第一話
ヘッドフォンから大音量の音楽を耳に流し込みながら信号待ちをしていた。
空がもう随分と遠いところまで行ってしまった。
季節の変わり往く瞬間はあっという間で、気を付けないと取り残されてしまいそうになる。
乾いた空、少しの冷たさが気持ち良い朝の空気、衣替えも済んだ、そろそろわたしが一番好きな季節がやって来る。
朝の登校時、通学路を歩いていても中学の同級生とあまり出会さない。そして挨拶をするほど仲の良かった友達が殆どいない。わたしと逆方向の学校へ通っている友達が殆どだ。
中学は高校と逆方向だった。徒歩で四十分、歩くのが好きなわたしは自転車を使っていなかった。今通っている高校は近場。家から十五分という距離も適度で悪くない。
家を出て十分程度歩いた頃に、大きな交差点がある。わたしが歩いてきた道と交差する大通りは欅並木。
もう少し経てば立ち並ぶ欅は紅葉を覚える。
信号を渡って真っ直ぐわたしは進むから並木道を歩くことはないけれど、赤と黄色が混ざった綺麗な季節を味わえる。
どんな季節も様々な姿を見せてくれるこの並木道が好きだ。天気の加減で一瞬のうちに姿を変える。同じ景色は二度と映らない。
信号はなかなか変わらない。この信号を待つ度に感じる時間、一瞬だけ時の流れが止まったような感覚が好き。
流している音楽を途中で撒き戻す。この作業も好きだ。繰り返される時間も存在するのかもしれない。そんな淡い期待をしてしまいたくなる不思議な感覚を覚える。
何度も何度も同じ箇所を繰り返しているうちに、ぽんと肩を叩かれた。
横を向くと、それは幼馴染の光也君だった。わたしは昔からみっちゃんと呼んでいる。母同士が親友で、だからわたしたちは物心ついた頃から一緒に遊んでいた。同じ方向の学校に通っているのに会うのは随分久しぶりのこと。
ヘッドフォンを外して「おはよう」と挨拶すると、みっちゃんしか見ていないわたしにみっちゃんは困った目で苦笑いを浮かべた。
「こんな時間に珍しいね」
わたしはみっちゃんの向こうに居るもう一人のあの子に気付かない振りをした。何も言わないあの子もきっと気付かない振りをしている。
わたしたちの目が合わなくなって随分と経つ。
「今日から朝練なんだよね」
「気合入ってんね」
わたしは音楽部に在籍している。近頃は文化祭の練習で余念がない。
くじ運の悪い先輩によって、今日から朝の音楽室を占領出来ることになった。清々しい朝、一日の始まりに音楽を奏でるのは心地好いから楽しみだ。
わたしは昔から歌うことが好きだった。歌っていると言葉にしづらい色々な気持ちが形あるものに形ないまま乗り合って、果てが見えない深い空間に溶け合っていく。
頭の先からすうっと抜けていく、手の先からさらさらと放たれていく、つま先から確かな地へ根付いていく。込み上がる何ものかもわからない眠っている想いが自分の場所を求めて解き放たれていく。
それは全て、わたしにとっての大切な感覚。
大切な人へ、大切なものへの気持ちは言葉だけでは足りないから、恵愛に混ざり合った多情多感な何もかも、形にすることが叶わない溢れうる限りを、わたしは歌声に乗せたい。
信号が青になると、自転車のふたりは先に走りだした。わたしはヘッドフォンを耳に戻して歩き出す。
秋は物悲しい季節だとよく言うけれど、それは気温や日照時間の変化のせいにあるらしい。そこから生まれた感覚が身体を伝って心にまで働きかけてしまうそうだ。
秋は寒くて温かい冬の始まる予感。
心悲しいような秋の感覚自体はまるで形を持たない。形を持たないから、冬の予感に不安を覚えているのか期待を抱いているのかもわからない。
遠くの方で小さくなった自転車と後ろ姿を、わたしは曖昧な感触を抱えて見送った。
これから暫くの間、毎日一緒になるのかもしれない。
ふっと息を吐いた。息を吐いたあと、吸い込むことが出来なかった。吸い込むべきことが何か、見つからなかった。
わたしたちのこの形にならない関係に悩んでいるのは、もしかしたらわたしだけかもしれない。
あの子からわたしはもう離れていて、あの子は見えない振りをしているのではなくて、もう見えていないのかもしれない。
わたしは見えない振りをしている。
会いたいけれど会いたくない。
会いたくないけれど会いたい。
どっち付かずなその理由はぼんやりとしていて、今はくっきり形が見えなくて、だから悩む。
形はきっとあるはずなのだ。
どこかにあるのに掴めないのか、ちゃんと手の内にあるそれをわたしが気付けないでいるだけなのか。
わたしたちの形がはっきりとすれば、少なくともわたしは次の何かへ進めるはず。
進みたいのか立ち止まっていたいのか、わたしはどうしたいのだろう。それすらもよくわからない。
今のあの子はまだわたしの声を覚えているだろうか。
考えても仕方のないことだと思ったら何も考えたくなくなった。考えるのを放棄して、ぼうと歩き慣れた道を歩む。
耳に流れ込む曲の歌詞が切なく胸に響いた。
巻き戻すことをすっかり忘れていた。
やはり時間が繰り返されることはない。手動で巻き戻した音楽のように時を正確に巻き戻すことは不可能だ。
ぼんやりしたまま学校の正門を潜って、気が付けばしっかり自分の下駄箱で上靴に履き替えている。
反射的に廊下を曲がって音楽室へ続く階段を見上げながら自分に驚いて呆れた。慣れとは素晴らしい。そんなことを思いながらなんとなく立ち止まっていた。
突然、耳から音が消える。背後からヘッドフォンを奪われた。
奪った相手は小柄なわたしよりだいぶん背が高く、声は上から降ってきた。
「なんだか浮かない感じだねえ」
陽気な声の調子に相手が誰だかわかったわたしは、ぐっと背を逸らせて見上げた。すると相手は上から覗き込むように見下ろしている。「おはよう」と言うと、悪戯な目でにこりと笑った。
「変な顔」
そう言うと、うっかり見上げたままだったわたしのおでこを指でつんと突いた。
バランスを崩して後ろへ倒れたら、きちんとすっぽり抱きとめてくれる。
「もう! 朝から意地悪しないでよ」
わたしのそんな苦情を余所に、彼はご機嫌である。いつもご機嫌。
彼は音楽部で一緒にバンドを組んでいる二年生の先輩、新君という。
新君は、悩むことがあってもいつも元気で明るい。
活発な新くんはスポーツマンのような爽やかさを持つ風態だけれど、ピアノ弾きである。新君の奏でる音色は、本人の溌剌さとは他所に、どんな時も緩やかな心地を湛えながら弾んでいる。穏やかな春の木漏れ日のような音色。
「悩みがあるんだ」と言う時の新君は、その元気な笑顔に目を輝かせる。聞いてほしいと話しだすと、沢山の希望に満ちた言葉の数々が並べられて、新君の持つ可能性に心が躍りそうになる。
翳った言葉は一切なく、悩ましい選択肢の幾つから一つを選択することへ楽しみを見出しているように見える。その楽しみを教えたいかのように、嬉しそうに新君は話す。
悩んでいるのはこちらじゃないのに、背中を押してもらっている気分になる。
悩みを抱えた時、その悩みを形に変えて考えて、それをどのように整理するかは人それぞれ違うだろう。
形に変えることが難しい時、みんなはどんな風に形にしようともがくのだろうか。
新君はもしかしたら、形にならないものに揺らぐ時の自分を上手に昇華する方法を持っているのかもしれない。
溌剌さを前面に暗い顔を他人に見せることを嫌う新君は、独りで抱え込むというよりも、独りで解き放つことをしているだろうか。
わたしは悩む時、答えが見つからなくて考えるのを一旦諦めて、また不安になって思考を巡らせては息を吐く。見つからないまま過ごす。少なくとも今のわたしがそうだ。今の悩める自分を昇華する方法も、悩みを消化する方法もまだわからない。
考えるのを一旦止めたとして、結局その物事は脳裏に居続けてしまう。離れてくれないということは、きっと考えて何かしら形にしないといけないものなのだと思う。
全ての悩みがこうあるわけではないから、解決しないもやもやは形に当て嵌めてあげないとすっきりしない。
のんびり屋のわたしは深く悩むことがあまりない。代わりに、一つ何かを見つけてしまうと、形にならないもどかしさに深く心を落とし込んでしまう。そんな時のわたしは見ていてとてもわかりやすいらしい。
「元気でたでしょ? 感謝してよ」
今度はとなりで普通に見上げたわたしに新君の優しげな眼差しが注ぐ。
「新君は朝から元気だねえ」
悪戯は新君なりの気遣いだから、素直に元気のないことを認めてみる。こういう時は上手く笑えなくてもいいとわたしは知っている。
元気な新君はお調子者な振りをして、いつも気遣いをしてくれる。
「来る途中に何かあった?」
「なんで来る途中ってわかるの?」
「なんとなく。恋煩いって顔してるから」
「恋煩い?」
わたしは首元のヘッドフォンを撫でた。
あの子に対するこの感覚は恋煩いとは別物だと思う。そもそもあの子と一緒に過ごした時間を恋なんて形に当てはめたことがなかった。何かに当て嵌めようと思ったことが、あの子と一緒にいた頃のわたしは考えたことがなかった。
ただあの子が恋しい。いつだって恋しい。
あの子のとなりが恋しい。いつだって自然に肩を並べて、ふたりでゆったりと言葉を交わし合うひと時の心地、それを忘れるなんて出来ない。
あの子に対する恋しいと好きを、今のわたしはどんな形に当て嵌めたいのだろう。あの子に対する感情と感覚はどんどん形にしづらいものへと変わっていく。薄れていくというのとは違った。
「はずれ?」
「よくわからない」
「会いたいのに会いたくない人に会っちゃったとかー」
図星を突いてきた新君はわたしのあの子への曖昧な想いを少しだけ知っている。
「朝練て、大抵どこも似たような時間に始まるのね」
新君が茶化すように言うから、当たり前のいつもの自分の口調でのんびりと言葉を返せた。
「んじゃこれから毎朝だな。そりゃよかったよかった」
新君らしい見方だと思う。よかった、とても前向きな言葉だ。
でもいいがわけない。会いたいけれど、会いたくないのだ。
例えば世界が終わるその日、最後にあの子と一緒に居られるなら最高だ。
でも今はとなりに居られない。
変わってしまった関係性の正体を見るのは怖い。交わす会話の形に幻滅もしたくない。
「取り敢えず、気晴らしに練習、練習ー」
階段を最上階まで昇り終え、廊下を曲がればその先に音楽室が二つ並んでいる。わたしたちの目的地は手前にある小さい方の音楽室。
手の中で音楽室の鍵を転がしながら、陽気な調子で新君は話を切り上げた。
音楽室に入ると荷物を適当な机に置く。新君はピアノの準備へ、わたしは運動部が精を出す校庭を一望しながら窓を端から開けていった。
最後の窓を開け終えると、身を乗り出して深く深呼吸をする。体中にまだ清清しい朝の空気が染み入る。
学校へ向かって歩きながら吸う空気とここで吸い込む空気、体へ沁み渡る感覚がまるで違う。
この小さな音楽室はわたしたちの大切な場所。
「準備は?」
「オッケー」
「遅刻が来る前に発声しとくか」
そうしてわたしはピアノと新君の前に立った。