第8話「奥様の正体」
アマレッティの一大決心を、脂ぎった声が一蹴した。アマレッティの目の前に立ちはだかっていた守衛も、怪訝そうに振り向いて声の主を確認して、呟く。
「……またあの叔父か。困った方だ」
「あのな、儂はれっきとしたヴァロア公爵家の一員だ! ダミアン・ヴァロアだぞ! 門前払いしてただで済むと思うのか!」
見覚えのある丸々とした背格好にアマレッティは目を丸くした。派手派手しい服装でやたらと目立つ、オルレアンの叔父だ。
受付の女性が、ダミアンに申し訳御座いませんと頭を下げた。
「申し訳御座いませんじゃない、儂はオルレアンに会わせろと言っておるんだ!」
「社長にはアポがなければお取り次ぎできません」
「屋敷に寄れば会社だと追い払われ、会社ではアポなしでは会えないだと!? おのれ、たかが十一歳の子供が舐めた真似をしおってからに……」
申し訳御座いませんと、同じ角度と口調でまた受付嬢が頭を下げた。
「何度仰られても、アポがない以上、社長にお取り次ぎする訳には参りません」
「融通がきかない従業員だ。顔を覚えておくぞ、後悔させてやるからな」
鼻白んだダミアンが踵を返す。無遠慮な足取りに、人が道を避けた。
「どけ!」
「あっ」
おろおろしている間に避け損ねたアマレッティは、ダミアンに突き飛ばされてよろける。
持ち前の運動神経の良さで転びはしなかったが、書類が床に落ちてしまった。
「ふん、何だこんな紙切れ――」
紙袋から少し飛び散った書類を踏みつけようと足を振り上げたダミアンが、その目を身体より丸くして固まる。
「何だこれは――会計帳簿じゃないか! ヴァ、ヴァロア社のっ」
「お待ち下さい!」
アマレッティを見張っていた守衛が書類を素早く拾い上げた。周囲がざわめき、中身を確認する守衛の顔が険しくなる。アマレッティはおろおろと一歩踏み出した。
「あ、あの……!」
「どこでこれを?」
厳しく守衛に問い質され、口ごもるアマレッティの背後からダミアンが叫ぶ。
「どうしてこんな女がヴァロア社の帳簿を持っているんだ、怪しいぞ! おい捕まえろ、盗んだに違いない!」
「ちっ違います盗んでなんかいません! か、返して下さい……私、それを届けなくちゃいけないんです」
「とりあえず別室で事情をお伺いします。こちらへ」
「おい、その書類を儂に見せろ、確認する!」
アマレッティが守衛に腕を捕まれると同時に、ダミアンが守衛から書類をもぎ取った。
(だめ)
オルレアンに、オルレアンだけに届けなければいけない物だ。その考えがアマレッティを反射的に動かす。
捕まれた腕は利き腕ではない。すぐ近くに守衛が腰に下げた細く長いレイピアがある。ダミアンまでの距離、踏み込みのタイミング――いける!
「――っあ!」
アマレッティの狙い通り、レイピアの切っ先が紙袋の端を貫き、ダミアンの手から書類を掠め取る。だがアマレッティは慌ててレイピアを手放した。持ち手を失ったレイピアは、そのまま絨毯の上に書類と一緒に転がる。
一瞬でレイピアを奪われた守衛も、書類を手放してしまったダミアンも、呆然とレイピアと書類を見ていた。
「――な……何だ、今のは……」
ダミアンが薄気味悪く書類を見つめたまま呟く。
(つい身体が……!)
やってしまった。もう二度と人前で剣は振るわないと姉と約束したのに――アマレッティはぎゅっと目を瞑って震え続ける。
「――と、とにかくこの書類はこちらで預かります。ダミアン様はお引き取り下さい」
「何だと」
あっという間に気色ばんだダミアンだが、レイピアに掠め取られた書類が不気味なのか拾おうとはしない。ただ、守衛が拾うのを阻止するようにその前に立ちはだかった。
「ならオルレアンに会わせろ」
「ですからそれは」
「大体その女は何だ! まず儂よりその女を徹底的に締め上げるべきだろう! 得体の知れん女がこんな重要な書類を持っとるなんて大問題だ!」
びくんと、アマレッティはその声に震え上がった。
(ど……どうしましょう、どうすれば……!)
諍いが起きているのは分かっている。その原因が自分である事も、分かっていた。けれど何も思い浮かばないのだ。言い訳も、説明も、自分からは何も出てこない。
「とりあえずお名前をお伺いしたいのですが」
怒鳴り散らすだけのダミアンの相手をするだけでは埒が明かないと思ったのか、守衛が矛先をアマレッティに向けた。動揺したアマレッティは、視線を彷徨わせる。周囲は不審な目でこちらを伺っていた。不穏な空気に押し潰されそうになりながら、アマレッティは必死で答えを絞り出す。
「あ、あの……わ……わ、私は、オルレアン様の妻なんです……」
「え?」
「何だと、でたらめを言うな! そんな話儂は聞いていないぞ!」
「ほんっ本当です! 本当、なんですっ」
涙を浮かべて守衛に訴えると、守衛が困った顔になった。
(あ)
既視感がある。
アマレッティが何か失敗をして、それに巻き込まれた人がする顔だ。メディシス王家の第二王女が関わったからこそ面倒だという時と、同じ顔。
(お姉様)
「一体何の騒ぎだ」
賛美歌を歌うような透明感と威厳を持った声色に、アマレッティは瞠目する。
その声が場違いだと感じるのは、子供の声だからだ。
上品な足取りで奥にある階段から下りてきた子供の姿を見て、アマレッティは泣き出したくなった。
「見ましたか、今の動き」
「見た見た。――でも、王女様だよな?」
首を傾げたラートに、ラムも両腕を組む。
二人して建物の中を覗き込んでいた窓から頭を下げた。通路にしゃがみ込み、こそこそと会話を続ける。
「王女だから――というのはあり得そうですが、どうでしょうね。しかしメディシス王国第二王女の剣の腕前など、噂にも聞いた事がない。それもおかしな話です」
「あのレジーナ女王がこっちに送り込んでくる時点で暗殺者って可能性はあるけどなあ……でも全然そんな風には見えないし。ラムから見たらどうなんだ?」
「いい動きでしたな。恐らく天性のものでしょう。元々、運動神経というか反射神経の良い方だとは思っていました。身のこなしも軽いし、ダンスや身体で覚えるものは飲み込みが早かったですしね。ですが、同業者には見えませんなぁ」
「だよなー俺もそう思う。スパイだってろくにできてないじゃん。っていうかスパイなんだよな?」
「本人はそのおつもりでしょうな。だが何もご存知ないようだ」
そうなるとこの場合、本人がスパイであるかどうかより、あんな役に立たないスパイを送り込んできた側の意図の方が問題だ。ラムの考えを、ラートも十分に理解している。
「しかし、意外な収穫を得られました。カルトの仕事が増えましたな、坊ちゃまにこの件はご報告しておかねば」
「あーあ、早くちゃんと就職したいなぁ」
言い得て妙なラートの愚痴に、ラムも思わず笑う。だがすぐに背筋を伸ばして、家令の顔に戻った。




