第2章 2 初デートがまた大変です
ぽかぽかの日曜日。
結衣の初デートを祝うかのように、お日様は朝六時半に元気よく顔を出した。
部屋ではすぐれない表情の結衣だったが、一階に下りると笑顔を作った。結衣は、内村のリクエストでサンドイッチを作った。母親がだいぶ手伝った。
デートスポットといえば遊園地だが、人目があるので避けた。佐和子や栞がついてくるとも限らない。二人には、デートは遊園地だと伝えた。
結衣と内村はバスステーションで待ち合わせた。国立の広域公園へバスで向かう。
「二人になるの、久しぶりだね」と内村はバスの中で言った。
週番以来だと、結衣もうなずいた。
「急に部活が忙しくなったしね」
二人とも、週番での仕事を思い出していた。二人で黒板を消したり、床を箒で掃いたりした放課後。
「初勝利おめでとう!」結衣は笑って言った。
恥ずかしさで内村をまともに見ていない。内村はしきりに硬式ボールを手でもてあそぶ。
「ありがとう。今度勝てばベストエイトだ」
一回戦の先発は二年生の川内だった。内村は二回戦で六回まで投げ、高校で初勝利を挙げた。
「先発は、川内先輩だけど、ちょっと肘がおかしいって言ってたから、途中で投げるかも」
「試合、見たい……」
「全校応援は、ベストフォーからだもんね……」
バスは市街地を離れ、緑の深い丘を登り始めた。エンジン音が低くうなり、シートの振動がよく伝わった。
「全校応援のときは、写真撮ってあげるね」結衣は言った。
「うん。いい写真だったら、でっかく引き延ばして部屋に飾ろうかな」
「だめ……」
「なんで?」
「わたしの部屋に飾るから」
「それなら、僕はきみの写真、飾ろうかな……」
二人は、見つめ合ってから、照れ笑いした。
「でも,結衣ちゃんもすごいよ。『写女』の表紙を飾るなんてさ」
「断ったんだけどね……どうしてもって」
「いいじゃないか。雑誌の表紙になったきみを見てみたいよ」
内村は、水橋に頼んだ結衣の写真を見ているはずだった。どんなふうに飾っているんだろう。結衣はそう思うとまた赤くなった。
内村と二人きりでいることに慣れた頃、バスは広域公園に着いた。
公園に入ると川があり、池がある。ジョギングをしている人がいる。体育館からは歓声が聞こえた。ミニ遊園地からは子どもたちの声が森にこだましていた。
「ごめんね、初デートがこんなところで」と結衣は言った。
二人は川沿いを歩いた。
「いいんだよ。だれも知り合い、いないしさ。きみと話ができれば……」
「サンドイッチ、作ったよ」
「ありがとう。きみの手作り、食べたくてさ、無理言ったね」
結衣は、母親が手伝ったことは言わなかった。
「結衣ちゃん……」と内村は言った。「結衣ちゃんって、呼んでいい?」
「いいよ……」
「結衣ちゃん……」
「なあに?」
二人はそれを数回繰り返して、笑った。
サッカーボールが二人の前を転がり、川に落ちた。内村はボールを拾い、男の子に手渡した。内村の濡れた手に結衣がハンカチを添えたとき、二人の手が触れた。そのまま手をつないだ。お互いの手は熱かった。結衣は、内村の手の大きさに驚いた。グラブを付けているように感じた。
この瞬間を携帯電話のカメラに収めたのは、佐和子と栞だった。
「今のさあ、いい感じだったよねえ」栞が言った。
「結衣のあの初々しい顔、初めて見た」佐和子もつぶやいた。
「でもさ、グラサンだけの変装で大丈夫?」
二人は顔を見合わせた。そしてうなずいた。
「完璧よ。でも、結衣も甘いわね。遊園地って言ったけど、わたしたちがそれを鵜呑みにするわけないじゃん」
「栞、『鵜呑み』って言葉、よく知ってたね」
「馬鹿にすんな、佐和子。あっ、走り出したよ、あの二人」
「バレたかあ?」佐和子はグラサンを外して言った。
「追えー」
結衣と内村は、わけもなく走っただけだった。青春ドラマではよくある一コマだ。少し森のなかに入り、公園で休日を楽しむ人を眺めながら、他愛ない話をした。硬式ボールで軽くキャッチボールもした。硬式ボールは思った以上に軽かった。
「今日は、カメラは?」と内村が訊いた。
「カメラを持つと、頭がそればっかりになるの。だから、今日は持ってこなかった」
内村といる時間を大事にしたい、そんな気持ちだった。
「カメラは必要ないよ」と内村は結衣を見つめて言った。「僕は、この瞬間を、一生忘れないから……」
「わたしも、今、心でシャッター、切った……」
「やばい、二人、見つめ合ってるよ」
栞は佐和子の肩を揺すった。
「ほんとに? 貸して」佐和子は栞の双眼鏡を奪い取った。
「このまま……キスシーン?」栞は興奮する。
「まさか……でも、人影ないわね。チャンスといえばチャンス……」
「返してよ、双眼鏡」
「栞、なんでこんなモノ持ってんの?」
佐和子は双眼鏡を返した。かなり性能のいい双眼鏡のようだ。百メートルほどの距離でもよく見える。
「親父のよ。競馬用」
「今日は、競馬ないんだ」
「あるわよ、確かジーワンとかゆうのが」
「お父さん、怒ってるんじゃない?」
「いいの、親父なんて別に怖くないから。あっ、笑ってる……キスしろよ、キス」
「やだ、わたしったら……」結衣は頬を手で覆った。
内村が笑っている。
「なかなか言えないよ、心でシャッター、切るなんてさ、アッハハ」
「恥ずかしいこと言ってるう……」
「かわいいよ、結衣ちゃん」
「かわいいなんて、言わないでっ」
「顔も、心も、かわいいよっ」
「ねえ、体育館行ってみようか……」
結衣は立ち上がった。いちゃいちゃしすぎるのを少し警戒した。
「あっ、出てきた……」栞が言った。
佐和子はポテトチップスを夢中で食べている。双眼鏡を覗きながら、栞も手を伸ばす。二人の食べる音がサクサクと二重奏を奏でていた。
「追う?」栞が訊いた。
「どっちに向かってる?」
佐和子は自分の携帯電話でゲームをしている。
「待って……。体育館かな。ぶらぶら歩き出した」
「慌てることないよ、この公園から出ることないからさ」
「おっと、佐和子……耳より情報」
「なに?」
「ソフトクリームのマークを発見」
「買ってきてくれない?」
「わたしはあなたのパシリじゃないわ。対等のはずよ」
「おごるから……」
「行ってきます……」
栞は双眼鏡を佐和子に渡す。佐和子は千円を栞に渡す。
体育館では、女子バレーのリーグ戦が開催されていた。『豊橋レイカーズ』と『多摩ピンキーズ』の対戦だった。観客は二百名ほど。結衣と内村は観戦することにした。
バレーは最終セットで、あっけなく終了した。バレーコートの片付けが終わると、体育館は静かになった。結衣と内村は体育館に下りてバスケットをした。バスケットボールがバンバンと体育館に響いた。結衣は、ドリブルで内村を驚かせた。内村は結衣のボールを取ろうとして両手を広げる。結衣は内村の大きな手をくぐり抜けると再びドリブル、スリーポイントからシュートを放つ。ボールは弧を描いてゴールにスポンと収まった。網が揺れ、ボールは床に落ちた。
「うまいじゃない!」内村が叫んだ。
木陰でサンドイッチを食べ、ランチを済ませた。会話がない沈黙も、二人には気にならなかった。そんな二人を、佐和子と栞は公園のレストランから見ていた。
「よかったよね、わたしたち。レストランに入れて……」
「向こうがこっちだったら、わたしたちが外でサンドイッチだったわね」
「おいしい、このハンバーグランチ。初めて食べた」栞は舌鼓をうつ。
「この公園、あんまりこないからね。少し遠い……」
佐和子はステーキランチ。分厚い肉にナイフを食い込ませた。
「ねえ、向こうに変なおじさんとおばさん、いるじゃん」
栞は佐和子に目配せをした。佐和子は栞の視線の先をたどった。自分たちと同じようにサングラスをした年配のカップルがいる。
「どうかしたの?」佐和子が訊いた。
「どっかで会ったような気がするんだよね。向こうもこっちを気にしてる感じでさ」
「そう?」
二人が年配カップルを同時に見ると、向こうも見ていた。視線が合った。
「ああ!」栞が叫んだ。
佐和子は食べかけの肉の塊を飲み込んだ。続けて水を飲んだ。栞が席を立つと、年配カップルも席を立ち、互いに歩み寄る。近づいて四人はサングラスを外してあいさつをした。
「結衣がいつもお世話になってますう」母親は佐和子と栞に言った。
「元気そうだね、二人とも」結衣の父親も笑顔を浮かべた。
中学時代、佐和子と栞はよく結衣の家に遊びに行った。高校生になってから足が遠のいていた。
「おひさしぶりですう」と佐和子と栞は頭を下げた。
席を同じくして、四人は結衣の初恋をえさに井戸端会議を始めた。結衣は、まさかレストランに両親と悪友二人が同席しているとは夢にも思っていない。
四人のうち女三人だけが、恋愛に目覚めた結衣に祝杯を挙げた。父親は、不機嫌そうにビールを飲んだが、佐和子と栞と話をすると機嫌も直り、ビールを数杯飲んだ。
「やっぱり、親として心配ですもんね、娘の初デートって」栞が言った。
「佐和子ちゃんも栞ちゃんも、結衣のためにわざわざすいませんね。こうして見守ってくださって」母親が頭を下げる。
「いいんです。ヒマですから」佐和子が答える。
「ここはわたしがおごるからね、どんどん好きなの、注文してね」
父親はビールジョッキを揺らして言った。
「ありがとうございますう」
佐和子と栞は、満面の笑みで顔を見合わせた。
森のなかにはフィールドアスレチックがあり、二人は汗を流した。助け合ってゲームを進めるなかで、体と体が自然と触れあった。
洗面所に入った結衣は、鏡に映った自分を見て驚いた。かわいい人がいると思ったのは、自分の顔だった。恋をすることでこんなにも自分を見る目が変わるのだろうか。
スタンダールの『恋愛論』にあった次の言葉を思い出した。
【最も賢明なのは、自分を己の打ち明け相手にすることである】
素直な気持ちの自分が鏡に映っている。結衣は手を振った。過去の自分にさよならし、新しい自分によろしくねと……。
結衣と内村がレストランに入ったとき、四人は慌ててサングラスをかけた。時計は三時を過ぎている。結衣と内村は四人には見向きもせず、奥の席に向かった。
「出ましょうか?」と佐和子が小声で言った。
四人はこそこそと出口へ向かい、父親はレジに向かった。結衣は一度レジを見たが、父親に気づいた様子はなかった。
「もう三時なんですねえ」栞が言った。
「けっこうしゃべりましたね。三時間近く?」佐和子は腕時計を見た。
「お二人は、まだここにいますの?」母親が訊いた。
「そうですねえ、もう、いいですかねえ」
「ここは若い二人に任せて、わたしたちは退散と、いたしましょうか?」
四人はうなずき合った。
「よかったら、送るよ」父親が言った。
「それは、もう、渡りに舟でございます」
四人は笑い声を森の中に響かせて、父親のセダンに乗り込んだ。
内村はコーヒーを飲んでいた。結衣はレモンティーだった。ケーキはショートケーキ。二人は同じものを選んだ。
「最近コーヒーの味がわかるようになったよ。五時のバスに乗ろうね」と内村が言った。
結衣はうなずいた。
「しばらくデートはできないな。あーあ」内村は背伸びをしてため息をついた。
「明日からの合宿、がんばってね」
野球部は甲子園出場の悲願達成のため、学生寮で合宿に入る。
「メールしてね」と結衣は言った。
「電話するよ、声、聞きたいから……」
「……わたしも」
内村はうなずいた。
バスを待つ間、内村は投球フォームを結衣に見せた。
「シャドウ・ピッチングっていうんだ……時間のあるときはよくやってる」
流れるような身体の動きを、結衣はきれいだと思った。
「結衣ちゃん、きみを甲子園に連れてくよ……」
「『タッチ』みたい……」
「『タッチ』か。知ってるよ。マンガだろ。正直いうと、そのパクリ……。野球やってるやつは、みんなそんな夢、もってるよ」
「バスが来たよ」
内村は硬式ボールを結衣に手渡した。
「そのボールに、なにか言葉を書いてくれないか? 毎晩見て、励みにするからさ」
「うん。明日学校で渡すね」
空気が抜ける音がして扉が開いた。内村は結衣を先にバスに誘った。結衣が先にバスに乗り、内村があとに続いた。最後部の少し高い座席に二人は座った。
結衣は何気なく広域公園を振り返った。初デートの場所を記憶に留めるかのように。前に向き直ろうとしたその瞬間、結衣の視界に一人の少女が入ってきた。少女は両手にカメラをもち、こちらを見つめている。
(水橋……さん?)
確かめようとして目を凝らしても、バスは遠ざかり、下り坂を右に折れて、少女の姿を森の中にかき消した。
「どうかしたの?」
問いかける内村に、結衣は「なんでもない……」と俯いた。
「ちょっと、疲れただけ……」
そのまま、内村の肩に頭を預けた。




