第2章 4 甲子園目前、そして…
梅雨が明けると太陽の日差しは熱さを増し、夏の到来を宣言するかのようにひまわりが風に揺れる。
夏の全国高校野球選手権大会。夏を彩る風物詩として、国民にはなくてはならないビッグイベントだ。県予選が7月から始まり、熱戦が全国各地で一ヶ月あまり繰り広げられる。
弘稜県では九十六校の高校が甲子園を目指す。私立英明館高校が甲子園出場最多で、常連校だ。最近では公立高校が強く、六波羅工業や進学校の釜生高校がシードに入った。
栄翔高校はベストエイトの常連校で、昨年度初めて決勝に進んだ。三年生のエース原口の活躍だった。今年度は二・三年生にエースが不在で、一年生の内村に期待が寄せられた。
県内の野球界では、栄翔高校が甲子園に行くにしても、内村が二年か三年生のときだろうと予想した。
栄翔高校野球部、西監督は、内村を合宿でたらふくご飯を食べさせ、徹底して走らせ、高校生の体作りをしてきた。内村の活躍次第で甲子園も夢ではないと考えた。内村が活躍するか否かは精神力も課題だった。ただ、内村には結衣という支えができた。甲子園に連れて行くという目標ができた。この目標が内村の精神を浄化させ、安定させた。
西監督は、県予選までに練習試合を五試合組み、内村を先発させた。どの試合も五回まで投げさせ、リリーフを二年、クローザーに三年生を使った。五試合全勝。監督は、一年生ピッチャーを県予選で先発させることを決心した。
【内村昇平、県予選先発デビュー】
地元新聞はもちろん、スポーツ新聞にも注目選手として掲載された。栄翔高校野球部グランドには、プロスカウトやマスコミが姿を見せるようになった。
「すごい人だったんだね、内村くん」結衣は電話で言った。
「自分でも最近気づいたよ」
内村の声が、結衣には以前と違って聞こえた。
七月三日。県予選開幕。
栄翔高校はシードで二回戦から、八日目第三試合だった。マスコミ効果もあってか、県立球場には観客が一万人入った。そのなかには、結衣の母親と内村の母親の姿があった。双方あいさつを交わし、打ち解けた様子だった。
結衣は、栄翔高校の教室からエールを送った。全校応援は準決勝からだった。仮病を使って応援に行くことも考えたが、離れたところから応援するのも悪くないと思い直した。準決勝まで勝ち進むと信じた。
試合が始まった。試合の様子は母親がメールで教えてくれた。
内村は先頭打者ホームランを打たれた。しかし、その後は立ち直り、五回を失点一で抑えた。味方打線は十一安打の猛攻。盗塁など機動力をからませ七点を挙げた。六回から二年生投手がリリーフ、二失点。九回を三年生投手がピシャリと閉めた。勝利の方程式が確立された。
三回戦は、NHD杯でベストフォーに残った釜生高校。一回目の修羅場だった。ここに勝てば甲子園は大分見えてくる。
内村は三回まで無失点に抑えたが、四回につかまり二失点。五回は三三振で閉めた。味方打線は、相手投手の変化球を打ちあぐね、六回まで無得点。七回に漸く犠牲フライで一点を返した。二年生リリーフ投手が相手打線を抑え、九回まで投げた。後攻の栄翔高校、九回裏の攻撃。一点差を追う展開。先頭打者の三番がセンターフライに倒れ、ワンアウト。四番の太田がレフト前ヒットで出塁。五番は送りバントを決めた。ツーアウトランナー二塁。ワンヒットで同点をねらう作戦だ。バッターは内村。
五月から始まった合宿から二ヶ月あまり。大食と走り込みで、内村の筋力はかなりアップしていた。打席に入った姿は、とても一年生とは思えない体格に成長していた。投球練習が主だったために、バッティング練習は殆どできなかった内村。監督は、ライト前ヒット、あわよくば右中間を抜ける二塁打を期待し、ライト方向への打球を指示した。カウントはノーツウ。内村は三球目をフルスイング。監督の期待を見事に裏切る打球は、ライト方向ではなくレフト方向に飛び、外野手をフェンスに追いやった。一瞬の間を置いて、外野手はスタンドを仰ぐ。ボールがスタンド席に入ると、大きな拍手がわき上がった。
逆転サヨナラホームラン。栄翔高校スタンドは沸きに沸いた。内村の母親と結衣の母親は抱き合って喜ぶ。
「内村は、やっぱりなにか持っている」
だれもがそう信じた。結衣は、内村のホームランは見られなかったが、母から話を聞いて、想像して喜んだ。
釜生高校に逆転サヨナラで勝利したことで、栄翔高校は波に乗った。準々決勝、準決勝は難なく勝ち、決勝進出を決めた。
決勝の相手は英明館高校。何度も甲子園を経験している名門だ。
「さて、二回目の修羅場だ」と監督は選手に言った。「相手打線をどれだけ抑えられるか。内村にも疲れがきてる。二、三年生は打線で援護してくれ」
「はいっ!」
「僕は疲れていませんっ!」内村が叫んだ。
みんな笑った。
決勝は七月二十八日火曜日。その二日前の日曜日、午後から部員に外出が許された。
内村は結衣に電話をかけ、海浜公園で会うことにした。
「午後から外出できたんだけど、少し寝ちゃったよ……」
海岸を歩きながら内村が言った。結衣は少し遅れて歩いた。
「いいのよ。ゆっくり休んで……」
「こっちおいでよ、手をつなご……」
結衣は内村に駆け寄った。内村はすぐに結衣の手をつかんだ。右ポケットから硬式ボールを取りだした。ボールには大きく【甲子園!】の文字。
「いよいよだね……」結衣は言った。
「甲子園は、もう大丈夫だよ。目標は、全国制覇!」
「大きくでたねえ。でも、内村くんならやりかねないかも……」
突然内村が結衣を抱きしめた。大きな内村の体に、結衣の小さな体はすっぽりと隠れた。
「キス、したい?」結衣が訊いた。
「うーん。どうしよ」内村の声は上ずっている。「優勝した後でいいかな……。今はこうやって、抱きしめるだけで……」
「やっぱり、まだ恥ずかしいね……」
「甲子園を決めた勢いで、ブチューっていかしてもらうよ」
二人はまた歩き出した。海風はすっかり夏の匂いだった。
決勝前日の月曜日。野球部は朝から練習、午後はミーティングを開いた。午後三時に体育館で壮行会が開かれ、来賓、保護者も来校した。その模様は水橋怜奈の他、結衣もカメラで撮影した。結衣が撮影に回されたのは、内村との交際を知った、まどか部長の配慮だった。
壮行会が五時に終わると、写真部はミーティングを開いた。三年生はビデオカメラ三台で、公式記録の撮影を担当した。三台をバックネット側、内野スタンド、外野スタンドに据えて撮影する。写真撮影は水橋怜奈と結衣、二年生の武田、古野が担当、あとはサポートに回る。
決勝の朝、結衣は内村にメールを送った。
〔甲子園、来年でもいいよ。無理しないで〕
内村からの返事には、決意が表れていた。
〔この夏、きみを甲子園に連れてく〕
野球部は、いつものように早起きをして、高校周辺のゴミ拾いや、空き缶拾いなどのボランティアを行った。
監督は常々選手に言っている。
「技術や技能だけで勝てる訳じゃない。球場の女神様に微笑んでもらわんと、勝てん。いいか、球場には必ず女神様がいる。女神様に微笑んでもらえるように、いいことをしよう。ボランティアを一生懸命やれば、女神様はきっと喜んでくれる。そして勝負に勝たしてくれる」
もはや精神力の勝負。勝利を信じて選手同士の絆が深まれば、持っている力を発揮できる。栄翔高校ナインは県立球場に向かった。
結衣たち全校生徒は十二時にバスで球場入りした。写真部は早速位置取りに入り、水橋玲奈は報道陣と同じカメラブースに入ることが許された。結衣は栄翔高校三塁側スタンドにカメラを構えた。カメラブースはマウンドとほぼ同じ高さになる。ピッチャーの顔をアンダーから撮ることができる。スタンドは位置が高いうえに、マウンドから遠い。結衣は、カメラ位置が少しでも低くなるように、三脚を一番低い位置にセットした。結衣はタオルを敷いて、正座をした。肩をトントンと叩かれて振り向くとまどか部長が立っている。
「結衣ちゃん、カメラを持ってついてきて……」
応援団の声援が大きくなり、声はとぎれとぎれに聞こえた。結衣はカメラと三脚を抱えて、まどか部長の後に従った。そこへ、栄翔高校野球部が入場した。結衣は内村の姿を認めた。
通路に出たとき、まどか部長は言った。
「あなたもカメラブースに入って」
「いいんですか?」
「デイリータイムズのカメラマン、うちの先輩なの。さっき水橋さんの様子見に言ったらスペース空いてるから、お願いしてみたの」
「ありがとうございます」
「あなたのカレが内村くんって知ってたら、最初からあなたを野球部専属にしたのに……なんで希望しなかったの?」
「へへ。照れ、ですかね」
カメラブースに初めて入る。「じゃあ、しっかりね」とまどか部長は言って扉を閉めた。
入ると、プロのカメラマンが五人いる。憧れのカメラが数台あった。結衣は思わずカメラに見とれた。そんな結衣を、水橋は、冷たい視線で見ていたが、「神谷さん、こっち」と声をかけた。
「水橋さん、わたしも入っていいって。よろしくね……」
「神谷さん、わたしと勝負してくれないかな?」
「なんの勝負?」
「簡単よ。この試合のワンショットをお互い新聞部に出すの。どっちが採用されるかで勝負するの……」
「なんのための、勝負なの?」
「内村昇平よ……」
結衣は、撮影の準備をする手を止め、水橋の瞳を見返した。
「もしわたしの写真が採用されたら、内村昇平を諦めてくれない?」
結衣が予想した言葉だった。
「野球部専属カメラマンは水橋さんよ。だからあなたの写真が採用されるべき。こんな勝負で、内村くんの取り合いなんてしたくない」
「逃げるの?」
「そうじゃない。わたしたちの間に……あなたが入り込む余地はない……から」
「言うじゃない。肉体関係も、だいぶ進んだわけ? まだキスもしてないくせに」
歓声が一際大きくなった。双方の選手が出そろい、守備練習を始めた。結衣はカメラのセッティングを急いだ。既にセッティングを終えた水橋は、選手に向けてシャッターを切った。寺院撮影のフォトバトルで五位に入った自信が、撮影態度に表れていた。
試合開始は午後一時丁度。栄翔高校側スタンドには結衣と内村の両親の姿があった。父親同士は初めての対面だった。
プロのカメラマンにあいさつをした結衣は、先輩のデイリータイムズ、伊達さんと話をした。伊達さんのカメラをさわらしてもらい、少し興奮する結衣だった。
審判の声が聞こえた。両サイドから選手が飛び出た。そのときから結衣は集中した。試合前の内村の表情をとらえた。結衣も水橋も、平均して十秒に一回はシャッターを押した。栄翔高校は後攻。内村がマウンドに上った。投球フォームを連写で撮り、絞りやシャッタースピードを調整する。
結衣と水橋は、お互いに存在を意識しないようにした。
サイレンが球場にこだまする。内村はゆっくりと振りかぶり、一球目を投じた。
「ストライク!」
審判の声がよく聞こえた。
「神谷さん、守備についた全員を撮ってくれない?」
水橋が結衣に指示を出した。結衣のレンズを内村から外そうとする魂胆だとすぐにわかった。結衣は黙って従った。水橋のカメラはCANONのEOS―AR2000。高校生にはもったいないカメラだ。
(勝負したら、負けるかもしれない……)そんな不安はある。
結衣も負けず嫌いなところはある。水橋の誘いに乗らなくてよかったと安堵した。
内村はテンポよく投げ、先頭バッターを三振に討ち取った。大きな歓声が沸き上がった。さすがに決勝だと結衣は思った。
(カレなんて作る気は全くなかったのに、こんなにすごい人がカレシなんて……)
内村は二人目も三振に封じた。英明館高校は昨年の覇者だ。甲子園経験者も六人いる。それを相手に、高校一年生が堂々としたピッチングを見せている。三者連続三振に、三塁側スタンドは沸き立った。結衣の横にいるプロのカメラマンも感嘆の声を挙げる。
水橋は、ベンチに帰ってくる内村に手を叩いて声をかけた。その声に気づいた内村は、水橋の横の結衣に気づき、小さく手を振った。結衣がそれに応えて、ふと横を見ると、水橋も手を振っている。
一回の裏、栄翔高校も無得点。二回のマウンドに内村は立った。英明館高校四番は今大会屈指のスラッガー、松井。ファールで粘られたがレフトフライに討ち取った。五番、六番は連続三振。二回までに三振を五つ取った。
二回の裏は内村の第一打席が回ってくる。
「神谷さん、わたし、一塁側に行くから」と水橋が言った。
内村が右打ちだからだ。
「いいけど……」
水橋は、三塁側と一塁側を何度も行き来するつもりだろうか、と結衣は思った。
「神谷さん、勝負はさ、フォトバトルの順位で決めない?」
水橋は、また勝負をしかけてきた。
「いいよ」と結衣は言った。「勝負しても」
結衣は、写真の勝ち負けなんかで、内村との仲が壊れるなんて有り得ないと思った。恋愛は、心の問題なんだからと。
「わたしが勝ったら、内村くんから手を引いて」水橋はカメラを抱えながら言った。
「わかったわ。ただし、一ヶ月だけ。その間だけ、あなたにチャンスをあげる。今の状況、あなたとわたしは対等じゃないわ。そうでしょう?」
結衣の言葉に、水橋は黙って唇をかんだ。やがて、ゆっくりうなずくと、カメラブースを出て行った。
試合は投手戦だった。内村に刺激されたのか、英明館高校のピッチャーも好投を続けた。内村は五回まで十三奪三振。五九球の投球数だった。六回から二年生リリーフのパターンだったが、内村の状態を見た監督は続投を判断。行けるところまで行くことにした。
水橋は一塁側カメラブースから戻ってこなかった。結衣を避けたのかも知れない。それはそれで気が楽だった。結衣はプロのカメラマンと打ち解けて、カメラ談義に花を咲かせていた。カメラマンはスポーツ競技の撮り方を教えてくれた。
結衣は、内村の投球フォームを美しいと思った。カメラマンもそう言っていた。六回からは、内村の投球フォームの撮影に専念した。絞りを幾度も調整し、色合いを調整。シャッター速度も変えてみた。
試合は両者無得点のまま八回まできた。マウンドからベンチに帰るたびに結衣に笑顔を送る。結衣も笑みを返す。結衣が内村にパワーを与えているのは間違いなかった。内村は十六奪三振。ノーヒットノーランさえ期待できる。
八回のマウンドに向かう背番号十一の、十の数字は必要なかった。一年生エースは、落ち着いた表情で先輩キャッチャーのサインを伺った。バッターは英明館高校四番の松井。前の打席は三振に打ち取っているが油断できない相手だ。内村の速球は衰えていない。まだキレがあった。ただ、内村は、多少の疲れをこめかみあたりに感じた。
結衣は、確かに才能に恵まれていた。太陽の反射が内村の表情をよく照らしてくれた。結衣は四番打者との対決をカメラに収めることにした。
内村が振りかぶる。この動作が始まるとき、結衣の心臓が高鳴る。両手が左右に大きく開かれ、まるで羽を広げた鳥に見える。上げた左足はバランスをとりながらゆっくりと地面に張り付く。左手は高く空を突き上げ、大きく回転した右手と素早く入れ替わり、その直後、右手から放たれる弾丸のような白球。
初球はボール。外角に外れた。バッターの松井はバッターボックスから外れて素振りをする。ベンチからのサインはない。松井がここで打たなければ、次の九回に打席は回ってこない。英明館高校の監督も、ナインも、松井のバットに期待を掛けていた。松井はベンチを振り返り、ナインの思いを受け取った。バッターボックスにゆっくり入る松井。高々と上げるバットに、四番らしい風格が漂っている。プロのカメラマンたちもファインダーにまぶたを押しつけ、シャッター音を響かせる。
内村は、構えた松井と目が合うと、にらみつけ、ゆっくりと投球モーションに入った。ボールはストレート、放たれた矢のように宙を切り裂いた。ファウル。ボールはバットをかすり、バックネットに跳ね返った。キャッチャーの斉藤は、タイミングが合ったことで、内村に縦に落ちるカーブを要求。僅かに低く、カウントはワンストライク・ツーボール。甘いボールは松井に打たれる。四球目は思い切ってインコースを攻める。松井はボールを捉えた。大飛球を上げるがレフトへのファウル。スタンドが大きくどよめく。ツーストライクツーボール。五球目のカーブはワンバウンドになったが、松井は微動だにせず。
大一番の勝負にふさわしく、フルカウントになった。
キャッチャーの斉藤は、ストレートを狙っている松井に対して、なかなか決まらないカーブで勝負しようと考えた。斉藤のサインに首を横に振る内村。内村が先輩の出すサインに首を振るのは初めてだ。斉藤は次にチェンジアップのサインを出す。これにも納得しない内村。
(ストレート勝負か……)斉藤はつぶやいた。(いいだろ、それなら外角ぎりぎりだ)
目で内村にそう伝え、ベースの外角寄りに体を寄せる斉藤。監督を見ると、うなずいているように見えた。
(コントロールが、少し危なくなってきてるがなあ……)斉藤は思った。(だけど、内村は只者じゃないから)
さあ、思い切って投げろ、と言わんばかりにミットを揺さぶる斉藤。冷たい汗が背中に流れるのを感じた。
内村は、マスクの奥に光る斉藤の瞳をしっかり認めた。松井は、石像のようにがっちり構え、帽子の陰で暗くなった顔から、力のみなぎった視線を内村に向けた。内村はその視線を受け取ると、ゆっくりと振りかぶった。
結衣は、カメラと一体となった気がした。確実に勝負が決まるツーストライク・ツーボール。内村が四番バッターの松井を討ち取る瞬間を待った。投球モーションに入った内村の体を、カメラのシャッターは時間で刻んでいく。カメラブースに乾いた機械音が続けざまに響いた。内村を撮るカメラもあれば、松井をねらうカメラもあった。結衣のカメラは、内村が投げ終えるまでを捉えていた。ボールを右手から放ったあとの内村の表情は、いつか元徳寺で見た御本尊の顔によく似ていた。
結衣が、シャッターを押す手を離そうとした、その瞬間、苦痛に顔をゆがめる内村の映像がファインダーに飛び込んできた。結衣は、カメラから目を離し、マウンドの内村に視線を投げた。内村の姿は消えていた。砂が舞うマウンドに倒れている。球場から悲鳴が聞こえた。そのあとに、結衣自身も悲鳴をあげた。内村は苦痛に顔をゆがめ、腕を抱えている。
打った松井は一塁ベースにたどり着いた。サードは内村から転がったボールを拾ったが、投げることはできなかった。監督やナインが飛び出した。審判は両手を左右に振り、タイムを宣言した。だれの動きも不自然だった。プロのカメラマンはシャッターを切った。
結衣は、再生ボタンを押し、画像で何が起こったか確認しようとした。
投げ終わったあとの内村を捉えた最後の写真に、内村の右肘を直撃する打球の線が見えた。直撃した打球が、肘から落下する画像もあった。
内村の傍に駆け寄りたい衝動を辛うじて抑え、結衣はマウンドを見守る。プロのカメラマンたちもざわめいていた。数人はマウンドに飛び出した。やがて担架が運ばれ、内村がその上の人となった。結衣は知らず知らずにうちに涙があふれていた。
「結衣ちゃん!」
まどか先輩がカメラブースに駆け込んで、結衣の肩を揺すった。
「大丈夫です。先輩……」結衣はつぶやいた。
「行ってみよう、医務室」
結衣の手を取ってまどか先輩は廊下に出た。医務室がどこかわからない二人の耳に、やがてサイレンの音が聞こえた。球場の医務室前にある救急用の扉が開かれ、救急車が誘導された。医務室の中に、内村の両親の背中が見えた。そして苦痛にゆがむ内村の顔。多くの人が集まってきて、山を築き、結衣の目から内村を奪った。いつのまにか結衣の傍に両親も来ていた。母親は、娘の涙を拭いた。
ざわめきのあと、人の山は崩され、その合間を担架が舟のように流れた。結衣は内村に声を掛けた。内村は手を差し伸べた。苦痛にゆがんだ顔から、かすかに光る瞳を見せ、涙をにじませた。結衣は内村の手を取ろうと動いたが、内村の手に触れるまえに倒れた。倒れる結衣を辛うじて支えたのは水橋だった。
「結衣ちゃん、結衣ちゃん」
母親とまどか部長が結衣の名を呼んだが、結衣の返事はなく、父親が医務室に運んだ。
母親は娘に付き添った。まどか部長は試合に戻った。
父親は、結衣のカメラを手に取り、撮影した写真を再生した。そのなかの一枚。内村の右肘をボールが直撃した写真に見入った。
「さすが……わが娘だ……」とつぶやいた。「こんな瞬間をしっかり捉えてる」
しばらくすると歓声が聞こえてきた。つづいて場内アナウンス。
【ご覧のように、英明館高校が勝利しました】
そのアナウンスが結衣の耳に届いたのか、結衣の目から大粒の涙が落ちた。
「内村くん……」
結衣は遠ざかる意識のなかでつぶやいた。




