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「僕が僕であり続ける以上の利など、イルケーアには存在しません。無論、ストラフォードにも」
「……くっ、くく。はははっ」
しばし沈黙していたが、ヴァノンはついに堪え切れない、という様子で喉を鳴らし、笑った。
「そうか。それが言えるようになったか、ディー」
「はい」
一歩間違えばただの傲慢。事実少し前のエルデュミオは、己の価値というものを履き違えかけていた。
だが今の気持ちは、その頃とはまた少し違う。
(当然、一人の人間として、貴族として。僕自身を蔑ろにされる道理はない。しかし同時に忘れてもならない)
なぜ、貴族が尊ばれるのか。
それは尊ばれるべきことを成した血筋の末だからだ。そして今も、尊ばれるべきことを成すためにその座がある。
(僕は、僕がイルケーア公爵で良かったと、ストラフォード国民に思ってもらえねばならないんだ)
そう在るためにリーゼが必要だと、ヴァノンへ向かって言い切った。
「リーゼ」
エルデュミオから視線を移し、ヴァノンはリーゼを見据えた。
「はい」
眼光鋭く値踏みの視線を向けられようとも、リーゼは怯まない。真っ向から受け止め、返事をした。
「降りかかる困難など、今更説明するまでもあるまい。故に、問おう。――ディーを支える覚悟があるか」
「あります。わたしも、彼と共に生きたいから」
「……そうか」
迷いのない答えに、息をつく。
「ならば、必ず貫け」
「はい!」
それは積極的なものではなかったが、間違いなく肯定だった。
「では、父上。僕たちはこれで失礼します」
「慌ただしいことだな」
「恥ずかしながら、余裕はありません。後に回せない用事ばかりが詰まっているので」
「次は、人に仕事を委ねる訓練が必要そうだな」
「そのようです」
ヴァノンの言葉に、エルデュミオは苦笑いをする。
今でも預かった領地を第三者に任せてはいるが、それは結局、ヴァノンに倣っただけに過ぎなかった。
いざ自分が生み出した仕事を抱えてしまうと、できていないことに気が付かされる。
思い返せば幼少期から、ヴァノンが仕事に追われている姿など見たことがない。
頭を下げ、客室を出る。宿から少し離れたところで――リーゼが大きく伸びをした。
「あー。緊張しました」
「だろうな」
理解を得たい相手との話し合いだ。気負って当然。
(そして次は、僕の番なわけだな)
今からすでに腹に来るものがあるが、踏ん張ったリーゼの前でその心情を見せるような顔はできない。断じて。
「でも、よかったです。許してもらえて」
「ああ。強行はしたくなかったからな」
「ですね」
肩の力が抜けたのがよく分かる。リーゼの表情はここ数時間のうちで一番柔らかい。
それにふと、申し訳なさが過った。
「……もし僕が貴族ではなかったら、どうだっただろうか」
「えぇー?」
「おい。なんだその反応は」
どうしようもない与太話を振られたかのようなリーゼの反応に、エルデュミオは少しムッとする。それなりに本心だったからだ。
「まあ、今のディーとは別人だったでしょうね」
「生活の常識が違うからな。だが、お前に今掛けている苦労はさせなかったかもしれない」
「ですね。そしてわたしも惹かれなかったかも」
「……そうか」
言われて、あまりに無意味な問いかけをしたことにエルデュミオも気付いた。リーゼの反応にも得心がいくというものだ。
「今の僕と、お前だからこうなった、ということか」
「そう思いますよ」
きっぱり肯定したリーゼに、自然と笑みが浮かぶ。
(今の僕だから、か)
『もし』の可能性などいらない。苦も、難も、幸福も。すべてがその人を形作ってきた人生の一部だから。
「趣味の悪いことだ」
「ですねえ」
リーゼの返答はためらいがなくてやはりなかなか失礼だったが、エルデュミオの笑みは崩れなかった。
それでも彼女が選んだのは、今の自分だからこそなのだから。これほど嬉しいことがあろうか。
(ああまったく、本当だ。僕が好きなのも、今のお前だ)
たとえこの先苦難が多くとも。境遇を言い訳にすることはないだろう。
それもまた、惹かれた相手が自身を作ってきた経験の一部であるのだから。
聖王就任の式典は、戴冠式とはまた趣が違う。あくまで儀式としての姿を貫き、そこに華は求められていない。
実際には世俗の権力とも金とも切り離せないものだが、表向きを繕っておくのは大切だ。
略式ではない聖王の正装を身に着けたエルデュミオは、じっとその時を待つ。
「今日は随分と、町が静かですね」
執務室から窓を見やったリーゼがそんなことを言う。
式典から戻ったらすぐにローグティアの中へと入るつもりなので、リーゼにはあらかじめ合流しやすい執務室で待っていてもらうことにしたのだ。
広い本神殿の敷地の中で、さらに奥まった場所に位置する聖王の執務室である。町の声など届きようもない。
それでも町に緊張からくる静寂が満ちているのは、なんとなく察せられた。
「新たな聖王が就こうという日だからな。その瞬間を厳かに迎えようという表れだろう」
「聖獣たちも、ですか?」
「勿論だ」
含んだ笑みを唇に浮かべていったリーゼに、エルデュミオは平然と返す。この程度の自演でうろたえていては、貴族などやっていられない。
昨今ツェリ・アデラにちらほらと姿を見せていた聖獣は、勿論今日も健在だ。
皆一様に同じ方向――この本神殿の方角を見て、留まっている。彼らの醸し出す雰囲気が、町の人々の心理にも影響を与えているのは間違いない。




