3.
馬車の中はなんとも言えない空間だった。侯爵家の馬車は広い。今日のレイラのエスコート役は侯爵ではなくイーサンで、その隣にはどこか不機嫌なローガンが座っていた。
イーサンが仕事の話を面白おかしく話してくれる中、終始ローガンは黙っていた。ローガンはイーサンに少しばかりコンプレックスを抱いているのは知っている。
イーサンが体制化し、侯爵家の収入源の一つとして確立した治水事業。それは広がっていき、基本は治水事業だが、今や道路整備なども含めてかなり技術力が高い大規模な技術集団を抱えていた。その多くが元失業者や孤児でそういう受け皿を作ることにもイーサンは成功しており、侯爵だけでなく、国からも評価が高い。それを確立したのが学園に入る前だったというのだからイーサンは天才といっていいのだろう。
騎士の家系としては異質な彼とは違い、ローガンは剣一辺倒だった。領地経営を見据えてかなり厳しい教育を受けたが、いつも及第点ギリギリ。一般の貴族としては充分だろうが、筆頭侯爵家としてはやや心許ない結果だった。だが、剣は同年代の中でも技術力が高いらしい。らしいというのもローガンはシャロンが大会などを観に行くのを嫌がった。シェリルはどうやら観に行っているらしく、薄情な婚約者だとシャロンが陰口を叩かれているのも知っている。ただそれと同じくして、彼が優勝したとも聞かないので上には上がいるのだろう。そんなこんなでシャロンは彼がどれほどの実力を持っているのか知るよしもなかった。
劇場についてもエスコートこそしてくれるが最低限の会話のみ。侯爵家はボックス席で観るので、レイラとイーサンがいてくれて本当に良かったと思う。これでローガンと2人であったら殺伐とした雰囲気の中で観劇をするハメになった事だろう。
それに劇場についてからというもの、ローガンは何処となく心ここに在らずという様子でどこかそわそわしていた。
前ならいつも以上に酷い扱いに心を多少は痛めたかもしれないが、何一つ揺れることがない。前ならもう少し歩み寄る努力もしたかもしれないが、今はしようとも思わない。そんな風に思うシャロンも大概なのでローガンをいないものと決め込むことした。
観劇の休憩時間になると早々にローガンは出て行った。化粧直しを申し出てシャロンもボックス席を一度離れた。
化粧室での用事を済ませ戻ろうとしていると、よく知る人物を見た気がした。行かなければいいのに、シャロンは何故かこの時足を向けてしまった。
奥まった柱の影。そこでは鴇色のドレスに緑色の宝石が輝く宝飾品を纏った女性と逢瀬を喜ぶ男性の姿があった。
レイラよりも少し明るい翠の瞳によく似た石が付くイヤリングを揺らすその人物をシャロンはよく知っている。そして、それに相対するのは石とよく似た瞳を持つ人物であり、その人も嫌でもよく知っていた。
何故、どうして。そんな問いも無駄だと知っている。
ローガンが何故機嫌が悪かったのかも合点がいった。今日使っているボックス席はシーズンで侯爵家が抑えているものだ。今日は授業の終わりが早かったし、人気の演目に一緒に行こうと約束をしていたのだろう。それをレイラが知ってか知らずかシャロンを伴って使用することで使えなくなり、その上エスコート役として留め置かれた。全てのアテが外れて不貞腐れていたのだろう。
それでもどこからかチケットを手に入れたのか、はたまた何かしらの予備を持っていたのか、シェリルは劇場にいた。1人で観ていたのだろうか。いや、きっと2人だけでくるのはさすがに体裁が悪いと両親もついてきているのだろう。
長女の婚約者が次女と観劇デートをする。それを容認する両親。
シャロンは自分の価値観が揺らいでいた。自分がおかしいのだろうか。ボタンがかけ間違えられたような逢瀬を誰も正さない。
どうしてなのだろう。そんな疑問をもう誰に言っていいかもわからなくなっていた。
「あっ、いたね。おいで。迷ったかい?」
今更ショックなんて受けないと思っていたのに。シャロンはまた傷付いていた。動けずにただそこに立ち尽くしていた時、そっと話しかけてきたのはイーサンだった。
きっと気が付いていただろう。けれど何も言わずにそこから彼は連れ出してくれた。そして彼のエスコートでボックス席に戻るとレイラが酷く驚いていた。
「・・・今日はお暇しましょうか」
「どうされました?どこか体調がお悪い、」
「いえ、私は大丈夫。貴女よ、シャロン。泣いているわ」
言われて初めて気がついた。ポロポロととめどなく流れる涙は頬を伝い、折角のドレスを濡らしていた。
それからシャロンは人目につかないように誘導され、馬車に乗せられた。レイラもイーサンもシャロンと一緒に馬車に乗ってしまい、申し訳なさで尚の事涙を流すも2人とも気にしないようにシャロンに言い続けた。
「・・・私では、ローガン様のお眼鏡に適いません。私の教育に係ったお金や次に掛かる金銭に関しては私の少しばかりもっている資産、それで足りなければ兄になんとか用立てて貰えるようお願いしてみます。慰謝料というには額が足りないかもしれないですが、最低限は用意できます。ですから婚約者の座を辞退させて頂きたいのです」
資産の適切な運用方法は侯爵が以前教えてくれた。小遣いもあまり貰えていないのを知っていたのだろう。授業の為の必要経費だと頭金となる資金を準備してくれ、小さな額から一緒に動かしてくれた。今では中々の額になっている。もうシャロンの物だから好きに使っていいと言われ、寄付などで定期的に使ってはいるが、それ以外はほとんど手をつけていない。元を正せば侯爵家のお金である。多少の後ろめたさはあるが、増やして返すのだ。問題はないだろう。
そして兄は今もいつも手紙で気にかけてくれる。一時期は親を恐れて距離を置いていたが、今は忙しく物理的にも顔を合わすことが無くなってしまった。王城で文官を務める彼は能力が高く王太子の補佐官の1人にまでのし上がった。未来の側近候補だという。親に見向きもされないシャロンが今まで頑張ってこれたのはこの兄のお陰も大きい。だからきっと兄は助けてくれるだろう。
「何を言い出すの、シャロン」
「貴族令嬢として愛されない政略結婚は理解しておりました。けれど、どんなに努力しても顧みられない、邪魔者扱いされ、知らない人間にまで陰口を叩かれ続け、そうでなければいない者として扱われる・・・少しでも見てもらおうと歩み寄る努力をした時期もあった気がします。けれどそれも無駄でした。ただただ惨めな毎日を送るのはもう疲れました。こんな我儘を口にする私は侯爵夫人に相応しくありません。修道院に身を寄せます。全面的に私の瑕疵です。どうかミルバーナ伯爵家を咎めないで下さい。私が全て悪いのです」
もう疲れた。今まで彼等を見ても何も思わなかった。けれど、今回なんとも無いはずの光景で今まで張り詰めていた何かが切れてしまった。もう沢山だ。
親も婚約者もいつもすれ違い、同じ道を歩く事はない。だから、その瞳がシャロンを捉える事は決してないのだ。
ただ自分が悪いと繰り返すシャロンをレイラがずっと抱きしめてくれた。レイラは最後まで何も言わなかった。きっとこんなに取り乱せば不適格となされるだろう。いらないと言わないのはきっと慈悲でしかない。だけれど、お前なんていらないと口にされないことがシャロンには嬉しかった。
だからそのまま身を預け、甘えるようにシャロンは泣き続けた。