第二話
クラスに転校生がやって来た。その転校生は中学の途中までいつも一緒に過ごしていた女の子だった。
教室の中にわたしを見つけたその子と目が合った。恥ずかしそうに教壇の左に立つその子の長いおさげが俄かに揺れる。わたしは少しだけ目を伏せた。彼女の輝いた目から逃げた。わたしには、今はまだ再会したいと思えない理由があった。
きっとわたしのことを友達以上に、まだ親友のように思ってくれている。その子はそんな目でわたしを見ていた。
今のわたしの基準では、いつだか遠くに気持ちが離れたその子のことをただの友達以上に置くことが出来ない。
親友のような立ち位置から下がってしまった友達は友達以下にはなれなくて、友達だとは思っている。
再会してしまったその子とどんな関係性を持てばいいのか疑問に思った。もし上手く保てなかったら、その時わたしはどうするべきなのだろうか。そんなことが脳裏を過ぎったら、机の下でぐっとスカートを掴んでしまった。
嫌いなわけじゃない。その子の素敵なところをわたしはたくさん知っているはずなのだ。
「天、昼休みは?」
一限が始まるまでの賑かな隙間時間にそう尋ねてきたのはクラスで仲良しのかんなちゃんだ。大切な大切な友達。
かんなちゃんが覚束ないわたしの雰囲気を察したような顔をしている。
わたしの名前、天音の音を除いて音読みの「てん」というこの呼ばれ方、わたしはとても気に入っている。
「音楽室なの。甲斐先輩と新君と約束してる」
甲斐先輩というのは音楽部の三年生の先輩。ギター弾きの甲斐先輩は包み込むようにそっとギターを抱え、愛おしそうに撫でるように弦を弾く。大切な人へ語りかけるように。
わたしと新君と甲斐先輩、スリーピースのバンドとして音楽部で活動している。
わたしの答えに、かんなちゃんは何かを考えているようだった。そうしてひとりでなにやら納得している。
「ねえ」と言いかけたところに横槍が入り、尋ねてきた目的はわからなかった。そうしてわたしは作り物の、無理した笑顔を貼り付けた。
転校生の加奈子ちゃんをわたしは加奈ちゃんと呼んでいる。親友じゃないと思いながらも、嫌いなわけでないわたしは、やっぱり加奈ちゃんと呼びたかった。加奈ちゃんは友達。大切だった友達。
だからわたしは、加奈ちゃんが好きだといつも言っていた笑顔を作った。
加奈ちゃんは中学二年の終わりにお父さんの仕事の都合で転校して行ったけれど、そのお父さんが仕事の独立を機に故郷であるこの街に戻ってきたと言った。
加奈ちゃんとの別れは、距離を置いて暫く経ってからの頃だった。
わたしの目に映る加奈ちゃんはあまり変わっていないように感じた。変わらない限り、少なくとも今はまだ加奈ちゃんを近しい友達として受け入れる準備の仕方がわからない。
距離を置きはじめて、わたしが離れても、加奈ちゃんはわたしを大好きな友達、親友と思ってくれていたことをわたしは知っていた。
加奈ちゃんがわたしへ向けるその好意にひどい嫌悪を持てないわたしの気持ちは宙に浮くばかり。その時のわたしは見えない振りをした。
加奈ちゃんには少し悪い癖があったけれど、わたしがつっかえることに関して、加奈ちゃんだけが悪いわけではなかった。それでも、わだかまるには充分な理由がある。少なくともわたしには。
あの子とわたしの関係がどんどん遠くへ行ってしまったことは、加奈ちゃんが大きく関わっていた。その時のわたしはあの子のそばに居る為の方法がわからなくて、加奈ちゃんともあの子とも離れてしまった。
それからの中学時代、わたしは無理に笑って過ごし、いつか歌いたいのに歌うことが苦しくなった。
ある日屋上で歌っていたらみっちゃんに言われた。そんな悲しそうな歌声は天音らしくないと。自分でもわかっていたから誰にも歌声を聴かせなくなった。精を出していた合唱部の練習に行かなくなった。気が付いたら幽霊部員、とにかく人前で歌うことを避けた。
わたしとあの子と加奈ちゃんに関わった全員と中学を卒業してから距離を置いた。加奈ちゃんが居なくなった中学三年生、一年間もあったのに、どうしても無理にしか笑えないまま卒業を迎えた。
かんなちゃんが居て、甲斐先輩や新君が居て、あっという間に賑やかになった高校生活の中で、わたしは無理せず笑えるようになった。悩むということがあまりないはずの、わたしの当たり前のような生活が戻ったようで日々が楽しい。もやもやして止まないあの子のこと以外は。
かんなちゃんの紹介で甲斐先輩と新君に出会って音楽部に入った。歌うのが苦しい自分は不自然にぎくしゃくしていたから、音楽部に入ったことは正解だった。
大好きな歌を好きなだけ伸び伸びと歌う日々が愛おしい。いつも楽しい大好きなみんなと居ると、緩やかに素敵なものが胸の内に溢れて微笑みを浮かべ続けられる。まるで無理が要らなかった。
わたしたちのバンドはオリジナルの曲しか演奏しない。わたしは作詞を、新君は作曲、甲斐先輩は器用に作曲も作詞も熟す。最初から譜面に起こしてそこに歌詞を乗せることもあれば、一から即興で形造っていくこともある。それが今のわたしの至福の時間。
音楽は哲学と似ていると思う。哲学は辿っても辿っても底がない、答えのないはずの答えを追いかける。形を持たない心の行くへを追いかける。それらを言葉に置き換えることは自分を見つめる作業に等しいけれど、全てが形となれない。だからわたしは言葉に託す。
大切な人へ、形のない大切なものへ、内包する見えない気持ちを伝えるために書き、そして歌う。
かんなちゃんのとなりに立った加奈ちゃんが嬉しそうに目を輝かせている。そうして昔の友達の近況ばかりをしきりに聞いてきた。聞かれたところでよくわからないのに、加奈ちゃんはなかなか食い下がることをやめない。
これが加奈ちゃんの悪い癖。
きっと本人は気付いていないのだろう。悪い癖ほど自分では気付きづらいと思う。
制服は新品なのに、加奈ちゃんはまるであの頃と変わっていないように映った。
「あんまり会ったりしてないの?」
余計なお世話だよと口から飛び出しかけた自分に嫌悪を抱いた。
「そんな時間あんまりないよ。みんな色々だもの」
距離を置いたこととは関係なく、部活に趣味やバイト、勉学に勤しむ者、どんどんみんな自分の道を見つけはじめる。道が別れれば、その交友関係だって変わってくる。
わたしの中学時代から抱えだした小さなわだかまりは、未だにつっかえて消えてくれない。でもそれは加奈ちゃんだけには絶対に言わない。加奈ちゃんのせいであったとしても言わない。結局は自分の問題なのだから。
好きじゃないけれど嫌いじゃない。そう思いたいから言いたくない。
素敵なところはたくさんたくさんあって、その時たまたま加奈ちゃんの悪い癖が前面に顔を出してしまっただけだ。それでも起こったことと困惑を思い出すと、心を寄り添えるほどの好きは持ち合わせていない。
「ねぇ、円佳君も同じ学校?」
加奈ちゃんがそう言った瞬間、かんなちゃんが苦虫を潰した。かんなちゃんは円佳君に会ったことはないけれど、わたしの話で彼や加奈ちゃんのことを少しだけ知っている。
かんなちゃんは加奈ちゃんの質問攻めを、腕を組みなが無表情にじいっと聴いていた。これは考えている時のかんなちゃんの癖。加奈ちゃんの人柄を探っているようだった。
円佳君というのが、朝みっちゃんの向こうに見えない振りをしたあの子。会いたくなくて、でも会いたいあの子。
「ちがうよ。みっちゃんとおんなじ学校」
「みっちゃんって?」
「小林光也君。覚えてる?」
「フルネーム言われればなんとなくわかる。あまねちゃん、そんなに仲良かったっけ?」
加奈ちゃんが眉を顰めた。その表情には少しだけ悔しさが滲んでいるように見えてしまった。
「三年の時、同じ組だったの」
加奈ちゃんは「そう」と短い相槌を打っただけだった。
みっちゃんとわたしは幼なじみ。みっちゃんと円佳君は親友。それなのに加奈ちゃんが覚えていないのはきっと興味がなかったからだ。当時から興味があれば言わずともきっと知っていたと思う。加奈ちゃんにはそんな性質がある。
加奈ちゃんと笑顔で話しながら、かんなちゃんの顔をちらりと確認した。加奈ちゃんの言動が気に入らないとはっきりと見て取れた。
普段のかんなちゃんは冷静さを欠かさず、表情をあまり変えない。けれどもこういう時、かんなちゃんはきっぱりと顔に出す。押し付けがましくみんなの近況を聞いてくるそれは、わたしだって気持ちの良いものではない。
クラス委員長であるかんなちゃんは転校生の面倒を率先して看なければならない。けれども、あんまり関わりたくなさそうだ。そうして関わるべきではないと思う。わたしの知る加奈ちゃんはたぶん、かんなちゃんと相性が悪い。嫌な予感しか抱けなかった。
加奈ちゃんはかんなちゃんに、わたしととても仲が良かったのだと言った。けれどもわたしの近況を聞かなければ「元気だった?」とも聞いてくれなかった。
わたし自身には興味無いように思えてしまう。加奈ちゃんの興味あるものはわたしではなくてわたしの周りのものと感じてしまう。
いつも加奈ちゃんはわたしの周りのものへやたらと興味を持つ。
それがわたしの思い込みであったとしても、そう思えてしまうようなことが今までたくさんあった。
お揃いのものがどんどん増えていった結果、いつしかわたしは距離を置いた。
一度置いてしまった距離を元に戻そうと思えないうちに、中学二年生の終わりに加奈ちゃんはいなくなった。
高校に入って出会ったかんなちゃんはわたしの性質をよくわかっていてくれていると思う。抱え続けている悩み事が片付かなくても、わたしはのんびりと平穏に笑って過ごしていたい。かんなちゃんはいつも「天はそれでいい」と静かに言う。だから穏やかに笑っていられる。
押し付けない友情で接してくれるかんなちゃんが大事だから、嫌な思いはしてほしくない。けれども、これからどうなっていくのかをわたしたちはまだ知らない。
授業の合間に新君が辞書を借りに来た。昼休みに会うから返しやすいと、新君は幼馴染みのかんなちゃんではなくてわたしに声をかけた。
ついつい加奈ちゃんの席の方を伺ってしまった。なんだか目を輝かせている姿が見える。ため息を吐いたら新君が不思議そうな顔と目でわたしを見たから適当に誤魔化した。
やっぱり加奈ちゃんの興味あるものはわたしだけではない。わたしよりも、わたしの周りのものと感じてしまう。悲しい。
机に戻りながらもう一度加奈ちゃんの方を見つめると、加奈ちゃんはかんなちゃんと話をしていた。互いに刺々しさを伴っているようだった。話の内容までわからなくても、かんなちゃんが怒っているのは明白だった。眉を顰めてそういう時の顔をしている。激情していないのがせめてもの救い。かんなちゃんはある類に関して沸点がひどく低い。
嫌だな、と思った。
わたしと加奈ちゃんの問題なのに誰かが巻き込まれてしまうことが怖い。いつだってそれはわたし自身のことなのにどうしてか蚊帳の外に置かれてしまい、わたし自身では解決出来ないことばかりだった。わたしは後で謝ることしか出来ない。仲裁が出来ないような場所に置かれてどうにも出来ずにいた。
机に着くとうっかり視線を落としてしまい、慌てて顔を上げた。クラスメイトの誰かに「どうしたの?」と聞かれる前に。
授業中、かんなちゃんへ手紙を回した。
『嫌な思いさせちゃうかもしれない。ごめんなさい』
返って来た手紙の文字は書きなぐられていた。やはり怒っている。
『既に敵認定済み』
その後に書かれていた一言に、わたしは頭を抱えたくなった。
『あの子、新っちにえらい反応してたけど』
あっという間に始まってしまった。加奈ちゃんのわたしが嫌いな悪い癖。そうして加奈ちゃんは自分の興味を只管追いかける。
加奈ちゃんの興味にいつもわたしは何かしらの形で巻き込まれる。
巻き込まれるという言い方はおかしい。
わたしと加奈ちゃんの関係に周りが巻き込まれる、それが正しい。
少なからず、また大切な友達に迷惑を掛けてしまうかもしれない。そう思うと、罪悪感が襲ってきた。
周りには沢山の人が居るのに、どうしてこんなに加奈ちゃんはわたしにばかり構うのか。
前から疑問だった。
どうしてわたしなのだろう。
その疑問は一向に解けないままだ。
もう少し加奈ちゃんをよく見つめていれば解けそうだと思わなくもない。しかしそのもう少しはだいぶん労力が必要になるし、落ち着いた時間が必要。良い所もいっぱい知っているからこそ、これ以上藪から棒には突き放したくはない。嫌いじゃないから。
自分から離れたくせに、そんなことを思うわたしはきっとわがままだ。
どんなに押しつけがましくても、加奈ちゃんがわたしを友達と思ってくれている限り、わたしは加奈ちゃんの友達としての顔を崩したくないのだ。これもきっとわたしのわがまま。
けれども、また無闇に周囲を掻き回されたら、悲しい。わたしはそれが悲しい。笑えなくなってしまうかもしれない。無理の仕方まで忘れてしまうかもしれない。今の生活が大切だから、いつだってみんなの周りで微笑んでいたい。
授業がまるで頭に入ってこない。黒板に書かれたものを条件反射のようにノートへ書き写し続けたわたしの心はどこか遠くに行きそうだった。