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「いや、別に決まってないけどな?」
背筋が寒くなるような冷ややかさに、つい相手の無実の可能性を口にする。
「まあ、そうですけど……」
リーゼはエルデュミオにも物言いたげな目線を送ってきたが、口にはしなかった。
「とにかく、話は分かったから、今日の所はお引取りを。後日また、相応しい場所で話し合いましょう」
「長くは待てませんわ。貴方様と違って今のわたくしたちにはもう守るべきものがないことを、お忘れなきよう」
(潮時か)
相手が出てくる前にと引き返して角を曲がり、身を潜める。セイン夫妻とエルデュミオには面識があるので、顔を合わせれば余計な感情を買うのは確実だ。
「まったく、冗談ではないわ。どうして使用人の子どものせいで、わたくしがこのような目に遭わなければならないの」
「お前、まだそんなことを……」
「なあに? 元はと言えば、貴方の節操のなさのせいでしょう。だから言ったのよ。セイン家の人間だなどと、認めるべきではないって。わたくしが正しかったでしょう」
「……」
憤りを隠さず強い口調で糾弾する妻に、夫はただ項垂れるだけだった。
足音も荒く立ち去って行くのを聞きながら、エルデュミオは暗鬱とした息をつく。
「……ええとつまり。夫の不貞のせいで、家族間はかなりぎこちなかったと」
「そうらしいな」
ヘルムートが家を継ぐのではなく騎士で身を立てていたのも、そのせいだろう。
「どうして、不貞なんてするですかね」
「決められた中から選んだ相手と結婚する覚悟のない奴はわりと多い。感情は別だからな」
「……そう、ですね。でも、駄目ですよ。やっぱり」
思い当たることがあるのか、リーゼの口調は沈んだ。言っているエルデュミオも疼く気持ちがある。だが、リーゼに同意してうなずいた。
「当然だ。そして釣り合わない相手と気持ちを貫きたいなら、相当の覚悟と努力がいる。しかし断言するが、周囲の理解を得られない結婚の先に幸福などない」
当人たちはまだいいだろう。しかし子どもは本来味方であるはずの親類から、血筋一つで延々と非難されるかもしれない。
そしてそれは、子々孫々まで響く可能性がある。
「僕は想った相手も子どもも、不幸にするような道は選びたくない。自分の側で泣かせるより、どこかで幸せに笑っていてほしい」
「……ええ。そうですね」
欲望に負けた挙句に上手くいかなくなった実例を目の前で見ただけに、希望だけを口にすることはできない。
「だが、納得はした」
「何にです?」
「ヘルムートは自分の行いが一族にもたらす害を分かっていたはずだ。その上で実行しているのは、あいつにとっては家も一族も楔となるような関係ではなかったのだと」
逆にルーヴェンのためになら罪を犯すことをためらわなかった、とも言える。
「あんな様子じゃあ、無理もないですね。血縁だけでは家族にはなれないですから」
「そういうことだな」
心の交流があって初めて、絆は育まれる。
「だが勿論、犯した罪の大きさが置かれた状況で変わるわけではない」
「……ですね」
どれだけ同情すべき理由があろうともだ。
だがらこそ、悲劇を生む要素を作ってはならない。
本人のためにも、周りのためにも。
「――お帰りなさいませ、エルデュミオ様」
宿に戻ると、先に宿を取ったまま待機していたスカーレットに出迎えられた。
「調子はどうだ」
「いつも通り、ですね」
苦笑しての答えから察するに、ツェリ・アデラ比でと言うことだろう。
スカーレットが不調だということは、当然、エルデュミオが使う魔神の権能にも影響が出る。
(ツェリ・アデラでは荒事に遭遇したくはないものだな)
ウィシーズで権能の力を知って、また相手の厄介さを知ったからこそ、切実に思う。
「私のことはともかく、エルデュミオ様宛てにこちらを預かっています」
言ってスカーレットが差し出したのは、一通の手紙。送り主はクロードだ。
「随分と早いな」
図書室で時間を使ったとはいえ、すでにスカーレットの手元にあるということは、エルデュミオの手紙を受け取ってすぐに行動したのに違いあるまい。
正直に言って、不穏だ。
封を切り、中身を開く。内容は短かった。
情報提供への感謝と、今は都合をつけるのが難しいという断りの文句。
(あり得ん)
この内容を届けるのに、早さは不要だ。
しかし実際手紙はエルデュミオの元まで来ている。そのちぐはぐさは、エルデュミオに内容が事実ではないと伝えるためだろう。
書かれている文面に意味は然程ない。行動こそを重視するべきだ。
(クロードには、僕と接触すると知られたくない誰かがいる。しかし連絡を取ろうという意図はある。だとするなら……)
エルデュミオは一度視線を扉へ――その先、別室に泊まっているエリザへと意識を向ける。
「ヴァスルール、お前、変装は得意か」
「それなりには」
「女性にもなりきれるか?」
「男性を篭絡しろと言われると難しいですが、見た目だけならば可能です」
「よし」
うなずき、エルデュミオは急造の手紙を制作する。
宛先はエリザ。フュンフを侍女としてしばらく同行させてほしいという要望を伝える。
(明日、エリザ王女宛てに聖石が届く。僕とエリザ王女が同行していたことは少し調べれば分かるだろう。間接的に接触を持とうとしてくる可能性は充分ある)
そしてこちらは、クロードが送ってきた情報をできる限り隠密に手にした方が良い。
「これを持って、リーゼと特徴の近い侍女の姿でエリザ王女の元にいろ。明日彼女宛てに届く荷物の中に、彼女自身に心当たりのないものがあれば人目につかないよう僕に届けに来い」
「承知しました。では、取りかかりますので失礼します」
エリザ宛の手紙を受け取ると、フュンフはすぐに部屋を出た。
「スカーレット、アゲートを呼び戻せ。人数が合わないと勘繰られる」
町の入り口を護る衛兵から証言を取れば、エルデュミオ一行が男性三人、女性二人で行動していたことが分かる。
フュンフは人の印象に残らない訓練を積んでいる人材なので、何となく見ていただけではアゲートに代わっても別人と断定できる者はいまい。
後はフュンフにリーゼと特徴の似た変装をさせれば、初見の人間の伝聞ぐらいは何とかなる。
「よろしいのですか。アゲートとリーゼには面識がありますが」
「……魔神信者ではあるが、ルーヴェンたちとは敵対していると説明しておく」
嘘ではないし、リーゼも現状、どちらが世界にとっての脅威かは分かっているはずだ。アムルガムガルムの協力を受け入れざるを得なかったように。
「分かりました。そのように」
「以降、エリザ王女との接触は控えよう。……まあ元々、こんな時間になってまで行き来するような仲じゃないけどな」
用心して避けておけば問題ない。
「連絡を取るだけでよかったはずが、妙な話になりましたね。もし一筋縄でいかなければ――戴冠式までに戻れるでしょうか」
「戻りたいものだ」
希望は述べたが、適わなかったとしても優先すべき方を優先するつもりだ。
ただ、ストラフォードの貴族として。




