擬態
連日の残業に疲れ果てた身体で、帰路に着く。
どんなに疲れていても化粧を落とし、軽く掃除をしてから風呂に入り、念入りにストレッチとマッサージ。家での食事は主にプロテイン。朝はウォーキングがてら一時間かけて会社まで徒歩で向かい、一番に会社に着くと軽く化粧を直す。
大した田舎でもない田舎から都会に出て、早10年の月日が経った。私は一体何がしたかったのだろうかと、詮無い考えが頭に過ぎる。
「今日は帰ったら? あとはやっとくからさ」
「え……でも、いいんですか?」
「たまにはね。 いつも頑張っているし、助かってるよ。 ありがとう」
定時を過ぎると仕事を終える人達の『お疲れ様』や、連絡事項の引継ぎ、軽い談笑でフロアが賑やかになる。それに紛れるような私の労いと礼を添えた言葉に、後輩の瞳が潤んだ。
毎日残業になってしまっている新人の子。私も残業続きだが、彼女は入社したばかりだ。要領こそ悪いが、頑張っている。たまには定時で上がらせてあげたい。
──それは間違いなく、本心。
自分で言うのもなんだが私の評判は良い。だが評判のためにやっている訳じゃない。本来消されてしまうくらいのほんの幾許かの本心を、あのひとが拾ってくれる。それが結果として私の評判を上げているだけに過ぎない。
弱くて狡い私のために、彼女はいる。
「初瀬さん、もう終わる?」
「ええ」
「そう、それじゃご飯食べに行かない? 俺ももう終わるから」
残業三時間。上司であり同期の永井さんに食事に誘われる。
体型維持は年々大変になっていく。簡単に肌も荒れるようになってしまった。服はベーシックな型の良いものを着まわしているのもあり、外食は極力しない。
だが……まだ時間は早い。
(たまにはいいか……)
正直サッサと家に帰りたいが、なにかと気遣ってくれる相手を無碍にもできず、食事を共にすることにした。
オフィス街を抜けると、全体的に照明の色味が華やかになる。
彼が行き付けだというこじんまりした居酒屋は、モダンでなかなか雰囲気があった。勧められるまま、お酒を呑む。喉から胃の中へ熱い液体が流れていく。久しぶりのお酒は味がよくわからなかったが、アルコールが回っていくのは感覚としてわかった。
「これ美味しいよ、オススメ」
「もう食べられないんで……」
「え、全然食べてないじゃない。 普段なに食ってんの?」
「……成分としては、主にタンパク質?」
「なにそれ」
「太るので夜はプロテインなんです」
「美意識高いなぁ」
「そんなんじゃないですよ。 遅いことも多いし、用意も片付けも楽っていうのもあって。 本当に美意識が高い人はそういうのも凝ってるんじゃないですかね~。 私は今が精一杯で、米を炊く気力もないです」
そう言うと、ふたりで笑った。
でもあのひとならそうするのかもしれない。彼女は料理も上手かったから。きっとデパ地下で見るような小洒落たお惣菜や、小料理屋みたいな小付を幾つも作るに違いない。私には到底無理な話だ。
花カマキリが花ではないように、私は彼女の真似をしているだけ。擬態に過ぎない。
私は彼女に擬態するので精一杯だ。
永井さんは「君らしい手の抜き方だ」と笑ったが、『私らしさ』なんてものは要らない。
──ああ、何故私は彼女じゃないのか。
そう思いながら、或いは惰性のように、彼女を模する日々。
きっと彼女ならこんなくだらない人生にも、意味を見出していたに違いない。否、そもそもこんなくだらない人生など送ってはいないのだろう。
「連休は田舎に?」
「……う~ん、どうでしょうね。 まあ時間があったら」
曖昧に笑って肯定するも、田舎に帰ることはない。こちらに出てきてから一度も帰ってはいなかったし、これからも帰るつもりはない。
「あそこにはなにがあるの?」
「なにもありませんよ~。 いや、本当に。 ただ人が生活の為に暮らしている、そんなところですから……」
「住むには良さそうだ」
「そうかもしれません。 いえ、多分そうなんでしょうね」
それなりのコミュニティと利便性。何も無いけれど、確かに生活するには困らない──私が住んでいたのはそんな町で、出てきたところで今もそんなに変わりはしない。
でも、あそこでは息苦しかった。
他愛もない話をして、その場はお開きとなった。「送るよ」という永井さんの申し出をやんわりと断る。
「下心はあるけど、それは別として帰りは送らせて。 アパートの前まででいい、普通に心配だから」
「……紳士ですね」
「紳士というより、本気なんです。 お付き合いしてくれませんか?」
何故か敬語で彼がそう言うのが、なんだかおかしくて笑ってしまった。
「では『お友達から』で」
「えっ、今お友達じゃないの?!」
「上司ですね」
「そぉかぁ…………うん、じゃあいいよそれで」
「その代わり」として明日、デートに誘われた。いい歳だが、まだ『お友達』だから当然健全なデートだそう。本気だというところを見せたいらしい。
きっと何度かそういうのを繰り返して、恋人になるのだろう。曖昧な幸せを感じて。
姉が死んだのは、こちらに出てくる更に5年前。家族の自慢の姉だった。
姉は美人で優秀だったけれど、そこには彼女の努力があったのは言うまでもない。だから私は文句などつけられなかった。私が努力してもできない壁を彼女が超えられたのは、別に姉が才気溢れる人間だったからでなく、純粋に努力の賜物である。
私だって努力をしなかったわけではないが、努力の量が姉より足らなかったのだろう。ただ……努力をすることに無意味さを感じていたのもまた事実だ。
結局ひとつ姉を超えても『劣った妹』のイメージは払拭できないのを、私は身を以て知っていた。姉の方が基本的なスペックが高かったことを理由に『姉には勝てる気がしない』といじけるよりも早く……比べられることへの無力感は気力を奪った。
──私とお姉ちゃんを一緒くたに見るのはやめて。
そんなようなことを言えば良かったのだろうか。だが言えるわけがない。言ったところで変わりはしないことだ。皆悪気があるわけではないのだから。それに私にだって自尊心はある。悲劇のヒロインぶりたいのならそれもいいだろうが、私の自尊心はそれを許さなかった。
姉は優しく、残念なことに私は姉が好きだった。私にとってもやはり、姉は自慢だったのだ。
だけどひたむきな努力へのハードルは、きっと姉より高かったに違いない──その思いは15年経った今ですらまだ、払拭できずにいる。そしてそれは、姉が死んだからといって解放される類のものではなかった。
『お姉ちゃんなら、きっと』というくだらない想像は、決して超えられない壁として私の前に常に立ちはだかり、同時にそれは私の支えにもなっていた。
『お姉ちゃんなら、きっと』。
そう想像し、ひたすらイメージ上の姉の言動を模倣し続ける私は、私でありながら私ではない気がしている。なんのために私は知り合いのいないところに出て、なんのために努力をしているのだろうか……そう思うことは、ある。
でもそれがわからなくてもいい。
姉の擬態でも構わない。
私の得たものが、姉のイメージという檻に自らを入れている滑稽な日常だったとしても、あの息苦しかった日常からは逃れられたのだから。
ここでは姉というフィルターを通した『私らしさ』を求められずにすむ。
『お姉ちゃんの代わりに私が死ねば良かった!』
傷付けるつもりで投げ付けた言葉に誰よりも傷付いていたのは私であり、それは実家に戻ることを今も阻んでいる。姉は美人で性格も優しく他人を気遣える人だったから、もし本当に私の方が死んでいたとしたらきっと、私のことは思い出の彼方に追いやられてしまったのだろう。そんな嫌な想像は、消えることはない。
(なら今の方がマシな筈だ)
──もう、帰れなくても。
部屋でいつものルーティンをこなすと、明日の服を選んだ。
『お姉ちゃんなら、きっと』選ぶであろう服を。
最早、それが私のパーソナリティなのだろう。
だから姉に擬態する日々は、この先も続いていく。