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「ディー」
「終わったぞ」
得物を納めて近付いてきたリーゼに、目元を拭ってそう答える。
「ですね。お疲れさまでした」
「お兄様……。ちゃんとこの世界のマナに還れたんですね」
背後の神聖樹へと向き直ったルティアも、ほっとしたように言う。
外ではもう二度と兄としては扱わない。しかし紛れもなく同じ場所で生きてきたルーヴェンは、ルティアにとってはそれでも『兄』だ。
「じゃあ、俺たちも帰るとしようか。人の在るべき場所にな」
「そうだな。人の意思がいつまでもこんなに近くにあったら、神聖樹にも悪影響だろう」
そして影響を受けた神聖樹が送るマナが、ローグティアを通じて世界中へと広がる。
「うわっ。それは怖いですね。さっさと離れましょう」
「では、こちらに」
スカーレットが僅かにマナに干渉し、紅の道を一本作る。道の先には少し歪んで『外』の景色が映る渦のようなものが生じていた。
道を外れれば、きっと辿り着かないのだろう。想像できることをわざわざやる必要はない。
紅の道を通って、神聖樹の庭から元の場所――ツェリ・アデラ聖神殿へと戻る。
一歩外に出て振り返れば、そこにはローグティアが佇むのみ。
「……終わったんですね」
「ああ」
少なくとも、世界を書き換えようと画策して、実行までする者はいなくなった。
「そしてこれから、後始末が始まるわけだ」
ルーヴェンたちが掻き回して大陸中でバランスを崩したマナを、一刻も早く適切な流れに正さねばならない。
「やった当人は責任も取らないというのに、うんざりだ」
理不尽なものを感じて息をつくと、ルティアがくすくすと笑った。肩の力を抜いて、ごく自然に。
「ええ。でも大切な役目ですね? わたくしたちは王なのですから」
「そうだな」
面倒だうんざりだと口にしたエルデュミオだが、放棄しようとは思っていない。
本心であるのも否定しないが、それよりも。
「世界に訴える力と、立場がある。幸運なことだ」
望みが強大になるほど、声を届けるのは難しくなる。正攻法で届ける手段がなければ、強引な手段に出るしかなくなってしまうのだ。ルーヴェンがそうしたように。
(お前の生を、生じた感情を、変革の意思を、無駄にはしない)
学んだすべてで、人生を生きよう。
(お前が望み、僕が望み、そしておそらくは世界に生きる多くの者が望んでいるのだろう理想のために。僕は進む)
相容れぬ思想の果てに道を奪い取った責任も、エルデュミオたちにはあるのだから。
マナの流れに偏りがなくなった。
そうエルデュミオが感じられるようになったのは、ルーヴェンを倒してから半年ほど後のことだった。
「ツェリ・アデラも大分、元通りの景観を取り戻しましたね」
「ああ。少し迷ったが、ツェリ・アデラは今も昔も聖地だ。あまり変えすぎない方がいいと思ってな」
復興の具合を自らの目で確かめるべく、エルデュミオはリーゼと並んで町を歩いていた。
擦れ違う人々がはっとして聖印を切り挨拶をするのに応じながら、のんびりと足を進める。
「存外、居心地がよくなって帰りたくなくなってません?」
「悪くはないな。大概の者が僕に好意的だから。しかしそうも言ってられん。ルティアからもいつ帰ってくるんだとせっつかれているし」
そちらは気が早いと一蹴しているが。
「時代に選ばれた『本物』の聖王様ですもんねえ。どこからでも引っ張りだこですか」
「そういうことだ。だが僕が名実ともにそう在れるようになったのは、お前とフェリシスの功が大きい」
「はい?」
進行方向に向いていた顔を傾けて自分を見上げてきたリーゼに、エルデュミオは楽しげに笑う。素直に。
それにリーゼが少し頬を染めて、次いで、悔しそうに睨んでくる。
(可愛らしい)
抱いた気持ちを認めていい。それだけでたまらなく幸せだ。
「どういうことです?」
「民が望むものが、僕だけだったら分からなかっただろうと言う話さ」
「ああ。ディーは生粋の貴族ですもんね」
エルデュミオが言わんとしたことを、リーゼはすぐに理解した。実感があるからだろう。
生活水準が違いすぎると、有効な政策など打てなくなる。必要とするものが分からないのだから当然だ。
今も生活の基盤を市井に置くリーゼやフェリシスは、体感で分かっている。二人の意見を反映させれば、民意は自然と集まった。おかげで聖席からの反応も良好だ。
――ただし。
「それができるのは、ディーが貴族だからなんですよねえ。やっぱり」
「そのための権限だからな」
「だけでなく」
「まあ、そうだ」
リーゼやフェリシスが民の必要としているものを分かっているのと同様に、エルデュミオには貴族が納得できる範囲が分かる。だからこそ意見を通せるのだ。
そうして一歩引いた場所から見聞きしているからこそ、望みが国のためになるかというのも冷静に見定めることができる。
「貴方がストラフォードにいてくれることは、幸いですよ。きっと」
「今の僕で在るのは、お前たちがいたからだよ」
「ですね」
そこは否定しないらしい。
実際、ルティアたちと関わらずにいた前回には人生の終わりが訪れているので、否定されても困るのだが。
「これからも、共にいてくれるか」
「勿論ですよ。今度はちょっと、逆方向で心配ですし」
理想を求めすぎて現実を置き去りにすれば、歪みが生じる。
どれだけもどかしくとも、人々の理解を得るのを諦めてはならないのだ。決して。
「心配ない」
「ですか?」
「お前がいるから、無茶などしない」
「……ですか」
照れもなく言い切ったエルデュミオに、リーゼの方が目を泳がせる。
「じゃあ、まあ。――ずっと、一緒に生きましょう」
「ああ。僕らのマナが世界に還る、その時まで」
奇跡の続きを、精一杯で紡ごう。




