第5話「奥様のお返事」
親愛なるお姉さまへ
お元気ですか。アマレッティは無事、ヴァロア公爵領に辿り着くことができました。着いたらすぐお手紙すると約束したのに、一ヶ月もお手紙できなくてごめんなさい。ばたばたしていて、自分の時間がとれず、オルレアン様に到着の連絡もお任せしてしまいました。
オルレアン様はとっても優しく私を迎え入れて下さいました。毎日が楽しくてお手紙が遅れてしまったの。心配なさらないで、アマレッティはこれ以上ない快適な空間で過ごしています。
お友達もできました。私の話を黙って聞いてくれるとっても優しい無口な女の子です。メイデンちゃんというの。いつもお部屋でお喋りしてるのです。他にもぬいぐるみのお友達をオルレアン様からたくさん頂いたので、少しも寂しくないのです。お友達の数が減ったりしないよう、アマレッティは毎日頑張っています。
オルレアン様はお姉様が仰る通りの、とても優しい方でした。色々、礼儀作法やこちらの生活に不慣れな私をしっかり導いて下さいます。たまに私のことを優しく見つめて下さっていたりすることがあって、私は感動で震えが止まりません。それに子供とは思えない思慮深さと行動力、私は日に日にオルレアン様の素晴らしさを実感しています。この手紙だって、私が綴り間違えてはいけないからと、わざわざ確認して下さる予定なんです。
毎日毎日、お仕事もあるのにオルレアン様はアマレッティとお話して下さいます。難しいことをたくさん知ってらっしゃって、何を仰っているのか殆ど分からないけれど、アマレッティはちゃんと聞いています。何でもお見通しで、アマレッティは隠し事ができません。お声を聞く度に身も心も粉になるまでご奉仕しなければいけないと思ってしまうのです。喧嘩なんてしたら死んでしまうかもしれないです。いいえ、アマレッティが死ぬだけなら良いのです。でもきっと色んな方に迷惑をかけてしまいそうだから、オルレアン様の言う事をきいています。
寒くなってきました。チェルト君は、また風邪をひいたりしていませんか。ヴァリエ騎士団長も変わらずご健在でしょうか? もう二度と会えないかもしれないと思うと、涙が出ます。
生きてお会いできるよう、アマレッティは毎日お祈りしています。
またお手紙しますね。ですからお姉様、どうかお返事を下さい。こんな妹ですが決して見捨てないで下さい。アマレッティはお姉様のお返事を、笑顔の練習をして待っています――。
頭の上の辞書が重い。
拷問具かと思う程たっぷりとしたレースとフリル、まとわりつくリボンを飾った豪奢なスカーレット色のドレスも重い。
だがアマレッティは頑張って、精一杯優雅に微笑む。
「頬の角度を後一度だけ上げろ。――違うそうじゃない逆だ逆、下がってる! 震えるな背筋を伸ばせ完璧にだ! 腹を意識して引けと言っているだろう、身体の重心を動かすんじゃない。組んだ手の位置が悪い、貴婦人らしく笑え! そのまま真っ直ぐになっている絨毯の刺繍の上を歩け、下を見るな!」
「は、はひぃ」
「何だその情けない声は。お前に許された返事は『嬉しいです、オルレアン様』『分かりました、オルレアン様』『愛しています、オルレアン様』の三択だけだと何度も言っている、上品に答えろ!」
「わ、分かりましたオルレアン様っ!」
「ほぉらお前の大事なシュークリームちゃんもお前を応援しているぞ」
「嬉しいですオルレアン様ぁっ」
シュークリームの形をした愛らしい目のあるぬいぐるみを、オルレアンが片手で乱雑に掴み上げて加虐的に見つめる。
(ああシュークリームちゃんっ今助けますから!)
シュー部分とクリーム部分が分離して真っ二つになる所など想像もしたくない。
微笑みを絶やさない、というよりは微笑みを顔に貼り付けながらアマレッティはしずしずと足を動かした。じゃらじゃらと貴婦人にあるまじき鎖の音が、すっかり馴染んで後から付いてくる。
「アマレッティ奥様ー」
「それなりに頑張って下さい……」
「ご褒美のデザートは何と何と!」
「ただのクイニー・アマンです……」
厳しい訓練に挑むアマレッティに声援が飛ぶ。オルレアンが灰青の目を細めた。
「マリー、ベリー! さっさと持ち場に戻って仕事をしろ」
「奥様に給仕するのが」
「お仕事だった気がします……」
二人で一人分の会話をする器用な双子のマリーとベリーは、それぞれアマレッティを見守っている。
マリーとベリーは金の髪の色も翠の目も顔の造形もそっくり同じだが、髪型とその纏う空気で区別がつけられる。二つ括りにして明るく前向きなのが姉のマリー、一つ括りで暗く後ろ向きなのが妹のベリーだ。大きな目をくりくりさせて、左右対称にアマレッティを応援してくれる。
「がんばれ奥様ーっもう少しもう少しっ」
「いい加減できるようになって下さいよ迷惑してるんです……」
「が、頑張ります頑張ってますぅっ」
「失礼致します。――坊ちゃま」
扉が音を立てて開く。思わずそちらに目を向けたアマレッティの頭の上から、ばさりと辞書が落ちた。
「あ」
「……アマレッティ様は、今日も失敗しました」
ベリーの解説にうるっとアマレッティは瞳を潤ませた。途端にオルレアンが険しい顔になり、鞭で空気が裂ける音を鳴らす。
「誰がそんな顔をしろと言った! 少し失敗したくらいですぐ諦めるな臨機応変に対応しろ!」
「は、はい! 分かりましたオルレアン様」
「そうですよ奥様頑張って! もう少しでゴールですよっ」
「……クイニー・アマンは食べられませんけど、気にしないで下さい」
テーブルの上に輝いていたクイニー・アマンをベリーが淡々と盆の上に戻す。アマレッティは思わず一歩早足で踏み出した。
「あぁあっ私のクイニー・アマンっ」
「だからいちいち動揺するなと言っているこの馬鹿が! 失敗が身につかないのか、犬にも劣る……!」
「そ、そんな言い方あんまりです……っ」
「返事!」
「分かりましたオルレアン様っ!」
「そうだ犬で嬉しいだろう!」
「嬉しいですオルレアン様ぁっ!」
「坊ちゃま。お楽しみの所大変申し訳ないのですが、仕事のお時間で御座います。迎えの馬車が来ておりますよ」
ラムの進言にオルレアンが顔を顰め、溜め息を吐く。
訓練の終了を意味するそれに、アマレッティは心の底から笑顔になった。途端にオルレアンの怒声が飛ぶ。
「何やってる最後まで歩け! この僕がお前如きに時間を割いてやっているんだぞ一秒だって無駄にするな!」
「は、はひいぃ」
「返事が違う!」
「分かりましたオルレアン様ぁっ」
もう泣いているのか笑っているのか分からない表情のまま、アマレッティはようやくオルレアンの前まで辿り着いた。
「で……できました……!」
何も答えず下からじっと見つめてくるオルレアンの灰青の目に、すぐアマレッティはおろおろし出す。
「私、また何か失敗しましたか!? やっぱり私にはできな」
「すぐにそうやって狼狽えて喚くなといつも言っているだろう……!」
「ひっ」
下から渦を巻く逆鱗の空気にアマレッティは竦み上がる。だが、懲りない舌はもつれながら言い訳をした。
「で、でも私、本当にお勉強は今までやってこなくて」
「だから今やっているんだろうが! お前が今まで何も学んでこなかったのは自分の怠惰の証で何の言い訳にもならないと何度言わせるんだ、この愚図」
できない、と自分で自己申告するより耳に痛い言葉が飛び込んできた。ぎゅうっと両手を握って、アマレッティは小さくなる。
「ご、ごめんなさい……」
「お前に許された返事の中に、謝罪が入っていたか?」
眉だけを器用に動かしたオルレアンに、アマレッティは慌てて首を振る。
「ぐ、愚図で嬉しいですオルレアン様」
「ふん。……まあいい、何とか形にはなり始めているか。僕は仕事だ。ラム爺、後はお前に任せたぞ。その馬鹿を休ませるな」
「畏まりました。時に坊ちゃま、歩き方を学ぶのに辞書を頭に乗せる必要はないかと思いますが?」
「えっ」
「僕の趣味だ」
堂々と言い放ち、オルレアンは絨毯を黒いブーツの踵で踏みつけて出て行く。
使用人達は誰一人として、主人の後を追おうとしなかった。
「オルレアン坊ちゃまは本当に若奥様に夢中で。仲睦まじいですな」
ほっほっほと穏やかにラムが笑う。初老の家令の微笑みは優しい。
だが、夫が足枷と首輪で妻を部屋に監禁し、毎日毎日教鞭を振るって調教するのを、世の中では仲睦まじいと言うのか。
疑問を持つのが怖かったので、アマレッティは貴婦人の笑顔を顔に貼り付けたまま、ラムに尋ねる。
「私は、これからどう致しましょう」
「クイニー・アマンなどお召し上がりになっては如何でしょうか。マリー、ベリー、奥様に紅茶を用意なさい」
「で、でも私、失敗しています。ご褒美は頂けないのでは……」
家令の指示に、メイドであるマリーとベリーは慣れた仕草で、パフェの形をしたテーブルの上にお茶の用意を始めている。
おろおろするアマレッティに、ラムが穏やかに答え直した。
「大丈夫で御座いますよ。オルレアン様は私に任せると仰ったのですから」
「そうですよーアマレッティ様。辞書を落とさず歩けなんて無茶振りしてるのオルレアン様の方なんだしっ」
「世の中狡賢く渡っていかなければ……」
「で、でも……わ、私、頂けません」
「何故で御座いましょうか、奥様」
銀のフォークを添えられたクイニー・アマンは、ブリオッシュ風の生地がキャラメリゼされて黄金色に輝いていた。一口食べれば、バターの香ばしさと砂糖の甘みがアマレッティを天国へと連れて行ってくれるだろう。何せお菓子の国ヴァロア公爵領で作られたクイニー・アマンだ、恐るべき破壊力を秘めているに違いない。
(ああ……だけどだけど、いけません)
教わった通り、このままテーブルに優雅に歩み寄り引いてもらった椅子に腰掛け、紅茶の香りを楽しみながら一口分切り取ったクイニー・アマンを口に運ぶ――そうすれば、そうすれば。
「オルレアン様に後からいっぱい言われるんです……」
そう考えただけで、涙が零れそうになった。
自分より身長が低いのに、遙か高見から見下ろし虫けらか何かを嘲笑するような、あの残虐と愉悦に歪んだ笑みが、脳裏で鮮明にアマレッティを罵倒する。
「何もできない癖にご褒美だけは尻尾を振って受け取るのかとか、食べる事しか頭にない雌豚だとか、流石期待を外さないアマレッティだとか、馬鹿だとか阿呆だとか生きている価値があるのかとか、色々……色々……!」
「……成る程、道理で御座いますな」
「わ、私……何より、私を罵倒して楽しんでらっしゃるオルレアン様の笑顔が一番、恐ろしいんです……!」
しくしくと泣き出したアマレッティに、マリーがあっけらかんと助言した。
「慣れれば平気ですよぉ」
「……その内癖になって戻れなくなります」
「嫌ですそんなのぉっ」
涙ながらにラムに訴えると、いつでも穏やかな笑みを絶やさない家令は、やはり優しく頷き返した。
「分かりました、奥様がそのように仰るのなら無理強いはできません。ですがきっと坊ちゃまはこう仰ると思います」
「な……何でしょう」
びくびくと意味もなく視線をさまよわせるアマレッティに、幼い頃はオルレアンの養育係も務めたというラムは諭した。
「『僕が用意したものを食べないとは、いいご身分だ。調教し直してやる』」
「あ、言いそう」
マリーが深く頷き返す。ベリーも何度もその横で頷いた。
ひくっとアマレッティは喉を鳴らす。
「つ……つまり食べても食べられなくても私は叱られるのでしょうか……!?」
「オルレアン様はそういう御方で御座います」
「そんなっなら食べますぅ!」
「ですよねー」
「後は野となれ山となれです……」
ベリーの諦観の域にまでアマレッティが達するのはまだまだ時間がかかりそうだった。




