第3章 4 雨の球場
退院はお盆過ぎだった。結衣が病院に行っても内村の姿はなく、母親が退院の手続きをしているところだった。沈んだ表情の母親の肩を抱いて、結衣は自宅に招いた。
居間のソファに座ってお茶を飲んだ内村の母親は、ようやく事情を話した。
「あの子の腕、再起不能……なんです」
母親は、お茶をテーブルに置いて、やがて肩を震わせた。結衣の目からは涙が流れた。結衣の母親と父親は顔を見合わせた。
「再起不能? そんな……」結衣は言った。
「医者が言うには、治療方法を検討してきたけれども、やはり難しいという結論に至ったと……」
「動かない、ということですか?」結衣の父親が訊いた。
「いえ、それは、大丈夫ということでした。ただ、ボールを投げるのは、もう……」
「それは、残念ですね……」
結衣の父親も母親も肩を落とした。
「わたしと夫は、三日前にお医者さんに言われて、まあ、仕方ないと思い直しました。動けばそれで、御の字だと……。でも、あの子、今日お医者さんに言われて、ショックを受けたようです」
結衣は立ち上がった。
「ちょっと、行ってくる……」
「ごめんね、結衣ちゃん。でも大丈夫よ。きっと立ち直ってくれると信じてるから……」
結衣はうなずいてから、家を出た。
玄関を出た途端、厚い入道雲から稲光が光った。夕立が来そうだ。結衣は傘も持たずに家を出た。
内村の行く先……二人でよく行った場所。結衣は遊園地、海浜公園を探した。郊外にある広域公園へ行くには遠かったが、可能性はあった。しかし今から向かうと、着くのは夕方になる。とりあえずバスステーションに向かってみる。バスの行く先を見て結衣は思った。(もしかしたら……)
路面電車に乗り、鶴橋方面に向かった。中央ターミナルで乗り換え、県庁行きに乗る。雲行きはさらにあやしくなり、黒い入道雲が街にのしかかっていた。やがて県営球場のナイターが見えてきた。
結衣は県営球場前で降りた。正面玄関は閉じられていた。球場への入り口がどこか開いていないか、一回りしてみる。古い球場は、コンクリートにツタがからまり、葉が生い茂っていた。携帯電話は何度もかけたが応答はなかった。歩きながら、結衣はもう一度電話をかけた。期待してはいなかったが、三回目のコールのあと、内村が出た。
「内村くん!」結衣は思わず叫んだ。「どこにいるの?」
「……結衣ちゃん」
内村の声はかすれていた。結衣は、内村が近いところにいるような気がした。
「どこにいるの? わたし、今、球場に来てるの……」
「球場? とんでもないところに来たね。外野の方の入り口が開いてるよ。センターの方……」
「わかった。今、行く……」
結衣は走った。近くで雷が鳴った。一雨来そうだ。センター外野席入り口のチェーンが外されていた。錆びた南京錠が落ちている。柵を押して中に入る。階段を駆け上がると外野席の芝生が見えた。内村を探す。
「昇平くん!」
結衣は思わず名前を呼んだ。
「結衣!」
どこからか昇平の声が聞こえた。姿は見えない。
「どこなの?」結衣も大きな声で叫んだ。
内野席で人が動いた。目を凝らして見ると昇平の歩き方だった。少しずつ近づいてくる。結衣も歩み寄った。包帯で吊った腕を見て、昇平だとわかった。
昇平は、内野席と外野席の仕切りを器用に乗り越え、ゆっくりと結衣の方に歩いてくる。県営球場の外野席は一面芝生で、湿った草いきれが立ち上る。結衣は、熱さで気を失いそうだった。
「だいじょうぶ?」昇平が近くに来て、結衣の肩を抱いた。
結衣を芝生に座らせると、水の入ったペットボトルをポケットから手渡した。
結衣は水を飲んだ。入道雲の下あたりから、時々涼しい風が吹いてきた。昇平を見上げると、恥ずかしそうに笑う少年の顔があった。頬が湿っているのがわかった。
「昇平くんは、だいじょうぶ?」
返事は、すぐにはなかった。芝生の上を歩き回りながら、昇平は何度かピッチャーマウンドを眺めた。
「来年は、ここ、外野席から応援だ……」
結衣は、昇平の右肘を見た。直角に固められた右腕。痛々しさに、結衣は思わず落涙した。
「泣くなよ……」昇平は、結衣の濡れた瞳を真正面から見た。
昇平自身が、そう自分に言い聞かせているようだった。昇平の瞳は、涙こそ出ていないが、悲しみの色で潤っていた。
「治ったら、リハビリ、がんばれば……」結衣は言った。「もしかしたら、投げられるようにならないかな?」
「医者が言ったんだ……。再起不能だって……」
「でも、可能性がないわけじゃない……」
「いいよ、慰めてくれなくても。僕は立ち直ってみせるから。僕にできること、他にないか、探してみるよ。そうだ、僕も写真部に入ろうかな。結衣とおんなじ……」
「そうだね。いつも一緒にいられるね……」
二人は顔を見合わせて笑ったが、やるせない思いを共有しただけだった。黒い入道雲が上空をすっかり覆い、二人にのしかかった。
「帰ろうか、雨が降りそうだよ」結衣は立ち上がった。
昇平が倒れたかと思ったが、そうではなかった。気がつくと、結衣は昇平の腕のなかにいた。昇平の体温が胸から伝わった。
「腕、大丈夫?」そう言って、結衣は昇平の腰に腕を回した。
結衣の肩に顔をうずめた昇平は、苦しそうに喘いだ。
「ごめん、甲子園に連れていけなくなった……」
「可能性、きっと、あるよ……まだ一年生だし。諦めないで、ね……」
「甲子園出場を決めて、結衣とキスしたかった……」
結衣は、昇平の胸に顔をうずめた。
「……甲子園に行かなくても、して、いいよ……」
雷が鳴る。生ぬるい雨が二人の肩を濡らした。
気がつくと二人は見つめ合っていた。二人の思いを煽るかのように雨脚は強くなった。
結衣は目を閉じた。雨が額や瞼や頬に当たる。昇平の顔が動いたが、口に触れるのは雨ばかりだった。結衣がたまりかねて目を開けると、昇平は俯いていた。
稲光のあと雷鳴が轟いた。
「やっぱり、できないよ」昇平は言った。「僕には、そんな資格はない……」
「資格なんて……好きなんだから、それでいいじゃない……」
「キスしても、楽しい気分にはなれない。なんだか、どんどん、気分が沈んでいきそうなんだ……」
「昇平くん……」
結衣は昇平を抱きしめた。
昇平は、結衣の腕をほどき、出口に向かって歩き出した。
「帰ろう……」
雷が近くに落ちた。結衣は思わず悲鳴を上げた。遠ざかる昇平の背中を追いかけようとしたが、なぜか足が動かなかった。昇平の後ろポケットから雑誌が落ちた。結衣が拾ってみると、それは結衣が表紙を飾った『写女』だった。表紙は雨に打たれ、瞬く間に色が褪せていった。




