"万能"包丁の怪
グロテスクな描写があります。苦手な方はご注意ください。
仕事が終わりフラフラと歩いていると一軒の喫茶店が目についた。こんなところに喫茶店なんてあっただろうか?
少し年季の入った純喫茶だ。
店名は『ぬらりひょん』
喫茶店らしくない店名だなと思いながら少し重たい扉を開くとカランコロンと内側に付けられた小さな鐘が鳴る。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。」
20代半ばといった頃合だろうか、マスターにしては若い男性が静かな声出で迎えてくれた。
出入口の正面には会計機があり、その横にはいくつかケーキの置かれた小さなショーケースがある。シフォンケーキ、タルト、マフィンが少しずつ並んでいた。
右手側にカウンター席が幾つかと4人掛けのテーブル席が3つ。
左手側に扉があるが閉じているので中の様子は分からない。
私の他にお客さんはいなかった。
それもそうだ。今の時間帯は喫茶店よりも定食屋や居酒屋の方が賑わう。静かな店内で一人、カウンター席に腰掛けた。
お水とメニュー、おしぼりが前に置かれた。
戻りかけた女性の店員さんにホットコーヒーを頼む。
メニューは後で確認しよう。ショーケースに並ぶケーキはどれも美味しそうだった。軽食ならあるだろうし、夕飯をここで済ませてしまうのもいいかもしれない。
そんなことを考えているとホットコーヒーが運ばれてきた。
「ミルクと砂糖はご入用ですか?」
「ミルクだけで大丈夫です。」
「ではこちらに置いておきます。…差し支えなければで構いませんので、お話ししませんか?」
不自然な間を置いて発された言葉に驚いて店員さんをまじまじと見つめてしまった。
よく見ると店員さんはとても若い。高校生くらいに見える。そんな年頃の子と一体何を話せばいいのか…。
私が返事をしなかったので不審に思われていると勘違いしたのだろう。店員さんが慌てて弁解し始めた。
「あ、いえ、他意はないのです。あまり顔色が良くないように見受けられたので何か悩みがあるのかと…。」
しょんもりと俯く様子に少し心が痛み、思わず隣の席を勧めてしまった。今どきの高校生にそぐわない言葉遣いが気になるところである。
隣に腰かけさせたのだから話さない訳にはいかないだろう。彼女の言う通り私には悩みがある。そのせいで近頃寝不足だし、仕事でもいつもしないようなミスをしたりして心労が絶えない。
だがそれを話をしようと誘ってくれた高校生相手にしてもいいものだろうか、いやよくない。
「あの…最近眠れていますか?」
「…あまり眠れていなくて。近頃、とても嫌な夢を見続けているんです。それで仕事中も集中できなくてミスを幾つもしたりして…」
私の心情はいざ知らず、彼女は核心を突いてきた。
聞かれたからと正直に答える私も私だが。
「嫌な夢を見続けるんですか。それは辛いですね。どんな夢なんですか?」
そうして私は夢の内容を話し出した。
気がつけば私は学校の家庭科室のような場所にいる。見覚えがあるようなないような、その薄暗い家庭科室に仕事着…オフィスカジュアルを着て1人で立っている。
目の前に調理台があってまな板と包丁が置かれていた。
誰もおらずとても静かで、他の調理台にある蛇口から水がゆっくりボタッボタッと落ちる音がやけに響いてより静かさが強調されている。
顔を上げたら窓が目に入った。外は真っ暗で、窓に自分が写ってるのが見える程だった。自分の後ろに何かが見えるのではとビクビクしてしまうくらい、ハッキリと室内が写っている。
窓の外はあまりに暗く、木の影や空など外にありそうなものが何一つ見えない。この場所がどこに、何階にあるのかさえ予想がつけられなかった。
窓の反射は自分の後ろ側が暗いということも教えてくれている。自分はハッキリと見えるのに後ろ側にある調理台は影に沈むようだった。
背後が真っ暗なのが窺える中、勇気を振り絞って振りえってみたが目に映るのはやはり闇。真後ろに、目の前にあるのと同じような調理台があるのがかろうじて分かる程度だ。
明かりが付いている側を見回すと足元にダンボールが置かれていることに気がついた。
中には野菜がいくつか入っているようだ。
怖さを紛らわせるために、そこにある野菜で料理を作ることにした。
手に取ったのは大根だった。とても立派な大根が二本あるのでふろふき大根でも作ろうとまな板に乗せる。
端を切り落とし葉の部分を切り落として流しに置いて、2cmほどの輪切りにしていく。輪切りにしたものは端から順に皮を剥いていく。
一本を切り終えるとそれをまな板の上の方に寄せて、もう一本をまな板に乗せて同じように切る。
切り終えたら二本が綺麗に並んでいる状態にした。
そこでお鍋を用意していなかったこと思い出した。包丁を大根の脇に置いて、要領が悪いことを反省しながら調理台の下の収納スペースをのぞき込む。ちょうど二本分の大根を煮込めそうな大きめの鍋があったので取り出した。
そのまま調味料も探す。だが調理台には調味料は置かれていなかった。顔を上げてキョロキョロと調味料がありそうな場所を探す。怖いので後ろは振り返らなかった。
窓沿いに置かれている棚の中にありそうだと当たりをつけ、恐怖心と戦いながら中を覗く。
持ったままだった鍋に必要な調味料をいくつか容器のまま入れていく。これで全部揃ったかと満足して棚を一瞥した時、目に飛び込んできたのは瓶詰めされた目玉だった。
「…っ!」
声にならぬ声を上げて後ずさる。目を離したくても離せない。それなのに目玉の瓶詰めはふっと消えてしまった。
たった今、目にしたものを理解出来ぬまましばらく呆然と立ち尽くす。瞬きすらしてなかったはずなのに忽然と消えた目玉の瓶詰め。そもそもあれは本当に存在していたものだろうか?
恐怖のあまりいらぬ幻覚を見てしまったのかもしれない。
気を取り直してふろふき大根を作ろうと鍋を抱きしめて元いた調理台へと戻る。
調味料たちを取り出して鍋を軽く洗い、コンロに置いた。
切った大根を入れようとまな板に手を伸ばすと、プニッともグニッともつかない感触があった。
鍋に視線をやっていて手元をちゃんと見てなかったことを反省しつつ何を触ったかと不思議に思って視線を移すと、まな板に並んでいたのは大根ではなく人間の足だった。
心臓がどくん、と嫌な音を立てる。
輪切りにされた人間の足。
膝から下、足首までが輪切りになっている。
切り口から血が出て、溢れて、まな板には収まりきらなくて、零れて床を汚している。
ポタポタと血の雫が落ち続けて足元に赤い水溜まりを作る。自身のつま先が、少し赤く染まっていた。
葉だと思って切り落としたのは足首から下だったらしく、踵から指まで綺麗に残っているそれが流しに置かれている。
何が起きたか分からない。
思わず直前まで大根だったのに…と呟きを零すがそれに答えるものはなかった。呆然と目の前の光景を見ていると足の指がピクッと動いた。
生きている…!
そう思ったら急に怖くなって、叫び声を上げて包丁を取り落とした。大根の脇に置いていたはずの包丁がいつの間にか手にあった。
その包丁が落ちた先は自身の足。右足の甲に刺さって突き立った。
痛みは直ぐにはやってこず、足に立つ包丁を見つめること数秒。状況を理解したら熱を持ったようになる。それから痛みに襲われた。
目の前の輪切りの足、大根だったはずなのに足で、大根を切ったのは自分で、様々な想いが一気に駆け巡る。痛みと混乱で再び絶叫した。
自分の叫び声で目が覚めた。
目覚めたときは何が起きたか分からなかった。家庭科室にいたはずなのになぜベッドで寝ているのか。
悪夢を見たのだと気づいてからは、飛び起きて右足の甲を確認した。痛みがあったけれど傷はなかったので確かに夢でのできごとなのだろう。
夢でのできごとなのに夢の中でも今も痛いのは何故だろう。
夢と思えないくらい生々しい。
野菜を切る感触も、切られた体の感触も、血が滴る音、温度、匂い、全てが。
ここまで話して、恐怖心が蘇ってきた。
寒気がして思わず腕を擦りコーヒーに口をつける。
コーヒーはすっかり冷めてしまっていたが、その香りにほっと一息つく。
「その日から毎日見るんです。切った野菜が誰かの体の一部に変わってしまう夢。
切っている間は野菜であることを全く疑っていません。いつも切り終わってから気づくんです。
人参が誰かの腕。白菜が誰かのお腹。大きな茄子が誰かの太もも。
次はきっと頭です。まだ切ってないのは首から上くらいなんです。どうしたら良いでしょう。私は何を…誰を切っているのでしょうか…?」
話しながら泣いてしまっていた。
「それは随分と夢見が悪いですね。」
「しかもその夢を見始めた頃から職場の同僚で調子が良くなさそうな人がいて…もしかして私が切ってるのはその同僚なんじゃないかって…」
いつの間にかマスターと思われる男性も話を聞いていたらしい。
「華さん、悪いけどケーキ持ってきてあげて。僕もコーヒー入れるから。お客さん、僕の奢りです。少しでも気が紛れるといいんだけど…。」
一度席を離れて戻ってきた店員さん、もとい華さんはケーキを置くと、泣きじゃくる私の背中を撫でてくれた。
出されたコーヒーの温かさも相まって少し落ち着きを取り戻す。
「それにしても…周囲をとてもよく観察しているんですね。」
「そんなつもりはないんですけど…本当にちゃんと自分で見たことなのでしょうか。映像が勝手に頭の中に差し込まれたみたいに感じることもあります…。」
「それは怖いですね。その部屋や外で人影を見た事はないんですか?」
「ありません。誰もいないと思います。」
「そうですか。その部屋から出たことは?」
ふるふると首を横に振る。
「怖いから外に出ようと思わなくて…というよりは、料理をしなきゃ、何か作らなきゃって思うんです。」
項垂れている私を元気づけるように、華さんは胸の前で両拳を握りしめて笑顔でこう言い放った。
「次にその夢を見たときは野菜を切る前に包丁を私にください。そうすれば同僚の方を切ったと思わずに済みます。」
顔を上げて思わずポカンと口を開いてしまう。マスターも苦笑いといった表情を浮かべている。
「…え? そんなこと出来ますか? どうやって店員さんに渡せばいいのか…。出ようと思ったこともないから扉の外がどうなってるか分からないし…。」
「夢だと思ったら私を思い浮かべてください。絶対に私に会うんだ、包丁を渡すんだって強い気持ちで念じてください。必ず受け取りに行きますから!」
突飛なことを言われたのに何故だかすんなり受け入れることができた。私の話をたかが夢だろうと聞き流さずに真剣に聞いてくれただけでなく、対応まで考えてくれただからだろうか。
たとえ上手くてなかったとしても、夢の中でのことなのだから仕方があるまいと割り切れる。たとえ寝起きの気分が最悪でも。そう思えるほどに気分は落ち着いてきた。
話をきいてもらい励まされたことで涙が止まった私は、奢ってもらったケーキと、それだけでは申し訳なくて注文したナポリタンを食べて家路についた。
帰りはなんだか心も体も軽いような気がした。
まな板の上にはすでに大きな蕪が乗せられていた。包丁も隣に置いてある。
いつもは自分でダンボールから取り出していたのに今日は何故もうまな板の上に置かれているだろう。
まるで催促されているようで気味が悪い。
足元にあるダンボールは空になっているようだった。
包丁をそっと握り、蕪を切ろうと左手を添える。
そこで大根を切った時のことが鮮明に蘇った。
ハッとして蕪を見下ろす。改めて見たそれはまるで人の頭と同じような大きさだった。
自分の考えが恐ろしくなって手が震える。冷や汗が吹き出してきた。汗で背中に服が張り付いて気持ち悪い。
切るまいと、蕪から手を離せたことで安堵してホッと息をついた。
それがいけなかったのだろうか。
力を抜いた体は勝手に、蕪を切ろうと再び手を添えた。
「嫌だ、やめて! 切りたくない!」
このままでは本当に切ってしまう…!
包丁を入れようとする手に力いっぱい抵抗する。
何とか動きを遅くすることは出来たが、何故だか動きは止められない。
包丁を手放すこともできなかった。
柄に指がくっついてしまったのかのようにびくともしない。何としてでも手を離そうと力を込めていたら体が熱くなる。今度は冷や汗ではない汗が顔を伝っていた。
「誰か…助けて…」
己の腕に精一杯抵抗し、泣きながら助けを懇願する。
涙か汗か分からない水滴がポタポタと落ちる。
誰かが助けに来てくれるとも思えなかったが願わずにいられない。
「誰か…誰か…」
ふと思い出した。そういえば喫茶店で言われたではないか。「包丁を私にください」と。
目をきつく閉じて会ったばかりの、華さんと呼ばれていた店員さんを思い浮かべる。
お願い、助けて、包丁を受け取ってと何度も念じながら。
「お約束通り包丁を受け取りに参りました。もう大丈夫ですよ。」
ふわっとコーヒーの香りと共に現れた彼女はそう言うとにこりと微笑み、ゆっくりと歩み寄ってきた。
包丁を持つ手が優しく包み込まれて力が抜ける。
カランと乾いた音を立てて包丁が落ちた。
唐突に蕪がゴロンと転がる。
そこには人の顔が、私の同僚の顔があった。
「っあ…えっ?」
驚きと恐怖で言葉にならず腰を抜かした。床に座り込み呼吸も上手くできない。はっ、はっと浅く耳障りな呼吸音が耳に入る。それが自分のものだと気づくまでに時間がかかった。
立つことすらできずにいる私に目もくれず華さんは包丁を拾い上げると、ガンッと同僚の顔に突き立てた。
「これは蕪です。人の顔ではない。ただの野菜です。」
包丁を突き立てた姿勢のまま私に言い聞かせるように大丈夫、大丈夫と呟く。
そして包丁を蕪から抜くと丁寧に洗い始めた。
「刃こぼれしていますね。研いで綺麗にします。私とともにいらっしゃいな。存分に力を発揮できますよ。きっとやりがいがあります。」
まるで包丁に語りかけるようだった。
華さんは私の手を包んでくれたのと同じ優しさで包丁を洗い、話しかけている。
ざぶざぶという水の音が止まったと思ったら包丁をどこからか取り出したハンカチで包む。
満面の笑みを浮かべた華さんが包丁を持つのと反対の手を私に差し伸べる。
「話はつきました。もう大丈夫ですよ。行きましょう。」
呆けていたので何が大丈夫なのか、どこへ行くのか確認することもないまま華さんの手をとっていた。
気がついたときには『ぬらりひょん』だった。
眩しさに目が慣れず、何度も瞬きをする。華さんはするりと手を放し両手で包丁を捧げるように持ち替える。
「マスター、見てください。昨日のお客さんから無事包丁を受け取りました。」
華さんがマスターに報告している。
やっぱりあの若い男性がマスターだったのか。
華さんの両手には、馴染みのある包丁よりもふた周りほど大きい包丁が寝かされていた。
「これは人喰いの山姥が使っていたもののようです。人間を切る快感が忘れられずに切り続けたい気持ちが強かったみたいで…他の包丁が切らないであろう人間を切ったことを誇りに思っているとか。」
「え、山姥って実在するんですか!? というか、なんでそんな事分かるんですか…?」
「本人…本刃?から聞いたんです! 山姥は実在しているといか…していた、ですかね?」
眩しいほどの笑顔を前に、釈然としないものを抱えて押し黙る。
「この包丁、見た限りではお客さんに執着していることはなさそうだね。お客さん災難でしたね。これは通り魔みたいなものですよ。今コーヒー入れるから適当に座って待っていてくださいね。」
コーヒーは有難くいただくことにし、4人がけのテーブル席に座らせてもらう。出されたコーヒーは初めて来たときとは違う焼き物のカップだった。焼き物のカップでコーヒーとは珍しいと思いつつ口をつける。
「ところで包丁に意思があるんですか?」
「山姥から独立して包丁としての怪異に成っているんだと思います。ですから『人間を切りたい』という意思があって、あなたの夢に出て来ていたのだと思います。まだ力が弱くて実際に人を切ることはできなかったみたいですが、時間が経って力をつければ夢の中ではなく現実で人を切るようになっていたかもしれませんね。」
「こわ…」
華さんは「どうやら切る方が切られる方か、人の生気を吸っていたようですし」と付け加える。人の生気を吸うことで力をつけていくんだそうだ。
つまりそれは夢を見ていた私か、切られていたと同僚かの寿命が少し縮んでいるということらしい。
現実で切られてしまえばそれまでなので、それに比べたら少しの寿命で済んだのはだいぶ幸運だったと言えるが。
「そういえば足に包丁が刺さって目覚めたことがあるって言っていましたね。あなたも寿命がちょっと削られているかもしれません。最悪の場合は両方が対象で、他の人が吸われるよりもちょっと多く。」
「ひぇ…」
「なるほどねぇ…現時点では夢の中で切る切られるという行為を通して生気を吸い取る怪異なんだね…まぁそこまで力のある怪異でもないし、今すぐに影響を及ぼすという訳でもないから大丈夫ですよ。
ところで華さん、その包丁はどうするの? 供養してもらう?」
「いいえ、この喫茶店での戦力になってもらおうと思います。」
「えっ!? その包丁うちで使うの?」
華さんの言葉に驚いたのは私だけではなかった。
マスターの質問に事も無げに答える華さんはどこから嬉しそうだ。
「大丈夫ですよ! もう人間を切らないように私が調教します。バリバリ働いてもらいますよ〜。『ぬらりひょん』に包丁は食べないように伝えないとですね!」
にっこり笑顔はなんとも可愛らしい…いや、包丁を手にしているので怖い。
しかもこの喫茶店がまるで生き物のような言い方をしていたような…。
「まぁ瘴気も薄いし問題ないか。これまでどこでどう過ごしていたのか気になるなぁ。人は殺してないのかな。山姥は人を殺してから調理していたとか? あぁ、食材だから絞めたという認識なのかな?
刃物は魔除けにもなるって言うし…こちらに従ってくれるならいい仕事仲間になれるかもしれないな、うん。
ちゃんと仕事してくれて人を切る心配がないのならうちにいてもいいよ。悪さしたら滅っだからね。」
「ありがとうございます! 実はもうこの包丁とは話をつけてあるんです。家庭科室?ではなかなかに酷い瘴気を放っていましたけど、今それ全部お客さんが背負ってますね…。」
マスターがぶつぶつ呟きながらも華さんの提案を了承する。私には何が何だかよく分からないけど包丁がこの店で働くというのはイマイチ理解できないし、私が何かを背負ってるという言葉にぎょっとする。
「でもここに来たからにはもう大丈夫ですよ! 無事で本当によかったです。」
そう言い残すと、「それではこれからよろしくお願いしますね」と包丁に告げながら厨房へ姿を消した。
話をつけたって…蕪に包丁を突き立てたときに何か言っていたあれのこと…? あれを包丁が受け入れたの…?
聞きたいことが次々と出てくるがまずは自身の身の安全を確保せねばなるまいとマスターに尋ねる。
「あ、あの、しょうき?って何ですか?」
「あぁ、瘴気っていうのは悪い気のことですよ。僕はいわゆる霊感があるんですけどね、黒い霧みたいに見えます。それに侵食されると体調が悪くなったり人が変わったように乱暴な性格になったり…いろいろ影響があります。お客さんに纏わりついているものは、この店でコーヒーを飲めば消えるので心配いりませんよ。」
分かったような分からないような…?
コーヒーを飲めば消えるとはこれ如何に。
解消されない疑問と怒涛の展開に私はとても疲れてしまったのか眠気に襲われた。
包丁の件が片付いて気が抜けたのもあるだろう。何とかコーヒーを飲み終えたものの、眠気が限界を迎えてとうとうテーブルに突っ伏してしまった。起きなきゃと思ったがどうにも体が動かない。
完全に眠りに落ちる直前にマスターが「お疲れ様」と言ってくれた気がした。
目を覚ますと見慣れた天井。
時計を見ればいつも起きる時間より少しだけ早かった。
ノロノロと起き上がり周りを見回す。ちゃんと自分の部屋だった。仕事着ではなくパジャマを着ている。
どこまでが夢だったのだろう。
『ぬらりひょん』にいた時は仕事着だったから華さんやマスターと会ったのも夢だったのだろうか。
あの時の話は理解できないことも多かった。それが夢の中、自分の想像力の為せる技とは思えない。
本当にもうあの夢は見ないで済むのだろうか。
それに件の夢を見なくなったとしても、『ぬらりひょん』にあるかもしれないと思うと寒気がする。
もちろん、あの包丁が成長してしまうのも怖いが…。
包丁の行方については詮索しないことにして、これからあの喫茶店の常連になろうと小さく決意する。
「あれ? なんで?」
その日の帰り道。
朝の決意が虚しく打ち砕かれようとしていた。
夢の中で私が体を切っていた同僚の顔をまっすぐ見ることができないのに、やけに2人で打ち合わせしないと進められない仕事が多くてげんなりとした。
それでも軽く雑談をしたところ、同僚はこのところ調子が良くなかったけど今日は久しぶりに元気だと笑顔で話してくれた。
調子が良くなかったのはやはり件の夢、というよりはあの包丁の影響なのだろうか。
助けてもらったお礼と同僚の様子を華さんとマスターに伝えようと『ぬらりひょん』へ足を向けていた…はずなのだが。
昨日ふらりと入った喫茶店はそこにはなく、代わりに古びたスナックがテナント募集の看板をかけていた。
窓から覗き見る店内も異なっている。
「確かにここだったはずなんだけどなぁ…」
目の前にあるものが信じられなくて、その場で端末を取り出し検索をかけた。
「えっ!? ここから500km?」
検索結果はなんと現在地から500km離れた場所に例の喫茶店が存在するという事実だった。
「えぇ…? でも実在しないよりはずっといい…のか?」
なんとも不思議なこともあったものだ。昨夜の喫茶店での出来事もきっと夢じゃないんだろうな、なんて独りごちて踵を返す。
何はともあれ次の休日の予定は決まりだ。
久しぶりに晴れやかな気分だ。今夜はぐっすり眠れる予感がした。