(6)平民聖女とご令嬢
軍曹殿をひるませた使者さんのもとに、ふわふわと文字が飛んできました。
やはりこうやって見ると、群れで移動する蝶のようですね。文字は使者さんの元まで辿り着くと、文章になるように整列していきます。何か重要な用事だったのでしょうか、少しだけ難しい顔をして使者さんがこちらを向きました。
「申し訳ありません。殿下から呼び出しが入りました」
「どうぞお気になさらず。私はしばらく、この辺りを掃除しておりますので」
「用事が終わったら、お部屋にお茶を届けに参ります」
「今日は王太子さまとのお茶会はありませんよね?」
「そうですが、僕があなたと一緒にお茶を飲みたいのです」
「お仕事をサボっても良いのですか?」
「少しくらいなら平気ですから。その後、帳尻を合わせます」
「……わかりました。お待ちしておりますね」
先ほど仕事への向き合いかたを偉そうに語ってしまった手前、サボるなとは言いにくいですね。王太子さま抜きのお茶会であれば、緊張することなく美味しいものが食べられますし。提案を受け入れると、使者さんは急ぎ足で遠ざかっていきました。
***
ごしごしと窓を磨きます。最近は下ばかり向いていたので、今日は上を向いてみることにしたのです。
この時期は壁などにハチが巣を作ってしまうので気をつけなければなりません。小さいうちであれば簡単に処理ができますが、時間が経つごとに駆除が大変になっていきますので、早期発見が大切なのです。
「ふふふ、私の目は誤魔化せません! 見つけましたよ!」
怪しげなものは容赦なくガリガリとこそぎ落としていきます。頑張って作ったものを壊すのは胸が痛みますが、刺されると危ないだけではなくて、建物自体を脆くすることもありますので仕方がない作業なのです。
ハチさんごめんなさい。どうか次はもっとひとが来ない、静かな場所で巣作りをしてくださいね。心の中で謝りながら作業を続けていると、外から甲高い悲鳴が聞こえてきました。
覗き込んでみれば、可愛らしいお嬢さんが逃げ惑っているのが見えます。もしかしたら甘い香水の匂いに誘われて、ハチに追いかけられているのかもしれません。
慌てて中庭へ飛び出しました。ご令嬢を追いかけているのは毒を持つ危険なタイプではなく、もこもことしたぬいぐるみのようなハチです。相手を刺激しなければ、刺されることもないでしょう。
「落ち着いてください」
「た、助けて」
「そのハチは刺しません。いったんしゃがんで、それからゆっくりとこちらに来てください」
導かれるように私のところへ逃げてきたお嬢さんは、涙目でお礼を言いながらぽつりと呟きました。
「ありがとう、助かったわ。……ひとりだけ幸せになろうとしたから、罰が当たったのかもしれないわね」
罰……ハチだけにってことですか。え、これ、突っ込まないといけない流れだったりします?
***
唐突ななりゆきで、ご令嬢の愚痴を聞く羽目になりました。辞退しようとしたのですが、彼女のお付きの皆さんに四阿へ連行されてしまったのです。ここはハチより怖い虫が出ますけれどいいのでしょうか?
「それで、わたくしは婚約者がある身でありながら、真実の愛に目覚めてしまったのです! 嘘をつけないと涙をこぼしたわたくしを哀れに思し召した王太子さまたちは……って、あなた、本当に聞いていらっしゃいますの?」
「聞いてます、聞いてます」
「繰り返すところが怪しいですわ!」
貴族のお嬢さまも普通の女の子と同じで、恋バナを始めると長いのですね。
「でもまあ、好きなひとと結婚できることになってよかったですね」
「あなた、ちっとも驚きませんのね。これはこの国にとってとても重要な出来事ですのよ」
「私は貴族ではありませんので。ところでそんなに大事なことなら、そもそも私に話してはいけないのでは?」
「だって誰かに話したかったんですもの。こんなこと、あなたくらいにしか話せませんわ」
それは通りすがりのモブならOKということですか!
「それで今日は隣国へ出発前に、王太子さまに最後の挨拶に来られたのですか?」
「ええ、でも殿下はいらっしゃらなくて」
それはおかしな話ですね。今日のお茶会がなくなった理由は、王太子さまが元婚約者さまにお会いになるからだったはずなのですが。
「大聖女さまにはお会いできたのだけれど……」
大聖女さま! ここで、まさかの情報が出てきました。結局私が一度もお会いできていない大聖女さまは、どのようなおかたなのでしょう。教会に戻れば情報収集も可能なところがもどかしいですね。
「あの、大聖女さまにはどうすればお会いできるのですか?」
「今回は婚約を解消するにあたって、大聖女さまが手を貸してくださったのですんなりとお会いできただけ。普段ならどこにいるかを把握することも難しいのではないかしら?」
ご令嬢の答えに、頭が痛くなってきます。
呪われた王太子さま、王太子さまに呪いをかけた元大聖女の魔女さま。王太子さまと結婚したくなかった元婚約者のご令嬢に、理想と現実の間で闇落ち一歩手前な状況にあったらしい使者さん。私は何か大きなことを見落としているのではないでしょうか。
「ちなみに婚約を解消された王太子さまは、どなたと婚約なさるのでしょうね。この時期からお相手を探すのは大変そうですが」
「あなたったら、何を寝ぼけたことを言ってますの。それはもちろん」
「あ、蝶が……」
先ほど使者さんをどこかに連れて行った、蝶のような文字の群れがひらひらと庭園に戻ってくるのが見えます。その後ろには珍しく慌てたような顔をする使者さんの姿がありました。
***
「あ、使者さん!」
「意外な組み合わせですね。おふたりは一体いつお知り合いになられたのですか?」
「先ほど偶然、ご縁がありまして。そうですよね?」
同意を求めて隣を見れば、ご令嬢がしっかりとカーテシーをして頭を下げていらっしゃいます。え、なんですか、あの低姿勢。あの格好でじっとできるなんて、やはりこのかたは生まれながらのお嬢さまなのですね。
「公式な場ではないから、どうか楽にして」
使者さんが声をかけると、彼女はおずおずと姿勢を戻しました。なんだか少し緊張しているようにも見えます。
「使者さんたちこそお知り合いだったのですね」
「あなた! このかたは!」
「いいんですよ。どうぞお気遣いなく」
私の知らない使者さんとご令嬢の間柄に、なんだかもやもやした気持ちがわき上がりました。なんなんでしょう、この感覚。使者さんに私以外の仲のよい友人がいてもおかしくはないというのに。
というか、私と使者さんはただの仕事仲間であって友人ですらないのでは……? 思ったよりもショックを受けている自分自身に驚きながら声をかけました。
「使者さん、お話することがあるなら席を外しましょうか。お茶はまた別の機会に」
私の台詞に、ご令嬢が慌ててかぶりをふりました。使者さんは何かぶつぶつ呟いているようです。
「い、いいえ、お気遣いは無用ですわ! おふたりの邪魔をするなんて、命知……お邪魔な真似はいたしません! 用事は済みましたので、ここで失礼させていただきます」
「そうですか? それではどうぞお気をつけて」
一体どうしたのでしょう。若干顔をひきつらせて、ご令嬢が立ち去ってしまいました。もしかして、使者さんが小声でムカムカさん騒動の件をお教えしたのでしょうか。確かに想像したら四阿にはいたくありませんよね。
自室に戻ってからのふたりだけのお茶会。もやもやの正体がわからないせいか、ちっとも心がときめきめせん。
「……先ほどのご令嬢、綺麗なかたでしたね」
「マルティナさま、何かおっしゃいましたか」
「……いいえ」
「こちらは、隣国からやってきたショコラティエが作った新作ショコラですよ」
じわりと生まれたもやもやとほんのりとした苦味は、最近評判だというショコラティエの甘いショコラを食べても、消えることはありませんでした。