第3話「奥様へのプレゼント」
もう日が暮れ始めているのか、廊下には明かりがついていた。ただ、明るい割に人気はない。
スパイなのだから屋敷の間取りも覚えなければならないと思いつつ、長い廊下といくつも並ぶ扉に不安が募る。王宮や城の方が広い筈だが、そもそも王宮での行動範囲が異常に狭かったアマレッティは、この屋敷ですら迷宮に見えた。
(わ……私、ちゃんと玄関に向かっているのでしょうか……!?)
泣き出したくなったその時、アマレッティの耳が話し声を捕らえる。ばっと、アマレッティは廊下の壁に身を隠しながら、広々としたホールをのぞき見た。
「ですから、その件に関して僕からご報告する事はありません。メディシス王家の家紋のついた馬車など、叔父上の見間違いでは?」
「そんな訳ないだろうが! 確かに街から出て行くのを見たんだ。何かメディシス王家から回答がきたんだろう。王家の馬車を迎えもせんなどと、内密の事情があるからに決まっとる! 儂は心配しているんだ、お前はまだ子供だ。ヴァロア公爵なんぞまだ早い、務まらん!」
オルレアンの前に、小太りの男が居た。身なりは良いが、着ている物の色合いが派手で、シンプルな黒のテールコートを着こなしているオルレアンと対照的に見える。
(あれが叔父様でしょうか……)
シャンデリアが高く吊り下げられた大広間は、玄関先からの声もよく通してくれる。
「随分な物言いですね。父と母が事故死して一年、僕は僕なりに精一杯やってきたつもりですが。会社の業績も伸びている筈です」
「ふ……ふん、肝心なのは菓子屋の方なんかではないだろう!」
「……」
沈黙するオルレアンに、鼻の穴を膨らませていた相手が今度は媚びた笑みを浮かべる。
「だからな、オルレアン。儂は協力しようと言っておるんだ。ヴァロア公爵家はメディシス王家に資金を貸し出した事で、革命軍からも恨みを買っておる。敵が多すぎるんだ。このダミアン、可愛い甥っ子の窮地を見過ごすなどできん。お前がうちのパメラとの結婚を了承してくれれば、儂がお前の後見人になってや」
「五分お話しただけで三日三晩寝込まれるような令嬢は僕にはもったいないですね」
「む、娘は男慣れしとらんのだ。とにかく結婚――いやまだお前が十一歳だからな、婚約でもいい。とにかく儂の娘と一緒になってくれれば、儂もお前も双方共に万々歳だ」
結婚、という単語にオルレアンと結婚したばかりのアマレッティは衝撃を受けながら聞き耳を立てる。
(ど、どうしてオルレアン様はもう結婚していると仰らないのでしょうか……?)
少なくともこの話題はそれで終わるのではないか。まさか照れているのだろうか、新婚だから――と些か自惚れた事を考えてアマレッティは罪悪感を感じた。
(私、スパイなんてしているのに……でもお姉様は……)
じっとアマレッティが固唾を飲んで様子を窺っていると、オルレアンが喉を鳴らして一瞬笑った。ダミアンがびくりと作り笑いをやめる。そして次の回答は、アマレッティにさらなる衝撃を与えた。
「当分、結婚なんて御免ですが……分かりました、考えておきましょう」
「な……何、本当か!」
はしゃいだダミアンの声に押されたように、ふらりとアマレッティはよろける。
たっぷり十秒はその場に立ち尽くしていた。まだ玄関で揉めているオルレアン達の声は全く耳に入ってこない。
(――お姉様の言う通りでしたっ!)
憤然とアマレッティは顔を上げる。自分は危うくオルレアンに騙される所だったのだ。
ずかずかと廊下を逆戻りし、途中にあった階段を上がる。有名な画家の描いた絵画には目もくれず、ひたすら奥を目指した。
「一番奥のこの部屋が怪しそうです! 小説でもそうでしたっ」
廊下の一番奥にあった部屋の扉を音を立てて閉め、真っ先に目に入った書斎机に向かう。
「大事な妻だとか言っておいて……何て子供なんでしょう!」
スパイなんて悪いと一瞬でも思った自分はまさしく馬鹿だった。
書斎机の棚をアマレッティはがさがさと無意味に漁る。新しい企画の試算表に契約書に、棚からずらずら書類が出てくるが、アマレッティにはさっぱり内容が分からない。それでも構わずアマレッティは棚の中をまさぐった。
「絶対絶対、弱味を見つけてぎゃふんと言わせてやります……っ!」
これから浮気されまくるに違いないと、アマレッティはやり場のない怒りで何かを掴む。
「これですっ!」
とうっとかけ声と共に書類を引きずり出したものの、全くの当てずっぽうだったアマレッティは、その書類に見知ったサインがある事に驚いた。
「――お姉様からの手紙!?」
オルレアン宛になっているたった一枚の手紙を、アマレッティは握り締め、読み上げた。
「……借金を盾に脅しをかけてくる貴方の誠実な行動に感動して、私なりに誠意を返すことにしました。あくまで私の判断は、借金の担保だということをお忘れなく。後は貴方の知能次第です。健闘を心からお祈りしています……?」
具体的な内容は何一つない手紙に、アマレッティは首を傾げる。だが一つ、確信した。
(脅したって……やっぱりオルレアン様は悪い人なんですね、お姉様)
もう騙されない。そう決意した時、後ろから長い影が伸びてアマレッティにかかる。
「何をなさっているんです?」
「ひっ!?」
背後からの声に手紙を握り締めて、アマレッティは飛び上がらんばかりに戦いた。慌てて振り向いた先に、オルレアンが立っている。
聞かれもしないのに、アマレッティの口は拙く言い訳を始めた。
「わっ……わわ、私その、迷子にっ……!」
「そうですか。お待たせしすぎたんですね。ここは僕の書斎なんです」
窓から赤く差し込む夕日を背に受けたオルレアンは、返り血に染まったような妖艶な微笑を浮かべる。一気に怒りが冷えたアマレッティは、完璧なオルレアンの笑顔に震え上がった。
「すっ……すみません、勝手に出歩いてしまって!」
「大丈夫ですよ。見られて困るものなど何も置いてませんから。ああ、貴方のお姉様の手紙ですね」
ひょいとアマレッティから手紙を奪い返し、オルレアンは灰青の目を細める。アマレッティはとにかく話を合わせようと、何度も頷いた。
「そ、そうです、お姉様とオルレアン様はその、お手紙のやり取りをされるくらい仲が」
「良いように見えますか?」
ひらりと、オルレアンの手から手紙が書斎机の上に落ちる。答えられないアマレッティは大人しく口を噤むことにした。
「さあ、貴方のお部屋が用意できたのでご案内しますよ」
輝かんばかりに向けられた笑顔に疚しい所のあるアマレッティが逆らえる訳もない。
(バ、バレたでしょうか……でも何にも言われませんし……!)
オルレアンの後から廊下へと出る。先程から心臓が止まりそうだったり爆発しそうだったり忙しい。
スパイだと分かれば離縁されるだろう。そうなれば姉の期待にも応えられない。だがオルレアンが何も言い出す気配はない。アマレッティを問い質す気もなさそうだった。
「お待たせしました、ここが貴方の部屋です」
そう言って、アマレッティが忍び込んだ書斎から少し手前の扉をオルレアンは開く。
そして目に飛び込んできた部屋に、アマレッティは先程の失態を忘れ、思わず歓声を上げた。
「まあ……まあまあ、なんて素敵なんでしょう!」
急いで駆け込んだ部屋の中を、アマレッティはぐるりと見回す。
部屋は居室と寝室の広い二間続きになっていた。モンブランの形をしたランプが照らす部屋には、ティラミスの色合いをした可愛らしいキャビネットに、パフェの形に似通ったテーブル、クグロフを象った柔らかい一人がけのソファが用意されている。寝室にある寝台はシャルロットだ。天蓋から下りている薄く白いカーテンは、砂糖をまぶしたように見える。他にもクッションがマカロンだったりと、細かい部分までお菓子の国が再現されていた。
「まあ、これはシュークリームちゃん! トリュフちゃんのぬいぐるみまで……」
ベッドやソファに所々飾られたお菓子のぬいぐるみを確認して、アマレッティは微笑む。
キャビネットの中には、外出用から室内着まで様々な衣装が溢れんばかりに納められていた。アマレッティの馬車に詰め込まれていた衣装よりも、数も種類も遙かに多い。
「貴方はこういうのがお好きだろうと思って――お気に召して頂けましたか?」
「ええ、とっても! 嬉しいです、こんなにして頂けるなんて……!」
「実は他にもプレゼントがあるんです」
「まあ!」
これ以上何があるというのだろう。しゃがんで下さいと悪戯っぽく言うオルレアンの背丈に合わせて、アマレッティは萌葱色のドレスの裾を絨毯の上に落とす。
「目を閉じて」
「はい」
そうっとアマレッティの首に、オルレアンの手が伸びてくる気配がする。目を閉じているせいか、どきどきと高鳴る心臓の音がよく聞こえた。
(やっぱりこの方、いい人なのでは――)
懲りないアマレッティを罰するかのように、まずがしゃんと聞き慣れない音が響く。
「え……?」
首に感じた重みに、そろりと指を伸ばす。冷たい金属の感触がした。




