第4章 7 結衣の奇策
高校二年の二学期は、体育大会が終わると修学旅行が来て、またたく間に過ぎ去った。光陰矢のごとしとはよく言ったもので、どこへ向かうかわからない時間が、的外れにただ過ぎていく。
フォトブックについて、昇平からなんの感想も聞けなかった。結衣も、見たかどうか聞かなかった。
「結衣の写真? うん、飾ってるよ」
自分への思いが薄れた様子は感じなかった。スーザンのことも、二人の話題にはならない。父親のサイモンさんが言うように、気の多いスーザンなら、新しい恋人でも見つけているかもしれない。そう願う結衣だった。
秋の新人戦が始まった。
結衣たち写真部は、各部活動を担当し、練習や試合の撮影をした。結衣は、野球部を担当した。昇平の話題で、監督と部員とはすぐに打ち解けた。結衣は甲子園の二回戦から写真を撮り、試合を見ていたので、監督とよく話が合った。
新人戦は準優勝。まずまずの結果だった。
「課題は、やっぱりピッチャーなんだよ」
監督も理事長も、同じことを言った。
理事長は、「神谷くん、そろそろ行かないか?」と言った。
確かに、行ってもいい時期だ。というより、昇平に会いたい思いが募る。昇平に甲子園への気持ちを再燃させるなにかがほしい。自分が撮影した甲子園のフォトブックは、あまり効果がなかったようだ。
結衣は、毎日考え続けた。
ある日、部室の窓から野球部を見て、ふと思いついたことがあった。しかし、現実味がなかったのですぐに却下した。帰宅してからも、ある考えが頭にこびりついて離れなかった。両親に相談しようと思ったが、返ってくる答えは決まっているのでやめた。
「いい球が投げられるようになったよ」と昇平が電話で言った。「3Aで三イニング投げて、無失点に抑えた。サイモンさんが、とても喜んでる」
結衣は、昇平の復活は信じていた。それが現実になり、ホッとした。その喜びが後押しして、とうとう結衣は突拍子のない作戦を理事長に話すことにした。
結衣は、水橋を連れだって理事長を学校に訪ねた。今度は結衣と昇平の両親も同席した。昇平の両親は、十月、球団に招かれてテネシーに行ってきた。
「確かによくなっていましたよ、腕は……」昇平の父親がうれしそうに言った。
「お父さん、お母さん……」理事長は丁寧な口調で言った。「今になって言うのはなんですが、わたしどもは、内村くんに我が校に戻ってもらって、甲子園で活躍してくれることを望んでいます。それで、実は、ここにいる結衣さんと玲奈に向こうに行ってもらって、内村くんの様子を見てきてもらいました」
「そのことは、結衣さんのご両親からお聞きしてますよ」
「本当に、申し訳ありません……」理事長と校長は頭を下げた。「勝手なことをいたしまして……」
「いいんです、そのことは。結衣ちゃんとのことは私どもも知ってますし、結衣ちゃんの気持ちを考えれば、学校が留学させてくれるのならと……結衣ちゃんのご両親にしてみれば、さぞご心配だろうと思いながらも、結衣ちゃんが傍にいてくれたら、昇平もさぞ心強いだろうと思いました。結衣ちゃんのご両親には本当にご迷惑をおかけしました」
今度は昇平の両親が結衣の両親に頭を下げた。
「それで……」理事長が言った。「内村くんのご両親は、どう、お考えですか?」
「そりゃあ、親としては、昇平には帰ってきてほしいですよ。一人息子でっしね。女房がまだ子離れしてないもんですから、たまに泣いてますよ。今回の治療だって、もう野球は諦めればいいと、わたしも思ってました。そこへ、まさかアメリカから治療しましょうときたのには、正直びっくりしました」
昇平の母親は、目頭を抑えた。その様子を一瞥してから、父親は続けた。
「あちらさんは、昇平をメジャーリーガーに育てようとしてます。もし、腕が治らなくても、治療代の返還は求めないし、諸費用はすべて負担すると言ってくれています。誠意を感じたので、昇平を預ける決心をしました。もし昇平が治らなかったら、申し訳ない気持ちも出てくるだろうと思ってましたし、治ったら治ったで、球団に奉仕しなくちゃいけなくなる。そのまま、アメリカで野球をすることになる……喜んでいいんだか、よくわからない気持ちです。正直なところ……」
「昇平くんの腕は、いい方向なんですよね」校長が訊いた。
「はい。まずは、一安心です。女房は、だめになって帰ってきてくれたほうがいいと言いますが、昇平は、野球で食っていきたいんです。メジャーリーガーになれるなんて、やっぱりありがたいことですよ」
「そうですな……」理事長は腕組みをして言った。「わたしたちは、内村昇平のすごさはよくわかっておる。彼が復活する……そのことは大変うれしいことですな。本当によかった。お父さん、お母さん、私どもは、もしできるなら、内村くんの力を借りて、甲子園優勝を成し遂げたい。これは、我が校のためです。ですが、彼には、そのままメジャーリーガーになるよりも、甲子園優勝という経験が大事ではないかと思うんです」
「昇平にとっても、甲子園は小さいときからの夢なんです。腕が完全復活すれば、帰ってくると思うんですが……」
「神谷さんが、ひとつ提案したいことがあると……」校長が結衣にふった。
結衣は、みんなの視線を受け止めながら、ゆっくりと話し出した。
「アメリカに行って、昇平くんといろんな話をしました。でも、昇平くんは、すっかりアメリカに馴染んでしまって、それは、別に悪いことではないんでしょうが……わたしの知っている昇平くんとは、少し違いました。甲子園に連れていくっていう約束も忘れていて、それは正直ショックでした。恥ずかしい言い方ですが、わたしたちの恋もこれでおしまいかなって、思いました」
「わたし、知ってます。結衣ちゃん、部屋でよく泣いてました……」玲奈が口をはさんだ。
「わたしへの気持ちがなくなったわけじゃないと、わかったので、甲子園にこだわらなくてもいいかって、思ったりもしました。でも、昇平くんがケガをしたとき、今度はわたしが甲子園へ連れてってと、言いました。アニメの『タッチ』を真似して、『タッチごっこ』って二人で言ってたんですけど……わたしたちの恋は、甲子園抜きでは、やっぱり、ダメなんだって。昇平くんにもう一回甲子園を思い出してほしい。そう思って、甲子園に行って球児たちの写真を撮って、昇平くんに送りました」
結衣は、日焼けした腕を撫でた。
「最近は、昇平くん、よくメジャーリーグの話をしてます。甲子園という言葉は、出てきません。昇平くんが、治るかわからない腕を治そうと、必死にトレーニングをしているのは事実。でも、彼の傍にいても、なんにも力になってあげられない……がんばってって、言うしかないもどかしさがありました。でも、はっきりわかったんです。昇平くんに、甲子園を思い出してもらう。それがわたしのすべきことだと。『タッチごっこ』を、また始めたい。甲子園に二人で行く……これが昇平くんとわたしの恋物語なんです。すみません、みなさんには、勝手なわたしの都合で、集まっていただいたりして……」
「違いますよ、神谷さん」理事長が優しい声で言った。「みんなの思いがひとつになって、ここにこうして集まっているんじゃよ。我々大人がすべきことは、若者の健全育成なんじゃ。きみや、内村くんや、玲奈、学園の生徒たちが、義務を果たしながら青春を謳歌し、個性を伸ばす。内村くんが日本に戻り、甲子園に出ることは、国民のみなさんのためにも大切なことじゃと思う。内村くんを見て、全国の子ども、若者が影響を受けるじゃろう。つまり、健全育成につながる。神谷さん、あなただけのためじゃない。そう思って、気を楽にしてくれんか」
「ありがとう、ございます。理事長……」結衣はあふれ出た涙を拭きながら言った。
「それでだね……」校長が身を乗り出した。「神谷さんの、提案が気になるんですが……」
「はい……」結衣は咳払いをして言った。「また、テネシーに行かせてください……」
「おお! やっとその気になってくれたか。前にも言ったように、いつでもオッケイだよ。ダニエル高校にも話はしてある」
「連れて行きたい、人たちがいるんです……」結衣は、少し間を置いてから言った。
「わたしも行くわよ」玲奈が言った。
「結衣、人たちって言ったね……」結衣の父親が確かめた。
「それは、何人くらいかね?」理事長が訊いた。
「玲奈とわたしを除いて、少なくとも、十人……」
「十人!」校長が悲鳴に近い声を上げた。
理事長は、しばらく考えた様子だったが、首を振りながら言った。
「神谷さん、その十人というのは……少なくとも、と言ったね」
「野球部です。野球部を、テネシーに連れていきたいんです……」
「野球部を……」
結衣の奇想天外な提案に、一同は驚いた。結衣は、その目的と理由を話し始めた。




