第1章 3 恐怖の男女ペア週番制度
四校時のラスト五分は、生徒の大部分は教師の話を聞いていない。教師も(どうせ頭に入ってないだろう……)と思いながら、「ここは重要だぞ」「テストに出るからな」と注意を促す言葉を言う。
結衣などは「テストに出るからな」と言われても響くタイプではない。テストそのものを軽く考えている。
チャイムが鳴り、生徒は思い思いの場所で、仲のいい友達とランチする。
結衣は佐和子、そして田端栞と食べる。二人とも同じ中学の出身だ。佐和子は陸上部、田端栞は吹奏楽部に入った。話題は専ら部活のことだが、つくづく同じ部に入らなくてよかったと三人は思っている。
「で、大沢先輩がこの前の日曜日とうとう松田先輩に告白したんだって」
田端栞はご飯粒を飛ばしながら言った。初夏の陽光を遮るセンダンの木の葉が、芝生に座る三人の制服に影模様を落としている。
「松田先輩? サッカー部の?」佐和子はお茶を飲んで渋い顔をした。
「違うわよ、吹奏楽よ。うちの部の松田先輩」
「聞いてないわよ、その人。初登場よ、わたしたちのサロンには」
「言ったはずよ!」栞はそう言ってマテ茶をぐい飲みした。
「サッカー部の松田先輩かと思った。あの先輩も人気あるもん」
結衣はウインナーの味をかみしめていた。(ウインナーってなんでこんなにおいしんだろう……)とつぶやいてウインナーを箸で太陽に翳してみる。
中学校の遠足で母親に弁当を作ってもらっとき、幼稚園時代の赤いたこウインナーからフランクフルトウインナーに変わった。結衣にはそれが衝撃だった。こんなものが世の中にあったのかと思った。
調べてみると、養豚業の盛んなドイツで発明されたものらしい。豚を「神様からの贈り物」として大切にするドイツ国民は、豚のしっぽだって無駄にはしない。ソーセージの和訳が「腸詰め」だと知った結衣は、腸を無駄にしない発想からウインナーが誕生したことを知り感銘を受けた。これこそが「人間の叡智だ」と納得したのだ。
ウインナーを食べながら、「人間の叡智」をかみしめる結衣。結衣の弁当には必ずフランクフルトウインナーが三個入っている。
「結衣、なに考えてんの?」佐和子が肩をつっつく。
「まただよ、ウインナー見てうっとりするやつなんてあなただけよ」栞は唐揚げをつまんだ。「わたしの場合、唐揚げ命……」そう言って一気に口に放り込む。
「まあ、わたしたちの恋愛論聞いてもつまんないだろうけどさ……」佐和子は弁当箱を仕舞いながら言った。「ほんとに結衣ったら、浮いた話まったくないもんね。男、嫌いなの?」
「男って、なに?」
栞が唐揚げを喉に詰まらせて呻いている。佐和子は栞の背中をとんとん叩いた。
「男ってね、女の反対でね……まあ、肉体的のも精神的にも女性と異質な地球上の動物でっと、あとなんだっけ?」
佐和子はマテ茶を飲み干した栞に言った。栞は咳き込んでそれどころではないらしい。
佐和子は本格的に栞の背中をどんどんと叩いた。
「……げふっ。男ってさ、ほんと、乱暴だし、下品だし……ふっ。くさいし……」
「栞、いいよ、無理しなくても」佐和子は栞の背中をさすった。
「いいの……。結衣はいい質問したわ。『男ってなに?』って。男ってほんと、だらしないし、お酒飲むし、最悪よ」
結衣と佐和子は顔を見合わせた。栞が時々父親の悪口を言うのを思い出した。
「でも栞、そう言いながらも、あなた結構、しょっちゅう恋愛してるよね」佐和子が言った。
結衣は自分の『おーいお茶』を栞に手渡した。
「そこが恋多き乙女のつれーところよ。傷ついても、裏切られても、ひどい目にあっても、男を好きにならずにはいられない……お茶、ありがと、結衣」
「つまり、病気なのね」
「結衣、病気はあなたよ。一度も恋をしたことないなんて、あなたが異常なの。お茶もらってて、こんなこと言うのはあれですけど」
「いえいえ、どういたしまして」結衣は慇懃に頭を下げた。
「人の子だったら恋をするのは当たり前よ。人としての義務よ。恋をして、結婚して、子ども生むんだから。女の宿命じゃない」栞はうなずいた。
「結衣が変なのはさ、こんなにかわいいのに、それを自覚してないところじゃない?」
佐和子は弁当を食べ終え、箸を箸箱にしまいながら言った。
「佐和子、よしなさいよ。結衣にかわいいって言うと性格変わるよ」
「わたし、かわいくなんかないよ。佐和子、変なこと言わないでって、言ったでしょ?」
「佐和子、謝ったほうがいいよ、友達の縁、切られちゃうよ」栞が笑って言った。
「ゆったっけ、栞。小学生のときのこと。わたしが好きだった男の子、結衣のことが好きでさ……」
「佐和子がふられた話でしょ。知ってるよ」
「肝心の結衣はその男の子なんとも思ってないんだもん。わたし悔しかった……」
「よくある話よ。そんな恨み辛みを乗り越えて、今日の友情があるんだわさ、佐和子くん」
「そういうことね。『くされ縁』って言葉あるけどさ、あんまり使いたくないね。におってきそうでさ」
「わかるわかる。結衣、どうしたの? 思い詰めちゃって……」
結衣は残っていた最後のウインナーを食べて言った。
「おいしい……」
佐和子と栞はやれやれ顔でため息をついた。
放課後、職員室に結衣の姿があった。呼び出されたわけではない。週番が回ってきて、担任に報告に行ったのだ。
「あなただけなの?」
担任の鵜川和美先生は机に座り、結衣を一瞥して言った。採点中らしく、鵜川先生の頭と手は痙攣でもしているかのように動く。紙の上をペンが走る、何とも表現しがたい音が耳に響く。結衣は鵜川先生の言っていることがわからなかった。
「神谷さん、あなただけなの?」
「先生、あなただけとは、どういう意味でしょうか?」
採点する右手を止め、鵜川先生は眼光を光らせて結衣を見上げた。
「いるでしょ。男子が。あなたの今週のパートナー」
「わたしの他に、もう一人週番がいるってことですか?」
「そう」鵜川先生は採点を再開した。今日はどうしても早く帰りたいのだろう。
「そんなの、わたし聞いておりません」
「四月の最初に言ったでしょ。週番は男女一組でやってもらいますと。生徒の皆さん『えーっ』って悲鳴を上げてましたよ。覚えていないの?」
「はい、正直に申しますと、記憶にございません。しかし、どうして男女一組に……」
鵜川先生はついに採点を終わらせたのか、プリントをそろえた。結衣は余計なことを言ったと思った。果たして鵜川先生は椅子を回転させ、中年女性らしい脚を組み、説教態勢に入った。
「神谷さん、今なんて言いました?」
「いえ、なにも。ごめんなさい、男子を探してきます」
結衣は頭を下げた。
「いいの、行かなくて。こっちに戻りなさい。男子はとっくに部活に行ってるでしょう。もう、どうしてこうなのかしら……」
結衣はいよいよ悪い予感がした。説教好きで知られる鵜川先生の恰好の餌食になってしまったのではないか……。
「神谷さん、わたしが週番を男女のペアですることにしたのには、理由があるの」
「はい、わかります。男女平等のためですね」
「遠いわね。そうじゃなくて『男女の敬愛』ですよ」
「ケーアイ、ですか?」
「そう。男女がお互いを尊敬し合い、誠実に愛し合うことです。わたしはね、担任として、あなたたちにこの心と態度を養うために、男女ペアの週番制を導入したのです。お互いに協力し合うことで、尊重し合う態度が育まれ、望ましい男女関係を確立できるはずなの」
「あの……もう高校生でっし。幼稚園っぽくないですか?」
そろそろ部活に行く時間だ。長引くとわかっていても反論したくなるのは、結衣が少し成長したからだろう。
「そんな考え方だからいけないのよ」
鵜川先生は立ち上がって窓際に行くと、コーヒーメーカーに残ったコーヒーをマイカップに注いだ。鵜川先生のマイカップは、もうそろそろ買い換えた方がいいくらいに、飲み口が汚れている。『もったいない精神』だろうか、と結衣は思った。
「あなたたちは、体ばっかり大きくなって、心はまだ小学生。携帯電話とかの機械いじりばっかり上手になって、今の総理大臣さえ言えない」
「加藤貴之首相」結衣は即答した。
鵜川先生はコーヒーをごくりと飲んだ。結衣を睨む。
「神谷さん」鵜川先生は椅子に座った。「あなた見込みがあるようね」
「いえ、まったくございません」
「まあいいわ。あなたの週番のパートナーは……」
鵜川先生は【1年4組 週番】と背表紙に画かれたファイルを取り出した。
「……皆川祐也だわ」
鵜川先生は感情のない声で言った。結衣には聞いたことのない名前だった。尤も結衣はクラスの男子の名前は誰一人知らない。
「あしたからちゃんとやってちょうだいね」
結衣は多少むっとする。悪いのは皆川なんとかという男子だ。
「わたしが悪いんですか?」
「そうやってすぐふくれない」鵜川先生は自分のかばんに本を数冊入れて立ち上がった。「週番表は教室に貼ってあったでしょ。あなたのパートナーがだれか、それを見ればわかることよ。それに先週の週番が金曜日にあなたたちに連絡したはずよ」
連絡は受けていないが、事実を言えば先週の週番に飛び火しそうで結衣は黙る。出席番号が一つ前の女子生徒に【週番日誌】だけは受け取った。机に置いてあったのだ。日誌を見ると確かに氏名を男女で書く欄が設けてある。先週の週番は名前だけは男女で書いてあるが、実際は女子だけで黒板消しなどの仕事をやり、日誌も女子が書いた。結衣は今週もそうすればいいと考えた。
「わかりました、先生。よく聞いてなかったわたしにも落ち度があります。明日はしっかりやります。これ、週番日誌です」
鵜川先生は日誌をめくってチェックをした。
「今まではみーんな女子が書いてるのよね。男女で協力なんて意識はゼロなのよ。これじゃあ、いけないわ。神谷さん、明日は皆川くんと朝来てください。あなたが連れてきてね」
「わたしがですか?」
「男子の意識の低さを変えなきゃいけないわ。あなたも女子として、男子の怠慢を許せないでしょ?」
許せます、と結衣は心の中で即答した。顔は苦笑した。
「でしょ?」鵜川先生はかばんを手に取った。「そういうことで帰りましょ。よろしくね、神谷さん。神谷結衣さん」
鵜川和美先生は「お疲れ様」と周囲の先生に声をかけて職員室を出て行く。結衣はその背中を見てつぶやいた。
「なにも、わたしの名前、二回言わなくても……」
校舎三階を見上げると吹奏楽部の栞が見えた。グラウンドを見ると遠くに佐和子が見える。二人とも普段見せない顔をしている。結衣は少し気持ちが和んだ。
(ようし、わたしも部活がんばんなきゃ)
かけ足で教室に戻ると、自分の机の鞄を右手でつかんだ。数歩歩いて左手に違和感を覚えた。
「あれ? カメラがない……」
机に戻って探しても見あたらない。
結衣は教室を隈無く探した。ロッカーもゴミ箱も見た。ニコンD90の入ったカメラバッグ……。結衣はため息をついてひとまず椅子に座った。
「探しものは、これ?」
突然の声に、結衣は声の方向を探した。少し弱くなった陽光が机の表面に照り返して、教室は金色に包まれていた。
「これ、きみのだろ?」
男子は教室に入ってきた。結衣は仏像かと思った。丸い頭を陽光が金色に照らしていたからだ。一瞬息を飲んだが、カメラバッグを見て我に返った。
「この、どろぼう!」結衣はカメラを取り返した。
「ちがうよ」と男子は言った。「盗られないように僕が持ってたんだって」
「どういうこと?」そう言って、結衣は男子から少なくとも三メートルは後ずさった。
男子は、どっかりと結衣の椅子に座った。
「部活行きかけたけどさ、週番だって思い出してさ、教室に戻ったんだけど。きみがいないからさ、待ってたんだ。ひょっとしてもう鵜川先生のところに行ったかなって思って、僕も行こうとしたんだけど、きみが大切にしてるカメラがあったから、盗られるといけないと思って……」
「あなたが、皆川なんとかくん?」結衣は大げさに指さして言った。
「内村だけど……」
「さっき鵜川先生に散々説教されたわ。女子だけ週番の仕事しないで男子もやらせなさいって」
「ああ。先週そんなこと言ってたね。男女で協力しなさいって。僕、黒板は全部消したよ。理科の日村先生は黒板いっぱいに書くから大変だった」
結衣は週番日誌を書いただけだった。
「チョークも無くなってたから昼休みもらいに行ってきたよ」
「もういい。わかったわ。明日からちゃんとする」
「いいよ、きみは日誌を書いてくれれば。雑用は僕がするから」内村は立ち上がった。「じゃ、部活に行くから」
「明日の朝、二人で職員室に来なさいって……」そう言って結衣は急に恥ずかしくなった。男子と会話するのが久しぶりだったせいだ。
「わかった。じゃ、さよなら、神谷さん」
内村は片手を挙げて微笑んだ。結衣は「さよなら」と小さな声で言った。
結衣は脱力感で椅子に座り込んだ。
「はあ……。男子と話すの、疲れる。でも、皆川なんとかくんはどうしたんだろ……」
そのまま寝込み、部活に遅刻する結衣だった。