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「もの凄く俗な話をすると、今生き延びるのに必要だからだ。ルーヴェンたちに対抗して世界を護るのに、魔物の、魔神の力がいる。魔力の威力を上げるために信心が必要だ。ただし勿論、聖神の力を衰えさせたくもない」
「そ、そうなんですか」
信仰ではなく、敵と戦うための武力として語られてしまい、クロードは間の抜けた声を出した。
マナの枯渇が何をもたらすかを知らない者はいないので、否とは言い難い。
「そして僕の理想の話をするならば。――この世界にはもう、敵はいらない」
「!」
「初代皇帝と聖王が、なぜ魔を悪と貶めたのか。その理由を、僕はおそらくお前たちよりも理解している」
「それは……」
エルデュミオよりもはるかに長く聖王の定めに従ってきたクロードだが、年月だけの理由で反論はしなかった。
「……確かに私は、『なぜ』魔物が悪であるかを考えたことはありません。私が生まれたそのときから、魔物は人を襲う存在でしたから」
自分たちを害するものを、悪いものだと教えられて、それを疑えというのは難しい。襲われる者にとっては、正しく悪しきものであるのに間違いないからだ。
「けれど魔物は、人が人だから襲うわけでは、ない……」
「その通りだ」
魔力化した国々が、すでにそれを証明している。
「初代の皇帝と聖王の判断を、僕は否定しない。僕がこうして一人の人間として人権を持ち安穏としていられるのは、彼らのおかげだからだ」
自身の安全を護る世界を創るために、聖神の神人の力を使った。その対価に、信仰を支払ったのだから。
後ろでスカーレットが刺々しい空気を醸し出しているが、無視をする。
そして神樹の御子が辿ってきた歴史を知るクロードは、黙ってエルデュミオにうなずいた。
「だが僕の目指す世は違う。時代も変わった。聖神が一強である必要のある状況ではない。少なくとも僕にとっては」
また別の誰かの視点から見れば、エルデュミオの行いは不利益を被るものかもしれない。
それでも今は、目指す世界がより多くを幸福にすると信じている。
「次へ進むためには、変革を怖れるべきではない。――命を、無駄に失わない世界にするために。心あるものを非情に切り捨てないために」
魔物にも心はある。同じ世界に生まれ出でた生物であることも間違いない。
目を閉じてエルデュミオの言葉をゆっくりと反芻し、クロードは再び目を開く。そこに否定の色はなかった。
「承知いたしました。聖席の皆にも協力してもらえるように話しておきます」
「頼みにしているぞ。聖神教会において、僕の伝手はお前だけだからな」
――何としてでも、通して来い。
言外に伝えられた意図に、クロードは頬を引きつらせた。
「尽力いたしましょう。……ときに、エルデュミオ様」
「何だ」
「国に帰るのを考え直して、このまま聖王として生きるつもりはありませんか?」
「――」
クロードが発した言葉は、エルデュミオの想定外だった。つい絶句してしまう。
数秒して、気を取り直した。
「僕が聖王の椅子に居座っていたら、聖席の席も空かないんじゃないか」
「まあそこは、補佐官を継続ということで」
くすりと笑って軽い口調で言う。それが冗談であることは、直接聞いた者ならば誰でも察せるだろう言い方だ。
「聖席は機会があればもちろんいただきますが、それよりも私は今、仰ぐに相応しい方を聖王として迎え、仕えたいと思っているのです。貴方が理想とする世界を私も支え、共に目指したい」
「僕が聖王なんて継いでいい聖人君子じゃないのは、お前だって分かってるだろう」
「そうですね。覆い隠しておいた方が無難な性格の難は多い」
「おい」
自覚はあるが、他人から認められるのはまた別の腹立たしさがある。
(なぜだ。周囲に遠慮のない連中が集まってきている気がする。……これもルティアたちの悪影響か)
しばらく前までは、周囲の人間はエルデュミオの不興を買うことを恐れ、息を潜めて諾と従う者ばかりだった。
ストラフォードには身分がある。だからそれが正しく、秩序ある姿だとも思っていた。
(だがそこに、心はなかった)
エルデュミオに従っていたわけではない。国が定めた、公爵令息という立場だけが全て。
(形だけの応対に、どれ程の意味があるだろう)
罰で従わせるのではない。尊崇を得て、付いて行きたいと自ら思ってもらえてこそ、貴族の本懐。
理想とはまた少し違うのだが、クロードは紛れもなく、エルデュミオ自身を主にと望んだ。そのこと自体はとても嬉しい。誇らしいとさえ感じた。
おそらくエルデュミオのこれまでの人生の中で、最も己を誇らしく感じた瞬間だ。
「エルデュミオ様とて自覚があるから、外では少し猫を被っているのでしょう?」
「立場に相応しい振る舞いをしているだけだ」
「ええ。ご理解いただけているようで何より。そしてそれこそが重要でもあります。冷静に周囲と自分を見られる部分も、貴方を主として戴きたいと思う要素の一つです」
清廉潔白な人間は尊く、好ましい。理想を言えば、心を持つすべての者がそう在るべきだ。
しかし残念ながらこの世界の人間はそのようにはできていない。スカーレット曰く、殺し合うために。
欲望に負けて我欲で人を陥れる悪辣な者は、おそらく消えない。そうである以上無視もできない。悪意を躱すには、ある程度相手の思考を理解できるだけの素養が必要だ。
クロードが見込んだ通り、公爵令息として生きてきたエルデュミオには耐性がある。
「求められたことは、嬉しく思う。誇らしくも感じている」
エルデュミオの意思を知っているにもかかわらず、クロードは残留を求めてきた。それ程までに認めてくれた相手にだからこそ、誠意を持って返すべきだと思った。
「しかしすまないが、応えることはできない。僕はストラフォードの臣なんだ。仮初に聖王の席に座ってなお、僕の心はストラフォードにある。そんな人間に聖王は務まらない」
「歴代聖王とて、多かれ少なかれ生国に利は与えてきたものですよ。高位にある者は皆同じでしょう。だからこそ、聖神教会は力があったとも言えます」
権力者たちにとって、その席が魅力的な者であり続けた。だから金が集まり、人も集った。
「皆が豊かになるための悪徳は、あえて妥協しよう。ゆえに、一線を超えないことを願う。慣れ切った慣習ならば丁度いい機会だ。少し身を振り返れ」
どこまでも部外者としての態度を崩さないエルデュミオに、クロードは諦めた笑みを浮かべる。
「残念です」
「納得したところで、通達は以上だ。すぐに動け」
「承知いたしました」
今度は問答をせず、クロードは頭を下げて執務室を後にする。
「……私としては、ぜひ継続して聖王を務め、世界の属性を塗り替えてほしいところですが」
「聞いていただろう? 諦めろ。その点に関して、僕とお前の利は一致しない」
魔を敵にするつもりはない。同様に、聖を敵にするつもりもない。
「ままならないものだ。――さすがは、神樹の寵児。命の母の純粋なるマナを継いだと考えれば、まあ自然か」
「命の母?」
「気にするな。マナは聖魔、どちらにも染まる。それが答えです」
「……そういえばそうか」
マナそのものは聖神のものでも魔神のものでもない。
少し不思議な気もしたが、エルデュミオは追及をやめた。それはおそらく、地上で生きる只人にはさほど影響のない答えだ。
「では、僕たちも動くとしよう。世界の創世とやらを妨害しにな」
「はい」




