第3章 3 病院にて
内村昇平は病院の窓から空を見上げた。
「入道雲だ……」
『入道』はお坊さんという意味で、坊主頭からの連想で入道雲というのだと、そんなどうでもいいことを結衣は思い出した。
「カーテン、閉めようか。陽が差してきたし」結衣は言った。
「いいよ、そのままで。もう少し、見ていたいから……」
二人は病室から見える入道雲を見ていた。お餅がふくらむように、もくもくとわき出す入道雲。じっと見ていると、大きく成長していくのがよくわかる。それと対照的に、どこかしぼんでいくものが、二人の中にあった。まるで二人の希望を吸い上げて、入道雲が成長しているように見えた。
内村の右腕には、強固にギブスがしてある。結衣はそれを見る度に、ギブスが内村の腕にかみついているように見えた。
「もうすぐ二週間だね……」結衣は言った。
「三週間で退院だから、もう少しの辛抱だ」内村は力なく笑った。
今日から夏の甲子園大会が始まった。県代表の英明館高校は三日目、第二試合で登場する。テレビをつければ、甲子園の歓声が聞こえてくるはずだ。
県大会の決勝戦。右肘に打球を受けた内村の後を三年生が継投し、八回をツーアウトまでこぎつけたものの、一塁ランナーの松井が二塁へ盗塁。そしてセンター前にヒットを打たれ、一点を取られた。内村が病院へ運ばれた動揺がナインに広がり、それを引きずったまま決勝戦は終わった。結局その一点が決勝点となった。
内村は時々顔をしかめる。結衣があまり見たことのない内村の顔だった。あの決勝戦のことを思い出しているのかもしれない。右肘が痛むのかもしれない。内村が顔をしかめるたびに、結衣の胸も痛んだ。
内村は、時々左手で雑誌を手に取り、表紙に見入った。
「ほんとにすごいね。すごくかわいいよ、結衣ちゃん……」
『写女』の八月号が結衣の元に届いた。父親は、三十冊ほど本屋で買い占めた。そのうちの一冊を内村に渡した。
「ニキビとか、レタッチで消してるから。肌の色も調整してるしね」
結衣は、そう言って内村から雑誌を取った。
「返してよ。まだ見たいからさ」内村はだだっ子のように体を揺すった。
三日後に病室に行くと、野球部のキャプテンをはじめ、ナインの殆どが見舞いに来ていた。
「あんまり大勢だと迷惑だからな」とキャプテンの大場が言った。「あのとき守ってた八人で来た。みんな行きたがってたんだけど、止めといた」
大場キャプテンは、内村と結衣の両方を見ながら言った。
「結衣ちゃん、見たよ『写女』」キャッチャーの斉藤が言った。
「かわいいよねーほんとに」
「将来はタレントになれるんでないかい?」
ナインが口々に言う。
「やめてください。恥ずかしいです」
結衣は雑誌を隠そうとしたが、内村が素早く手にとって先輩に見せた。
「おっ! これこれ」
ナインは雑誌を交互に手に取った。
「あと四日で退院だろ」大場キャプテンが言った。「まだ痛むか?」
「いいえ。だいぶ、もう……」
「内村、テレビ付けていいか? 英明館、みんなで応援しないか?」
内村は大きくうなずいた。結衣はテレビを付けた。甲子園の音が一気に病室に流れ込んだ。隣のベッドは空いていたが、音を小さく絞った。空いたベッドは部員の椅子になった。「始まったばっかりだ」ある先輩が言った。
ホームに駆け寄る両チームの選手が見えた。
「先攻だったよな、英明館……」
実は、甲子園を見るのは今日が初めてだとみんな言った。
「見るなら、九人で見ようかって、そういう話になってな」大場キャプテンが言った。
「ひとりじゃ、見る気になんなくてなあ」
「みんなで見れば、怖くない!」
笑い声が起こった。
あと少しのチャンスで、あの場所に自分たちはいた。甲子園への切符がラストチャンスだった三年生にとっては、断腸の思いだろう。結衣は思わず涙ぐんだ。先輩のどの顔も、涙を必死でこらえているように見えた。英明館へ声援を送ることで、その涙を抑えているようだった。二回の表、松井がバッターボックスに立った。内村に動揺する様子は見られなかった。
英明館は三回にチャンスを作った。ツーアウト満塁。バッターは九番。サードゴロだったが三塁手が失策。一点が入った。病室から歓声が上がったので、看護師が注意した。内村の母親が現れて、結衣を呼んだ。部員のためにジュースとパンを買い出しに行こうと言う。部員たちがそのジュースとパンを口にするころは、回はもう六回まで進んでいた。英明館は三対一でリードされている。九回表。ランナー一塁で松井がバッターボックスに立った。
松井は、内村が入院した翌日にはもう見舞いに来た。監督と一緒だった。謝る松井に、ぼくの分までがんばってください、と内村は言った。
「ケガをするのも嫌だけど、ケガをさせるのもきついもんだぜ」大場キャプテンが言った。「松井、おまえにケガさせたから調子を落としてさ。レギュラー、外してくれって、監督さんに言ったらしいよ」
「ほんとか、それ」ある先輩が言った。
「そう言えば、おかしいよな。バットの振り。ぜんぜん振れてない」
「今日も三三振だよ」
内村は、バッターボックスに入る松井を見た。確かに、松井の打ったボールで自分はケガをした。でも、それは松井さんのせいじゃない。
「打ってくれ……松井さん」内村はそうつぶやいた。
やがて病室に小さな声で松井コールが響いた。その、小さな松井コールが大きな歓声に変わった。
【打ったあ、松井。これは大きい……もうレフトもあきらめた】
テレビの実況が聞こえる。病室は騒然となった。三対三の同点。看護師にまた怒られた。
「俺たち、もう帰るわ……」大場キャプテンが言った。
三年生が突然立ち上がった。
「キャプテン、試合はまだ……」内村が言った。
「いいんだよ。もう。安心して帰れる。おまえも、ふっきれたようだしな……」
「おれたちも、ふっきれたよ」キャッチャーの斉藤が言った。「おまえのおかげで、いい夢が見れた。甲子園には行けなかったけど、いい思い出になったよ」
「先輩……」
「もう少し、おまえの球を受けたかったけどな」
「俺たちじゃ、甲子園無理かもなって、思ってた。でも、おまえがうちに来てくれて、もしかしたらって、思った。甲子園、行けるかも知れない……あの決勝戦、おまえがケガをしなきゃ、行けたような気がする。でも、おまえにおんぶにだっこじゃな、だめな先輩だよ。おまえがケガをした動揺もあったけど、決勝戦は、おまえのためにも、勝ちたかった……」
最後の声は、涙声だった。
「キャプテン……」内村は思わずベッドから降りた。
「いいんだ。そのままで。寝てろよ」
「ぼくの、力じゃ、ありません」内村は言った。「頼りになる先輩方がいるから、安心して投げることができたんです。斉藤先輩は、大きい体でどっしり構えて、ボールを受けてくれたし、桐生先輩はファインプレーで助けてくれたじゃないですか……」
すすり泣く先輩もいた。
「一年だからって、文句を言う先輩はひとりもいなくて、のびのびやらせてもらいました。決勝に行けただけでも、すごいと思ってます。ありがとうございました」
内村は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました!」
三年生は、全員整列して頭を下げた。看護師はもう注意にはこなかった。来ると思った看護師が来ないので、みんな笑った。
「みなさん、写真、撮りませんか?」結衣がカメラを見せて言った。
全員ベッドに集まった。
「甲子園に行き損なった、栄翔高校野球部」と誰かが言った。
みんなが笑ったところで、結衣はシャッターを切った。
中央で笑う内村を見て、結衣は先輩たちへの感謝の気持ちでいっぱいになった。
テレビから歓声が聞こえた。九回の裏、相手チームのサヨナラだった。英明館高校は敗退した。
「じゃあな。内村……」
先輩たちはひとりひとり握手をして出て行った。
「来年は、応援に行くぞ。甲子園に……」
「プロで会おうぜ。内村」そう言ったのは斉藤先輩だった。
大場キャプテンは熱い手で内村の手を握った。
「おまえが将来有名になっても、俺たちのことを忘れないでくれ」
「はいっ!」
内村は涙を拭いて言った。
まもなく、病院の外から賑やかな声が聞こえた。内村と結衣は窓から手を振った。どの先輩も笑顔を内村に向けていた。その笑顔に元気をもらって、内村は復活するはずだったのだが……。




