後日談2「実家に帰らせていただきます・7」
いつもと違う香りがする。
これは書類とインクとコーヒーと――オルレアンの部屋の匂いだ。まばたいて、上半身を起こす。
「ああ、起こしたか」
すらりと長身の青年が、窓から差し込む日の光を背に立っていた。
さらりとした黒髪と、端正な顔立ち。記憶の中にない人物の姿だ。ただ、コーヒーと新聞をテーブルに置く仕草に忘れるはずのない癖を感じて、アマレッティはもう一度まばたく。
「まさか……オ、オルレアン様……ですか?」
「夫の顔を忘れるような妻にしつけた覚えはないぞ」
「いっいえ! いえ、でも、私の旦那様は」
もっと小さかったはず、と視線をさまよわせたところで、ついと指先で顎を持ち上げられた。
精悍な顔が、唇が触れる直前まで近づく。幼さなどみじんも残していない、男の人の顔だ。けれど意地悪く細められた青の瞳は、確かに夫の眼差しを残している。
「なんだ。まさか僕以外にお前の夫がいるとでも?」
「そ、そんな違います! アマレッティはオルレアン様一筋です」
「でも今一瞬、他の男のことを探しただろう」
軽く押されただけで、アマレッティの体がベッドに逆戻りした。
「夫の寝台の上で、なんて悪い妻だ」
そのまま覆いかぶさってくる大きな影に、アマレッティは頬を赤らめる。
(大人になられたんだわ、オルレアン様。どうしましょう、こんなにかっこよくなられるなんて)
胸のときめきが激しすぎて死にそうだ。恥ずかしさで顔を両手で覆うと、押し殺すような笑い声がした。
「どうした、昨夜のことでも思い出したか?」
「ゆ、ゆうべ……ですか」
「それも忘れたのか。朝からお仕置きが必要そうだな?」
首筋をなでられて初めて、肌を隠すものがシーツしかないことに気づいた。でもアマレッティの両手はオルレアンの手で頭の上にひとまとめにされている。
大きな男の人の手だ。抵抗なんてできない。
「な、何をなさるんですかオルレアン様。そ、そうです朝ですから……お仕事は」
「妻を愛するのも夫の大切な仕事だ。いや今はお仕置きか?」
「そんな、お仕置きなんて……アマレッティは何も悪いことはしてません。ひ、ひどいことはしないでください……」
お仕置きという言葉を大人のオルレアンが口にすると、途端に甘くうずくのはどういうことだろう。ひどくはしたないことのような気がして、頬を赤らめながら懇願すると、オルレアンが加虐的に笑む。
その顔が唐突に幼くなった気がして、アマレッティは再度まばたいた。
「悪いことはしてない? プリン・ア・ラモードを食べようと寄り道しただろう」
「えっ。な、なぜそれを」
「そして僕より帰りが遅くなったな」
「そ、そうなんですか!?」
「何より」
子供のオルレアンが、両手でアマレッティではなくシュークリームちゃんを持っていた。青ざめるアマレッティの前で、ぎりぎりとシュークリームちゃんが力いっぱい引っ張られている。縫い目の糸がぎりぎりと伸び、中の白い綿は今にも溢れ出しそうだ。
「僕の許可なく、屋敷に帰ってこないとはどういう了見だ……!?」
「ち、違いますオルレアン様!! シュークリームちゃんを引き裂かないでください!! アマレッティはすぐにおうちに帰りますからっ……!!」
目が覚めた。
「シュ、シュークリームちゃん!」
ばっと起き上がったアマレッティはぐるぐるとあたりを見回して、ほっと息を吐き出す。
(ゆ、夢……夢です。よかった。夢……でしょうか)
冷たい石畳の上から、鉄格子に目が向く。薄暗く、光量は高い場所にある小さな窓から差し込む光のみだ。周囲の光景があまりにもいつもと違うことに目を真ん丸にしたあとで、叫んだ。
「ア、アマレッティが牢屋に閉じ込められています!」
「なんだ、起きたのか」
急いで立とうとすると、じゃらりと嫌な音がした。足枷の鎖だ。記憶の前後がやっと回復してきたアマレッティは、鉄格子の向こうにいる男に言ってみる。
「わ、私、オルレアン様の鎖でないと嫌です……! 取り替えてください」
「はあ? 鎖を取り替えろって、なんだそりゃ」
「オルレアン様のがいいんです。オルレアン様からもらってきてください……!」
「うっせーないいから黙ってろ! お前はヴァロア公爵家の人質なんだからな」
「ひとじち」
繰り返して、意味を咀嚼して、鉄格子を両手で持った。
「そんな、駄目です! ひ、人質ってことはつまりオルレアン様の足手まといですか!?」
脳裏に高笑いしているオルレアンの顔が浮かぶ。
(ああ、駄目です。おしおきされます……ひょ、ひょっとしてさっきのは正夢……!?)
「だとしたら、もうシュークリームちゃんは……!」
うなだれるアマレッティに、見張りの男はふんと笑った。
「ようやく状況が分かったか。今、ヴァロア公爵家にメディシス王家を裏切るよう指示してる」
「お、お姉さまとオルレアン様を喧嘩させるおつもりですか!?」
「喧嘩なんてヤワなもんじゃない、戦争だ」
顔面蒼白になって、アマレッティは項垂れる。
「戦争……わ、私お姉さまにオルレアン様の弱点を教えてしまいました……お菓子の軍団がヴァロア公爵家に向かったらどうしましょう!」
「はあ?」
「で、でもオルレアン様がただでやられるわけがありません……!」
その間にどれだけのお菓子が無残に破壊されるだろう。涙目でその悲劇を憂えるアマレッティに、変な顔をしていた見張りの男は調子を取り戻したようだった。
「そりゃあ、簡単にヴァロア公爵にやられてもらっちゃあ困る。ただ、ヴァロア公爵がお前を見捨てる可能性もあるけどなあ。ヴァロア公爵は代々冷血漢って噂だし――」
「お、おい大変だ! 今、ヴァロア公爵を偵察してたやつらがもどってきてっ」
息を切らしながら走ってきた男は、アマレッティが聞いていることにもかまわず怒鳴る。
「オルレアン・ヴァロアとマリベル王女が結婚した!!」
(そんな)
「ヴァロア公爵家が穏健派についたっていうのか!?」
「今、上は大騒ぎで――とにかくヴァロア公爵夫人を連れてこいって。絶対手荒にするなよ、賓客扱いだ」
「な、なんで突然」
「その女が死んだら、マリベル王女が本当にヴァロア公爵夫人になっちまうだろうが! オルゴーニュじゃ一夫多妻制だが、メディシス王国はそうじゃない」
(そんな)
「わ、分かった。お、おいお前――いや、公爵夫人、か」
「もういい、俺がやる。――ヴァロア公爵夫人」
「あ、あ、あ、アマレッティは、アマレッティは……」
ぶるぶる震えながら、手を差し出される前にアマレッティは立ち上がった。
「アマレッティは、今度こそ実家に帰らせていただきます!!」




