手にした幸せのカタチ
傷心とはまた違う。悔恨という念も果たして相応しいか分からない。
ただ一つ言えるのは、やっと解放された。それだけだった。
「やぁ、いらっしゃい。待っていたよ、僕の小間使い」
開口一番のセリフがあまりにもで固まったのは言うまでもない。兄の兄弟子は大変変わった人だった。隣国にほとんど強制的に行かされた留学はこの兄弟子・・・先生が身元引受人だった。
留学とは言うが実質先生の助手としてあちこち連れ回される事が決定事項となっていた。なので授業に出るのはほとんどなく、助手業務があるのでそれを代替えの単位取得とし、独学でテストだけはなんとかしろと先生から言われた。
めちゃくちゃだ。そんなもんどうにか出来るのは天才肌の兄や元婚約者くらいなものだ。それなりに教養はつけさせられたが、いつも及第点ギリギリ。求められているレベルが高過ぎるので一般的な貴族子息と考えれば悪くはないはずだが、飛び抜けていい方では無い。
選択を間違ったかと思ってももう来てしまった以上全てが遅かった。
先生との顔合わせでは遠路はるばるなどの定型句はなく、二言目には目の前に積み上げられた本に目を通して覚える事だった。だが、その大部分には見覚えがあった。
実を言えば兄が携わった研究に関してはだいたい目を通すようにはしていた。専門的過ぎて理解は難しいのだが、自分になくて兄にある物を見付けたかった。だからそれらを知る事に苦はなかったのだ。
随分と劣等コンプレックスを拗らせた物だと言いたい物だが、暗いトンネルを歩いていた状態の自分にはそれが必要だった。糧になったかと言えば微妙な所だが、知識としては大事な物だ。備えておくには無駄ではなかった。
それをこちらに来る前に兄に伝えれば、とても驚いていてなんとも難しい顔をしていた。気恥ずかしさを隠すような、気まずさを誤魔化すような、そんな感じだ。
そういえば時々諌められる事はあれど、あの日まで殴り合いまでの喧嘩はした事がなかった。とはいっても一方的に殴られただけだったが。その数日後だったのでどこか気まずかったのかもしれない。
歳も離れていたし、出来る兄と自分には距離があった。自分とは違う世界を歩む人間なのだと。けれど、あの一件で兄も同じ人間なのだと思った。
この人は自分の婚約者であった彼女を心から愛していたのだ。決して口にはしなかったが、だから怒ったのだとわかってしまった。ホッとした。どこまでいっても姉と弟のような関係でしかなかった婚約者。婚約者は兄と同じような種類の人間だと初めて会った時に感じた。幼少期に覚えてしまった劣等感を払拭するのは難しい。だからこそ自分を見ているわけではないのに手放しで喜んでくれる存在を選んでしまったのかもしれない。
兄があの素晴らしい婚約者を何に憚られることもなく愛してくれる。これほど最高なことはないのだ。心からの祝福を。それを口に出して言う事は今の所はないけれど、偽りは何一つとしてない。
兄が関わった研究論文や書籍の内容について質問されるままに答えていくと兄は少しばかり思案して数冊本を渡してきた。兄弟子とは少し分野が違うから良ければと言われるがままに素直に目を通した。
先生にその旨を伝えればそれじゃあと別に本を渡された。それらは兄や先生とは畑違いの植物に関する書籍だった。森や山などに行く事が多いので食べられる物、食べられない物、触っていい物、触ってはいけない物など理解しておくように、と。郷に入っては郷に従え。反抗する気もないのでそれに目を通す。
ここに来るまでの一ヶ月程度で人生の中で考えられないほど本を読んでいた。字の羅列に目を通す事をずっと嫌厭していたのだが、悪くない時間だった。
そんな中で目に止まった毒草が人生を変えた。
それは無知な自分ですら知っている毒草だった。その植物は全体に毒を含む。特に根に強い毒性を持ち、よく似た食用の果物がある為に誤食しないよう子どもは小さな頃から言い聞かせられる。
何故目が止まったか分からない。運命だったとしか言いようがない。それから先生の手伝いをしながら大学校に付属する図書館に通い詰め、先生の名前を使っては有名な研究者の論文にも目を通した。
調べれば調べるほど興味が湧いた。何かをして面白いという感情を覚えたのはよくよく考えれば初めてかもしれない。
今までの人生は義務だった。けれど、今はそんな物関係ない。自分で選ぶ事が出来るのだ。
先生はそんな様子の自分に一つ課題を出した。好きな事をしたいならさっさと試験を受けて学生を終えなさい、と。いつの間にか先生は自分を連れて歩かなくなった。その代わりスキップ用の過去の試験問題をどこからか入手してきた。それを先生の手を借りながら膨大な量の知識をただ詰め込んだ。隠しようもない完全に詰め込みだったといっていい。寝る間も惜しんだその時間は何も苦にならなかった。
隣国への留学は予定していた一年を迎える事なく半年で終える事になった。一応実家にお伺いを立てる必要があったが、その辺も先生がやってくれた。だが、実家へは帰る事なく、先生の推薦状を持って自国の薬草学の権威の元へ弟子入りした。
師はとてもいい人で、押しかけ同然で行った自分を快く受け入れてくれた。その上、自分で独自に調べ、考え書き留めて持ち込んだ冊子を隅々まで見ると途中で放棄してしまった内容だと過去の研究結果をそのまま渡してくれたのだ。
師の基礎研究を元に自分の理論の立証をし、さまざまな試験を経て、臨床試験にまでこぎつけた。出来たのは心臓の治療薬。研究を始めてから国から認可を受けるまで十年の歳月が掛かった。
その間に副産物としてあれこれ発見したり、派生して別の薬品を作ったりもしたが、順次に臨床試験を通り薬品化した。それらは師や他の弟子達が途中から請け負ってくれたのでほとんど丸投げだった。けれど、気がつけば自分が筆頭研究者として名前が載った論文がいくつも出来上がっていた。
心臓の治療薬に関して師や兄弟弟子達は国史に残る世紀の発明だと手放しで褒めてくれた。
だが、それもこれも師や兄弟弟子、そして実家の協力があってこそだった。
基礎研究から非臨床研究に移行する頃、先生がこちらの国内開発で有識者として王都へ呼ばれ、その通り道だと嘯いて若干遠回りしてまで自分の所へやってきた。
今後はもっと金が掛かる。支援者が必要だと王都の実家まで強制的に連れていかれた。国内にいれど顔を出してない息子である。父と母はやっと帰ってきたと安堵しており、何処となく申し訳なさに苛まれた。そして執務を押し付けられている兄とも対面した。
「ねぇ、お金出してやってよ」
顔を合わせた第一声だった。少なくとも説明を何一つとしてなくする発言ではない。兄は先生に相変わらず常識がないと説教を始めた。兄と自分ほどの年齢差があるはずだが、歳上であり奔放な先生が大人しく説教されているのが意外だった。先生に常識が欠如している事を兄も知っていたのか。知っていた上で自分をこの人に預けたのかと恨めしく思うも、この人に預けられたからこそ今の自分があるので感謝もしていた。
粗方説教を終えると、ふと存在を思い出したように自分の話を聞いてくれた。多分、本当に自分の事を忘れていたんだと思う。
薬の開発は少なくても十年近い歳月が掛かる。また今はよくとも開発を途中で断念する可能性も大いにあった。けれど兄はその辺りの話を聞いた上ですぐに支援の手続きをとってくれた。しかも他に支援者として兄の妻の生家を始めとして数家募ってくれた。
話が円滑に進んだのは師が子爵家で同派閥というのもあっただろう。師が持つ研究所に支援する者、所属する研究員それぞれに支援する者。お陰で今まで資金難で滞っていた研究も一気に進んだ。
そんな事情もあって結果が出た時はとても安堵した。薬品の特許権利は二十年。その間、支援者には利益の一部が還元される。支援した額を考えれば微々たる物だが、支援者達は支援金で先見者としての名誉を買うような物なのだ。だからこそ、実績を出せた事は大きかった。
背負っていた何かをまた一つ降ろせた気がした。
一つの大きな成果が出たのを機に支援者へのお礼参りをしたいという師とともに各地に周り、最後に王都の方の実家を訪れた。
師は父と兄と面会すると折角だからゆっくりしておいでと先に帰ってしまった。自分がここにいることは果たしていいことなのか。けれど、もやもやした気持ちもすぐに払拭された。
家族が一堂に揃った場。それはもう屋敷の使用人を含め、盛大にお祝いをされた。
今までほとんど顔を合わせた事が無かった年の離れた弟とその一つ下の甥っ子。甥っ子の計算が合わなくないか?と思えば彼女はあの騒動後間も無くスキップで卒業をすると婚約最短の三ヶ月で結婚したらしい。そういえばそんな手紙がきていた気がするし、結婚式を欠席する旨の手紙も送った気がする。その頃の自分は忙し過ぎてやや記憶が曖昧だ。だが、それでも計算が合わない気がするのは兄も父の子だったということか。完璧人間に人間味を見出した瞬間だった。
そしてそこには勿論シャロンの姿があった。
「おめでとうございます。是非、研究についてのお話しお聞かせ下さいませんか?」
彼女の表情は何一つ翳りのない笑顔だった。ずっと言われたかった。彼女に認められたかった。彼女に話を請われる兄が羨ましかった。きっと自分は誰よりも彼女に喜んで欲しかったのだろう。
これは恋ではない。彼女への恋情は今までもこれからもない。
自分はきっと彼女への感情に何かしらの名前をつけたくはないのだ。それでも彼女が自分の人生の中で特別な存在であるのは今までもこれからも何も変わらない。
「義姉上、聞いてくれるかい?」
「家ではシャロンでいいわ。家族でしょう?幼馴染の貴方に義姉上なんて言われるのはむず痒いわ」
そう思うでしょ?と同意を求められた兄が難しい顔をしているのに声を上げて笑った。どうやら兄は嫉妬深いらしい。
過去に何も無かったかのように笑いかけてくれるシャロン。改めて謝るなんてことはしない。きっと過去を掘り返す事を彼女は望んでいないだろう。
今伝えるべきは謝罪ではない。
「ありがとう、シャロン」
こんな風に微笑む彼女の美しい笑顔を昔翳らせたのは自分だ。これからはこの笑顔を守っていきたい。
騎士を目指していた頃、本当に守るべき物がわからなかった。漠然と考えていたのは国であり、家族であり、当時の想い人だった。
けれど、騎士を目指す事をやめた今だからこそ守るものがわかる。それは笑顔だ。自分の親しい者の笑顔を守れば自ずとその輪が広がる。そんな当たり前の事をいい歳になるまでわからなかったのだから自分はどこまでいってもくだらない人間なのだろう。
そうであっても、くだらない自分が誰かを笑顔にできるなら、多少の価値はあるのかもしれない。
あの頃、想い続けた彼女に未練は何もない。あの日、あの時、兄の言葉で自分の彼女への想いもあっさりと消え失せた。そこまでの存在だったのか、それとも自分にとって彼女はどこか重荷だったのか未だに答えは出ていない。きっと答えが出る事ももう無いのだろう。
別れを切り出したあの時泣き崩れた彼女は自分が留学から戻る頃には異国に嫁いで行った。たかだが半年。変わり身の早さに流石に笑ってしまったのをよく覚えている。伝え聞いた話だと第五だか第六夫人だか知らないが砂漠の国のハーレムの一員らしい。身体が弱かったはずの彼女だが、きっと逞しく暮らしているのだろう。そんな気がする。
「昔、君らの父であり兄であるこの兄上にボコボコに殴られたことがあるんだ。まぁ、私が悪かったんだが。怒らすものじゃないよ、兄上を」
「・・・風評被害だよ、ローガン」
いくつも重ねた話の中でそんな思い出を一つ口にする。恐れる事なく目をキラキラさせる甥と引いている弟。これまた対照的で面白い。
歳が近いのもあっていい友人であり、兄弟のように育つ事だろう。
願わくば、自分のように歪むことなく真っ直ぐ育ってほしい。
若者の輝かしい未来に幸あれ。
手にした幸せのカタチ…fin.
以下劣等コンプレックスという表記に関して。
こちらの誤字訂正が多いので修正するか悩んだんですが、こちらに記載することにしました。
まず、作者は学生時代に心理学聞き齧ってます。あくまでもその程度なので解釈が違うぞ!って場合ごめんなさい。先謝っときます。
劣等感は自分と他人を比べて劣っていると感じる事。
コンプレックスはさまざまな感情の複合体。
なので劣等感≠コンプレックスとなります。
そして劣等コンプレックスは劣等感を感じた状態で自分のやるべきことから逃げて言い訳をしたり、責任を第三者に転嫁したりするような状態を指します。
なので、あそこの表記で劣等コンプレックスの辺りを言い換えるなら、劣等感を感じているから言い訳探しをしてた、みたいな感じでしょうか。
劣等感=(劣等)コンプレックスというのもちょっと違うんですが、私もこの形で過去にも何度も書いてますし、よく耳にする意味合いはこちらですね。今回は強調の意味も込めてわざとこちらで記載しました。
ですが、分かりにくかったようで今後気をつけます。