5.
「たわいもない」
目の前には肩で息をするローガンが四つん這いで地面をただ見つめていた。
イーサンは劇場からまっすぐ王都別邸にシャロンと義母を送り届けた。王都別邸は主にイーサンが王都にいる際に仕事に使っている邸宅である。それ以外にも父が商談に使ったり、友人と盤上遊戯などに夜通し勤しむ際使用しているので本邸からさほど離れておらず、立地もいい。
あの状態のシャロンをそのまま伯爵邸に返すのは憚られ、行き先を王都別邸へと伝えたイーサンに義母も反対はしなかった。そのまま義母も残り、まだ落ち着かないシャロンを着替えに向かわせると、折角だからとシャロンが好きな物だらけの夕食と明日の着せ替えパーティーなる物の指示が出ていた。それは気落ちして婚約者の座から降りたいとまでいっている女性に適切な対応なのだろうか、と疑問に思うも女性のことは女性に任せるのが一番だ。何より反対できる人間など1人もいないのでそのままイーサンは義母にいくつかの確認と無理をしないよう重々言い聞かせてから別邸を離れた。
そして本邸に帰り、父と話し合いをしていた所にやっとローガンが帰ってきた。観劇などとうに終わった時刻だ。どこで何をしていたのかその頬はとても緩んでいた。
そんな浮き足だっているところ、ローガンは無理矢理着替えさせられ、模擬剣を持たされて本邸の裏庭に連れられてきた。そこにはローガンを待ち構え、椅子に腰掛けるイーサンがいた。そのイーサンの手にも模擬剣が握られている。この場所は剣の訓練場だ。こんな物があるのはさすが騎士の家系と言えるだろう。
「兄上?これはどういうことでしょう?」
「・・・その前に確認すべき事は思い当たらないのかい?」
怪訝な顔をする弟の姿に思わずイーサンは目を眇めた。"シャロンの具合が悪くなり、先に帰宅する。心配しなくてもいい"。そんな事付けを伝えて貰ったのは確かだ。だが、心配しなくていいと言われても婚約者が体調を崩したと聞いたら気になるものではないか?
いつまで経っても何も返してこないその様子にあからさまに溜息をつく。
「・・・もういい。稽古をつけてやるから好きにこい」
立ち上がり、剣を軽く構える。そんなイーサンの様子を訝しげにローガンは見ていた。
「兄上が、ですか?」
どこか小馬鹿にした様子を隠しもしない。わからなくはない。イーサンがこの家で剣を握っていたのは弟がまだ幼い頃だ。身体を動かすより机に向かう方が得意で、今もそれは変わらない。
それにしてもこんなに弟は顔に出る奴だっただろうか。貴族社会は化かしあいだ。この様子じゃあいい獲物でしかないことだろう。
「本気でこいよ、死にたくないなら」
イーサンの善意の言葉は鼻で笑われた。模擬剣だって人は殺せる。どんな相手でも武器を持っているならば油断をしてはならない。そんな基本的な事を弟は忘れてしまったようだった。
ローガンは幼い頃から剣の才能はあった。長く続く騎士の家系だ。天性の物もあるのだろう。剣の使い方が上手かった。だが、難を挙げるとしたら教科書通りの型に嵌った戦い方をする。幼い頃からそうで、成長して学園に入ってからもそれは変わらなかったようだ。
読めてしまう剣の動きに合わせてそれを避け、合間合間で剣を打ち込む。的確に急所に向かって放たれるそれをローガンは必死に防いでいた。舐めて掛かった相手に最初から一太刀も入れられずにただ嬲られ、削られていく状況に焦り出したのがよくわかる。
頃合いだと剣ではなく、蹴りを腹に叩き込んだ。ゴホゴホと咳き込み崩れ落ちる。肩で息をするローガンは立ち上がれもせずただ四つん這いになり、地面を見つめていた。
「・・・たわいもないなんて言われたくない!蹴りなんて騎士道に反すること、」
「僕は騎士ではない」
肩を蹴飛ばせば簡単に転がった。そこに馬乗りになり、顔の横に剣を突き立てる。真っ青になったローガンが驚愕のままにイーサンを見上げていた。
「それに騎士とは剣しか使ってはいけない物なのかい?そう思っているなら今すぐ騎士を目指すのをやめた方がいい。遅かれ早かれ惨めたらしく死ぬ事になるだろうね」
腹が立ったのだろう。瞬時に浮かんだ相手の熱を掻き消すよう胸倉を掴み上げ、そのまま横に放り投げた。
「剣の使い方に意見があるなら最初から殴り合いの方が良かったか。剣より肉弾戦の方が自信があるんだ。かかってくるといい」
相手の自信がない剣で負けたのだと言外に言われ逆上したのか。それともこれが弟の程度でしかないのか。振りかぶるように拳を向けてくる相手に逆に拳を叩き込んだ。
「向かってこれる間は相手をしてやる」
睨め付ける元気はまだあるようだ。だが、どれも冷静さに欠ける動きはイーサンにとって取るに足らない物でしかない。
そこからはそれほど長い時間ではなかった。殴ってきたところを躱すかいなして、返り討ちにする。そんな殴り合いとも言えないやり取りを数度交わした後、ローガンは立ち上がれず座り込んでしまった。
「学生相手にはある程度やれるんだろう。けれど、その認識のまま騎士になればすぐ死ぬ。今のお前はその程度だよ。まだ卒業まで1年以上ある今わかって良かったんじゃないかい」
荒い息遣いが聞こえる。息一つ乱れていないイーサンとの差をまざまざと感じたのだろう。何かに耐えるように爪で地を削り、絞り出された声は酷く掠れていた。
「・・・貴方に何がわかる。優秀だと褒め囃される兄上はきっと苦もなくなんでもやれるのでしょう!ならば何故俺の領分まで侵すのですか!?」
「苦もなく、ね。知ってるかい?僕の研究は川を上るんだ」
「はっ?」
「川の下流から上流まで遡り、川の流れ、地形、地盤・・・それだけに限らずもっと色んな項目をかなり詳細に調べる。今は人を使う事も多いけど僕が関わる案件に関しては最低限一度は川にそって遡上はするよ。自分の目で確かめないと何も分からないからね」
何の話が始まったんだとでも言うように怪訝な顔をしているが、何も言ってこないのでイーサンはそのまま続ける。
「川沿いの道が整備されていると思う?川の始まりはほとんどが山の中だ。そこを何日も彷徨ったり、遭難しかけたことは一度や二度じゃない。食糧を現地調達することは決して珍しくないし、山の中を根城にしてる賊の類も過去に何度も遭遇した。命を守る術に汚いも何もないんだ」
グローブを外し、近くにきた従者に渡した。相手は完全に戦意喪失している。これで終いだ。
稽古とも言えない。ただ嬲って終わっただけの時間。ズタボロのプライドにもっと傷をつける役割が自分にはある。