第6話「奥様教育の進捗状況」
アマレッティも自分で忘れそうになるが、アマレッティがここに来たのは、ヴァロア公爵夫人になる為だけではない。
(そう、スパイをするためなのです!)
――と分かってはいるものの、この一ヶ月アマレッティにできたのは、オルレアンにいびられていびられていびられながら礼儀作法と教養を肉体労働の如く繰り返す事だけだった。
一人での外出は一切許されない。屋敷の中でさえ、首輪と足枷を解き部屋から一歩でも外に出る場合は、必ず誰かがアマレッティに付き添った。一人きりになれるのは部屋で鎖を嵌められただけの状態で、一体何が調査できようか。
それでもアマレッティなりに精一杯できる事は試みている。歩き方のレッスンで屋敷を二日間ぶっ続けで歩き回った時も、へろへろになりながら屋敷の構造を覚えたし、お抱え使用人の顔も把握した。しかし、屋敷の構造を覚えても一人で部屋に忍び込めなければ意味がない。
「……せめて足枷だけでも何とかなれば……オルレアン様はどうやったらこの足枷を外して下さるでしょう……」
「おや、奥様は外出をご希望ですか?」
ラムに澄ました顔で尋ねられ、アマレッティは慌てて首を振る。給仕を終えたマリーとベリーは既に退室していたので、ラムと二人きりだ。
「わ、私はオルレアン様の妻としてまだまだ未熟です。とても一人で外に出られる身ではありませんっ」
「大変良いお答えですよ、アマレッティ様。坊ちゃまも満足されるでしょう」
「で、でもオルレアン様には今日も馬鹿って三十回くらい言われました……」
「あれが坊ちゃまの愛情表現なのです」
「そ、そうなんですか……?」
ラムは答えず、そっとテーブルの上にノートとペン、歴史の教科書、地図を置いた。
「……」
「八百年もの由緒正しきメディシス王国の歴史に入る前にまず、ヴァロア公爵家の現状について概要を説明致しましょう」
使用人達は皆、個性的で優しいがオルレアンに忠実だ。
厳しいその現実を感じながら、アマレッティはペンを握り教科書を開く。ラムは満足そうに頷いて説明を始めた。
「ヴァロア公爵領はこの地図にある通り、南の海に面した土地です。港も持っておりまして海を挟んだ向こうにある都市国家リムディンや他国とも交流があり、菓子の流通に至って独自の貿易ルートも確保しております」
「まあ、お菓子!」
俄然興味を惹かれたアマレッティはラムの説明に耳を傾けた。だがラムはお菓子の話を続けてはくれなかった。地図の上でヴァロア公爵領の形をなぞっていた指を、ぴたりと東側の境で止める。
「問題はこちらですな。平等革命で王制が崩壊し、内戦だらけになった隣国――もうそろそろ名前が変わるかもしれないオルゴーニュ国との国境です。アマレッティ様も平等革命ではお命を狙われて大変だったでしょう」
「い、いえ私は何も……お姉様がほとんど一人で対処してしまわれました……」
一国の王女としてどうなのかと怒られるかとアマレッティは上目遣いになるが、ラムは穏やかに相槌を返すだけだった。
「そうですな、レジーナ女王――あの頃はまだ王女であらせられましたが、見事な手腕で御座いました。平等革命というのは階級制度が厳しかったオルゴーニュで、貧困による生活の格差への不満から広まっていった思想です。人は平等であるべき、だから平等な生活を誰もが享受できるというやつですな。しかしレジーナ王女のとった施政でメディシス王国の生活水準が向上し、革命の火種である国民の不満がなくなってしまった。それに平等革命が成功したとはいえ、オルゴーニュでは王制廃止にはなったものの同時に人の上に立つ指導者も失い、内紛と争いが絶えず、国民の生活は良くなるどころか悪化しました。革命軍の主立った指導者はその矛先を他国へ向けようと、噂では戦争の準備まで始めている始末だとか。その結果、平等革命はメディシス王国では成功せず今に至ります。とはいえ、一度は王城に攻め込まれた事もあったようですが」
「そ、それは知っています。奥の廃園の事件ですね」
こくこくと頷いたアマレッティを、孫を褒める祖父のような優しい瞳でラムが讃える。
「その通りです。とまあ少し最近の話をしてしまいましたが、その隣国オルゴーニュと我がヴァロア公爵領は隣同士なのです。この意味がアマレッティ様はお分かりですか?」
「え、ええっとえっと……お隣なら、お友達になれるかもしれません!」
ふむと、ラムは顎に手をやってアマレッティの回答を吟味した。
「そのようにオルレアン様にはお伝えしておきましょう」
「えっ……わ、私、何か間違いましたか!?」
「いえいえ、非常に貴重なご意見でしたよ。ただ、メディシス王国が王制を維持する以上は難しいでしょう。王制を維持したままのメディシス王国をオルゴーニュは後退国だと罵ってますし戦争が始まれば真っ先に巻き込まれるのはヴァロア公爵領でしょうし」
「えっ――そ、それって、ここですか」
「ここですな」
ラムはにっこりと笑った。
「そうならないよう、レジーナ女王は頑張っておられますよ。ただ革命軍の残党には手こずられているようです。特にメディシス王国の民で平等思想にかぶれ身を潜めている革命軍は、何もしなければ愛すべき国民です。下手に手を打てばつけ込まれるので、対処し辛いのでしょう」
「そうなんですか、お姉様が……」
話についてはよく分からないが、姉が苦労しているのだと聞くと心が痛んだ。ラムが優しくアマレッティに確認する。
「ここまでは分かりましたかな、アマレッティ様」
「は、はい。お姉様が大変だという事が分かりました」
「……。まあ宜しいでしょう。奥様がそのように勤勉でいらっしゃるだけで、坊ちゃまも安心して仕事が進むでしょうから」
「そういえばオルレアン様は、いつ頃お仕事からお戻りですか?」
途中退室したオルレアンを思い出しながら、アマレッティは尋ねる。
「夕方にはお戻りの筈です。夕食はご一緒ですよ」
「そ、そうですか……」
また何か失敗すれば夕食抜きだ。ぐっとアマレッティは唇を噛み締める。ふと、ラムが思い出したように呟いた。
「そういえばオルレアン様は確か、今週末から出張のご予定も入っておられたかと」
「本当ですか!?」
思わず喜んだアマレッティを叱ったりせず、大らかな笑顔でラムは頷く。
「と見せかけて奥様の反応を見て楽しまれるのが、オルレアン坊ちゃまです」
「……」
「アマレッティ様は、オルレアン坊ちゃまがお嫌いですか」
ラムの優しい質問に、アマレッティは項垂れた。
「嫌いだとか好きだとかいう話をとっくにこえています……! わ、私、最近オルレアン様に命令して頂かないと何一つ怖くてできなくなってきているような」
「……。坊ちゃまの調教は成功している、という事ですな」
「このままオルレアン様なしでは生きていけなくなったらどうしましょう……!」
涙を浮かべてアマレッティはオルレアンの非道を訴える。どこまでも穏やかに、ラムは微笑んだ。
「つまり夫婦仲は上手くいっていると」
「そうなんですか!?」
世の中の夫婦とはこうなのか。衝撃を受けたアマレッティの部屋の扉が、勢いよく蹴り飛ばされた。
「おい、花だ」
「カルト……もう少し静かに入ってこられないのですか」
「うるせーなラム爺。窓際にこれ置くぞ」
ずかずかと乱暴な足取りで入ってきた庭師は、可愛らしい花々が咲く陶器の横に長いプランターを持ったままぐるりと部屋を見回した。煙草の匂いのする金髪の青年に、アマレッティは笑顔で挨拶をする。
「カルトさん、こんにちは」
「おう。日当たり良いし、ここだな。おいアマ嬢、何回も言うがお前は勝手に弄るんじゃねぇぞ。花の世話は俺がする、水やりも全部俺の仕事だ。お前は見るだけだ」
「はい、分かっています」
アマレッティが真剣に頷き返すと、カルトは窓際に置いた花の様子を確かめ始めた。カルトは一見乱雑だが、いつも作業は細やかだ。アマレッティの部屋の花瓶が空く度に可愛らしい花を飾りにも来てくれる。
窓際の日光を受けて、咲き初めの花が控えめに映える。可憐に華やいだ窓際に、アマレッティは嬉しくなった。
「まあ、今日はオレンジにピンク……小さくて可愛らしいお花さん達。カルトさん、有り難う御座います。窓が花壇みたいで、とっても素敵です」
「パンジーとビオラだ。気に入ったか。オルレアンの指示だしな」
「えっ」
カルトは整った顔で両腕を組みプランターを眺めた後、今度はテーブルに飾ってある花瓶へ向かいながらぶっきらぼうに答える。
「何だ、知らなかったのか。お前が好きそうな花を部屋に届けろって命令されてんだ。花を選んでるのは俺だが」
「外に出られない奥様を思っての事でしょう。このお部屋もオルレアン様の指示で用意させて頂いたものですし」
外出を許さず部屋に閉じ込めているのもそのオルレアンの指示なのだが、さも思いやられたかのように言われるとアマレッティは単純にそう信じてしまう。
(オルレアン様が、私を思って下さっているなんて……怖いけれど、よく分からない方です。王宮に居たどの方とも違うし……)
読み書きも苦手で飲み込みの悪いアマレッティは、家庭教師に匙を投げられた事がある。出来の良い姉と比べられて失望されたのだ。それをアマレッティは仕方がない事だと思っていたし、素直に受け止めてきた。
だがオルレアンは、決してアマレッティを見放さない。アマレッティがすぐ諦めて投げだそうとしても、馬鹿、阿呆、出来損ない等、散々罵倒しながらそれを許さない。
監禁されてはいるが、環境も快適だ。マリーもベリーも掃除を欠かさないし、毎晩時間をかけて風呂で磨き上げられるのでお肌は王宮に居た頃よりすべすべになった。何より、アマレッティの周りに人が居るのが大きな違いだった。大好きなお菓子をテーブルに並べ、一人きりでテーブルの前に座っていた日々が嘘のようだ。
そしてやり方こそ拷問じみているが、アマレッティが叩き込まれているのは一流の貴婦人教育だ。立派なヴァロア公爵夫人にしてやると宣言した通り、オルレアンはアマレッティを調教している。だが、オルレアンは、アマレッティの輿入れなど要求していないと言っていた。なのにどうして、アマレッティを王都へ帰さずここに置いているのか。
オルレアンの真意がアマレッティにはどうしても理解できない。
「……オルレアン様は、何をお考えなんでしょうか……」
ぽつんと呟いたアマレッティに、ラムもカルトも振り向いた。はっと、アマレッティは我に返る。
「オ、オルレアン様のお考えを私が気にするなんて、恐れ多い事だともう十分に理解しています! ただ鞭を振るう怖いオルレアン様以外見た事がなくて、思いやられていると言われてもつい、その……っ!」
「――なら他のオルレアンも見に行きゃいいんじゃねーの?」
「はい?」
花瓶に活けてある花の形を整えながら、カルトが先を続けた。
「オル坊が忘れ物したって、ラートがとんぼ返りしてきたぜ。何かの書類を忘れたんだと。ラムに聞きゃ分かるって俺が聞きに来たんだが、ラートに届けさせろとは言われてねーな」
ふむと、ラムが白い顎を撫でた。
「そうですな。忘れ物を会社に届ける……それも勉強の一環かもしれません。足枷や首輪の鍵は私がお預かりしておりますし」
「えっえっ……も、もしかして外に出して頂けるのですか!?」
声を引っ繰り返したアマレッティに、ラムが抜け目なく答える。
「外に出るのではなく、勉強に出るのです。あるいは忘れ物を届けに出る」
「まあ……!」
巧妙な言い回しに感動したアマレッティだが、すぐに別の事が心配になった。
「でも、オルレアン様に怒られてしまうのではないでしょうか……皆さんも」
「俺はどうでもいいぜ。元は忘れモンなんかしやがるオル坊が悪いんだし、俺達はまだ仮契約だから多少の様子見は許されるだろ」
「かりけいやく?」
アマレッティが繰り返しても、カルトは何も答えない。代わりに、ラムが何気なく話を変えた。
「奥様。我々使用人は貴方をそこそこ気に入っております。何というか、面白い方なので」
「あ、有り難う御座います」
褒められていないのだが恐縮してアマレッティは頭を下げた。
「ですから参りましょう。忘れ物を届けに」
「え……それ関係ないのでは」
アマレッティにしては珍しく的確な指摘だったが、ラムは笑顔でそれを黙殺し、手を叩いてマリーとベリーの名前を呼んだ。