! って」

 あの時、わたしは友情を押し付けられた気分だった。加奈ちゃんのその奔放はわがままにしか思えなかった。だからわたしは距離を取っていった。突然突き放すことは出来なかったし、したくなかった。

 なんだか心がしんみりしてきてしまった。

「色々あったわけね」

「まだ気持ちの整理、全然付いてない」

「向こうは相変わらず大好きな大親友だと思ってるわけ」

 わたしと甲斐先輩の幾つかの遣り取りで何か合点がいったのだろう新君が言った。

「だからかあ。かんながあんな怒ってるの久々に見たよ、俺」

「悪い子じゃないんですよ。だからあんまり苛めないでください、ね?」

 「ね?」と念を押したそれは甲斐先輩に向けたものだけれど、当の甲斐先輩といえば答えるでもなく素知らぬ顔を押し通した。

 別れ際、二人がわたしの頭をぽんぽんと撫でていったけれど、それが激励なのか呆れなのかよくわからない。

 わたしは一体どんな顔で二人と会話をしていたのだろう。声が少し沈んでいたのは確かだと思う。





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