第3章 1 マイナーリーグが注目する人物
ジョン・ハリスンは携帯電話を取った。
バーの客は少なかったので、カウンターに肘を突きながら「ハロー」と言った。
「やあ、ジョン」と相手は言った。「いつものところかい?」
ジョンは、バーの鏡に映った自分を見て、薄くなった頭を撫でた。
「いつものところって、どこだい?」ジョンは言った。
「テネシーで最も落ちぶれたバーのカウンターさ」
「当たりだが、マスターのモーガンが怒るぜ」
「おまえさんだって怒られる。『当たり』って言ったからな。俺なら、『テネシーで一番トイレのきれいなバーにいる』って答える」
二人はそこで笑った。
「サイモン……どうだい、ジャパンは?」ジョンは訊いた。
「サイコーだね。昨日ツキジで食べたスシがデリシャスだったよ」
「やっぱりワサビは抜いたんだろうな」
「それが、言い忘れてな、ワサビ入りを食べちまった。鼻から火が出たよ。でも、楽しかったよ。周りのジャパニーズにウケたんでな」
「ところでサイモン。こっちは夜中だが、なにかあったのかい?」
ジョンはバーテンに人差し指を立てた。バーテンはうなずく。
「夜中? じゃあ、マスターはもう帰ったかい? ジョンも飲み過ぎないようにしないと、髪の毛に響くぜ」
「もう、諦めてるさ」
ジョンはもう一度、鏡に映った自分の頭を見た。バーテンがジョンの前にツーフィンガーのグラスを置いた。
「サイモン、スカウトなんか適当にして、いい育毛剤でも探してくれないか?」
サイモンの笑い声が聞こえた。
「ジョン、ちょうど今ドラッグストアの前にいるんだ。早速探してみるよ。トウキョウにはドラッグストアがいっぱいあるからな。その、スカウトの話だが、ひとつ頼みたいことがある……」
「ビジネスなら、酔ってないときにお願いしたいね」
「酔っているときの方が、頼みやすいのさ。明日、ある日本人投手のレントゲン写真を送る」
「サイモン、きみのところの球団は、ケガ人をスカウトする気なのか?」
「するかどうか、わからない。きみの意見次第なんだ。レントゲンを見て、治る見込みがあるかどうかを、まず教えてくれ」
「レントゲン一枚で?」
「そうだ……」
「どこの写真だ?」
「右肘だ……」
ジョンはバーボンのグラスを飲み干した。氷の音が響いた。ジョンはもう一回、バーテンに人差し指を立てた。
「レントゲン一枚では、難しいね、サイモン」
「正しく言えば、レントゲン写真のコピーだ。ジョン、所見でいいんだ」
「一体だれだい? そのピッチャー」
「スズキ・イチロー、とでも言っておこう。日本人は、みんな似たような名前だ」
「わかった。酔いが回っていい気分になったんで、引き受けよう」
「報酬は、帰ってから、バーボン二杯でどうだ」
「いいや、ボトルキープだ。ジャックダニエル」
「オッケイ。写真データをきみのオフィスのパソコンに送信する。夕方までには連絡をくれ」
「サイモン、どっちの夕方だ?」
「我が故郷の夕方で大丈夫。じゃあ、ジョン。今からドラッグストアに行ってくるよ」
電話が切れた。
ジョン・ハリスンは立ち上がった。バーテンにお金を渡すと外に出た。半月を見上げてため息をつく。
日本人投手のレントゲン写真を見る。明日の仕事はそれだけだった。
ジョン・ハリスンのオフィスはマーブル街にあった。レントゲン写真のデータは、ジョンが目覚めた十時過ぎには届いていた。殆どつけっぱなしのパソコン画面には、サイモンからのメール着信が確認できた。
結局自宅には帰らず、自宅よりも近いオフィスのソファに寝たジョンは、十一時に仕事に取りかかればよい身分だった。インスタントコーヒーをカップに入れ、形のゆがんだポットから湯を注ぐ。
MLB―メジャー・リーグ・ベースボール。その下の下、「3A」に籍を置く、シアトル・マリナーズ傘下のシカゴ・ベンチャーズ。ジョンは、シカゴ・ベンチャーズの専属医師だった。専属医師といっても「3A」のレベルと同じで、給料は安く、仕事も少なかった。大学からの友人サイモンは、シアトル・マリナーズ傘下のコロラド・ファイヤーズのスカウトをしている。
ジョンは、メールに添付されたレントゲン写真を開いた。右肘の骨が砕かれ、血が筋肉に滲んだ無残な写真だった。ジョンは思わず顔をゆがめた。写真の上下部分に写真の主の名前がある。
「ウチムラ、ショヘイ……」ジョンは読みにくそうに読んだ。
驚いたのは、年齢だった。
「フィフティーン?」
ジョンはコーヒーを啜りながら考えた。
(サイモンは高校三年生のスカウトにいったはずだ。十五歳の少年というのは、どういうことだろう?)
もちろん、実際に日本に行ってみると、情報によって予定変更もあり得るだろう。ジョンは骨折部分を拡大し、依頼された骨折の状況を分析した。
「テリブル! ひどいな……」
サイモンの依頼への回答は「ノー」だった。しかし、それでは自分の仕事は終わる。いい方法はないものか、ジョンは考えた。
「しばらくは禁酒するか……」
コーヒーをごくりと飲んでから、つぶやいた。




