第4話「旦那様の趣味」
「えっ――えっ」
目を開き戸惑うアマレッティの耳に再び同じ音が届き、今度は足首に重みが増す。アマレッティの足下にしゃがみ込んでいたオルレアンが無言で立ち上がった。
「な――何なんでしょうこれはっ!?」
「首輪と足枷だ」
「ええぇっ!?」
仰け反ったアマレッティの足元で、じゃらじゃらと重い鉄の音が付きまとう。波打つようにくねった鎖の先を見ると、何故今までその存在に気付かなかったのか不思議な程、重厚感を持つ代物に繋がっていた。
鉄でできた冷たい顔と身体。胴体部分は開いており、空洞を埋め尽くすようにびっしり針が並んでいる。
「あ……あれは……」
「ああ、アイアンメイデンという拷問具だ。重石に丁度良いと思ってな」
「ごうもっ……」
声を失ったアマレッティは、ふと鏡に映った自分に気付く。アマレッティの細い首には鈍色に光る首輪が嵌まっていた。
「良く似合っている。――さて、ここからが本番だ」
すっかり口調が変わったオルレアンは、どこに用意してあったのか先が細くしなる教鞭を手にして、アマレッティの前へと回り込む。
(え……ど、どういう事なのでしょう。何かのお芝居?)
理解が現実に追いつかず混乱するアマレッティに、オルレアンは優雅に微笑んだ。
「僕の妻として覚えてもらうべきことは山のようにあるが、まず一つ。僕は馬鹿と無能が嫌いだ。甘い物も嫌いだ」
「あの……オルレアン、様……?」
「更に可愛いとか子供だとか言われるのが大嫌いだ。虫酸が走る」
一度、オルレアンが右手に持った教鞭をしならせ、左手でその先を握った。ぱちんとオルレアンの手の平の中で鳴った鋭い音に、アマレッティは身を竦ませる。明らかに拘束具である鎖がアマレッティの動きに合わせて、じゃらりと鳴った。
「何をしている、跪け。僕を見下ろすなんて百年早い」
「え……えっ」
「思った通り頭の回転が悪い馬鹿だ。何がお菓子の国の王子様だ、お前の脳味噌は全部そのでかい胸に変わったのか」
「いっ……一体、この鎖は何ですか!?」
「僕の趣味だ」
状況が飲み込めないなりに必死に絞り出した質問の回答は、あっさりとしていた。
(……オ、オルレアン様にそんなご趣味が……)
まだ十一歳の子供なのに、最先端すぎる。
あまりの事実にアマレッティは頭がくらくらした。
「さてアマレッティ。これが今日からのお前のスケジュールだ。立派なヴァロア公爵夫人になるためのな」
胸ポケットからオルレアンが四つ折りにされた紙を取り出した。アマレッティは差し出されるままにそれを受け取る。
「朝五時起床、洗顔、身支度、食事後すぐに午前の勉強だ。先程から会話を聞いていると口調が馬鹿そのものだ。母国語から危ういようだから基礎からみっちりと叩き込んでやる。教養として歴史、経済もかじって欲しい所だが、まずお前は礼儀作法からだ。ランチ、ディナーも用意はさせるが基本的にマナーの勉強だと思え。ミスをすれば食事を抜く」
「えっ!?」
「当然だ。お前みたいな馬鹿は身体で覚えるしかない。昼からはダンス、裁縫といった所か。語学は最低、三カ国はできるようになれ」
「三カ国って……そんな、無理です!」
「口答えするな、できるまでやらせる。夜は朝と昼の復習、または遅れを取り戻す時間だ。外見は大事だから風呂の時間は一時間はやろう。睡眠時間は六時間。だがやり残しがあれば当然その時間も削っていく。他に質問は?」
「あ……あの……」
時間単位と週単位、月単位までびっしりとスケジュールを書き込まれた紙を数枚、捲るだけで目眩がした。アマレッティは半泣きで、生徒が教師に発言を求めるように小さく挙手する。
「絵本を読んだり、ピクニックに出かけたり、お茶をしたり……何よりお菓子の時間はいつなんでしょうっ?」
「そんなものお前に一切必要ない」
アマレッティにも分かりやすい全否定だった。
「ある程度使い物になるまではこの部屋から出さない。その枷はその為のものだ。部屋を動き回る分には何ら問題ない長さに鎖を調節してあるから安心しろ」
「趣味じゃないんですか!?」
「趣味だ。だが逃げ出されても困るし、さっきみたいな悪戯をされるのも面白くない」
ぎくりとアマレッティは身を強張らせる。だが恐る恐る、言い訳を試みた。
「だ――だって、その……オルレアン様が叔父様とお話しているのを聞いたんです」
「不法侵入に盗み聞きか」
「そ、そうですけれど私、聞いたのです! オルレアン様、他の女性との結婚を考えてらっしゃるって……! だからつい」
「ああ、あれか。僕に存在を否定されて三日三晩寝込むような軟弱な女など、僕の眼中に入る予定は一切ない」
嘘を疑う余地はなさそうだった。何故なら、オルレアンの笑みは加虐に歪んでいる。
(な……何を言われたんでしょう、可哀想です……!)
見知らぬ女性に同情しながら、アマレッティは必死で訴えた。
「なら、私に優しくして下さったのも嘘なんですか。酷いです……!」
「酷い? 朝っぱらからパフェに夢中になった挙げ句食い逃げ騒ぎを起こしかけた奴が言えた義理か。お前、僕に嫁いできた癖にその自覚がまるっきりないだろう!」
「あ、あります!」
「なら、まず死に物狂いで僕に従え。そうすれば今度は僕の妻だと堂々と紹介してやる」
もう一度、教鞭をオルレアンはぱしんと鳴らす。
ひっと喉が鳴るのをアマレッティは息を止めて我慢した。
(パ、パフェがいけなかったのですね……スパイの事はばれていないようです……!)
それだけが救いだ。そして妻としてここに来たのだと分かってもらう為には、逆らってはいけないのだろう。
(でもでも、怖いです……!)
呼吸困難を起こしそうなアマレッティに、オルレアンが幼い顔を悦楽に歪めて囁く。
「一つ、良いことを教えてやろう。僕は花嫁なんて要求していない。僕が借金の代わりにメディシス王家に要求したのは、別の物だ」
「えっ」
驚いてアマレッティはオルレアンをまじまじと見つめる。繰り返し頭の中で言われた事を咀嚼して、理解しようと試みた。
「えっ……えっ……でも私は、借金の担保で……」
「ああ、それが現実だ。何の因果かお前は僕の妻になった、僕はそれを受け入れる。期待外れのアマレッティ。皆が待ち望んだ男子として生まれる事も叶わず、難産で母親を死に至らせ、姉のように聡明な女王にもなれず、何もできない馬鹿で役立たずなメディシス王家の第二王女。やることなすこと全てが期待外れな、僕の花嫁」
「で……でも、なら、どうして私はここに嫁いで……!?」
姉から聞いたのは借金の担保としての輿入れと、スパイだけだ――それ以外、アマレッティは何も聞いていない。
動揺するアマレッティを冷たく嘲笑して、オルレアンは話を続ける。
「さあな。たまには自分で考えて、答えを探してみたらどうだ?」
顔を鼻先が触れ合う程の至近距離に持ち込まれ、アマレッティは力なくへたり込んだ。そんなアマレッティを見て、オルレアンは満足そうに微笑む。
「僕は約束を守る男だ。僕直々に、お前を立派なヴァロア公爵夫人に調教してやる。もうお前は期待外れなどとは言われない人生を歩むんだ」
冷たく鋭利な灰青の瞳が、怪しい悦びを含めて笑った。
「僕に平伏せ。もうお前はお菓子の国のアマレッティだ――僕は売られた喧嘩は買う」
アマレッティの手が、恐怖のスケジュール一覧表を落とす。意味が分からない。話が理解できない。だが決して目を反らせない、これが現実だ。
(お、お姉様……私、もう生きてお会いできないかもしれません……)
ひらひらと舞う白い紙が、アマレッティの未来と一緒にばらばらに散らばって落ちた。