第2話「奥様はスパイ」
新作だというクレーム・ブリュレが滑らかな舌触りで、アマレッティの緊張した心をふんわり解してくれる。座り心地の良い椅子の上で、アマレッティはほうと感嘆の吐息を零した。
「きっとあのお空に浮かぶ雲さんはこんなお味なんですね……美味しいです!」
「雲の味は分かりませんが、喜んで頂けて良かった。甘い物がお好きだとお伺いしていたので」
「はいっ大好きです! 幸せです……!」
元気いっぱいに答えたアマレッティに、オルレアンは喉の奥で笑いを堪えているようだった。馬車の中からずっとこの調子だ。オルレアンは気さくにアマレッティに話しかけ、アマレッティが出す回答を面白がる。
(ああ、どうしましょう……すごく、すごく幸せです。いい人です!)
オルレアンは、王宮で会ってきたどの人とも違う。意地悪も陰口も言わない、アマレッティを見て困った様子も見せない。ちゃんとアマレッティの目を見て、話を理解しようとしてくれる。その事にアマレッティは感動すら覚えていた。
「オルレアン様はお優しいんですね」
「そんなことはありませんよ」
「いいえ! オルレアン様はまるでお菓子の国の王子様です……!」
きらきらと目を輝かせたアマレッティはもう一口、甘いクレーム・ブリュレを幸福感と一緒に口に含んだ。
(こんな方がお姉様を困らせるなんて、信じられないです……はっ)
そこまで考えて、アマレッティは思い出した。
姉から繰り返し注意されていたのだ――ヴァロア公爵の見た目に、愛想の良さに騙されるなと。
(まさか、これは作戦……優しいのもこのクレーム・ブリュレが美味しいのも! でも助けて下さったし……)
迷いが顔に出たアマレッティに、オルレアンが小首を傾げた。
「どうされました?」
「い、いえ。旦那様が怖い方だったらどうしようと不安だったのを思い出して……」
「お互い知らない者同士です、肩の力を抜いてゆっくり分かり合っていきましょう」
「は、はい……わ、私は、その、噂をお聞きになった事があるかもしれませんが……」
「ああ、『期待外れのアマレッティ』ですか?」
的確に心の奥を遠慮なく突き刺され、アマレッティはスプーンを持ったまま固まった。
足を組んで背もたれに体重を預けたオルレアンは、笑顔を見せる。
「そんなに緊張されなくても大丈夫です。噂は所詮噂ですしね」
「……え、あの……でも……」
「こうして貴方を見て僕は確信しました。貴方は必ず、立派なヴァロア公爵夫人になる」
吃驚したアマレッティは、綺麗に焦げたキャラメリゼをスプーンで割ってしまった。
ぱきんと音が鳴った後で、オルレアンが頬杖をついてアマレッティに微笑みかける。
「もう『期待外れのアマレッティ』などとは誰にも言わせませんよ、この僕がね」
「……あ……有り難う、御座います……」
今まで誰にもそんな風に断言された事はなく、ただ呆然としてアマレッティはお礼を言った。
オルレアンは終始笑顔で、アマレッティを見つめている。
(……な……何でしょう……この空気が重い感じはっ……!)
笑顔なのに怖いという事があるのだと、威圧感を感じてアマレッティそのまま動けなくなった。
その呪縛を、客間の扉が破ってくれる。アマレッティはこれ幸いとばかりに開いた扉に向けて顔を動かした。
「失礼致します、坊ちゃま」
「何だ、ラム。用意はできたのか?」
「はい。ですがその前に、お客様が」
「何?」
燕尾服姿の白髪交じりの使用人に、オルレアンは主人らしい態度で目を向けた。
「叔父様がお見えです。メディシス王家の紋章がついた馬車を見たと仰っておいでで」
「わっ……私の馬車ですか!?」
思わず立ち上がったアマレッティの前で、オルレアンが初めて溜め息を吐いた。
「時間の無駄遣いが好きだな、叔父上は」
「どうされますか」
「あ、あの……私の馬車……」
「落ち着いて、座って下さい。僕が話を聞いてきます、僕の領地で起こった事ですから」
「では、ここにお通ししても?」
「玄関先で十分だ」
組んでいた足を解き、オルレアンがすっと立ち上がる。アマレッティは思わずオルレアンに声をかけた。
「あ……あの、私、ご挨拶しなくて良いのでしょうか。叔父様に」
「大丈夫です、気になさらないで下さい。それに貴方にはあまり聞かれたくない話なので」
「わ、私に聞かれたくない話ですかっ」
ヴァロア家の秘密だろうか。思わずアマレッティの口調にも眼差しにも熱がこもる。
すると、オルレアンは唇の前に人差し指を立てて、薄く笑った。
「何より貴方のことはしばらく秘密にしておきたいのです。大事な僕の妻ですからね、お披露目はどのタイミングにするか、十分に吟味したい」
大人びた仕草に、アマレッティの疑問も顔も一気に茹だってしまう。もじもじして俯いたアマレッティに、オルレアンは優しく告げた。
「馬車のことは僕に任せて、少しここでお待ち下さい。ラム、お前は用意を急げ」
「宜しいのですか?」
そう言って、ラムはアマレッティを見た。きょとんとするアマレッティに背を向けて、オルレアンは端的に答える。
「言っただろう。僕の妻だ、構わない」
「……。左様で御座いますか。ああ、ですが紅茶のお代わりだけでもご用意しませんと」
好きにしろと素っ気なく言い捨てて、オルレアンはさっさと出て行く。
どうして良いか分からないアマレッティは、ラムと呼ばれた使用人が紅茶を淹れ直してくれても立ったままでいた。
「奥様、どうぞおかけになって下さい」
「えっ……奥様?」
聞き返したアマレッティに、ラムが穏やかに頷く。我に返ったアマレッティは、こくこくと頷いて椅子に座り直した。
(そ……そうです。私、スパイですけど奥様でした……)
新鮮な響きだった。落ち着かずそわそわしていると、ラムが優しく話しかけてくれる。
「ご挨拶がまだで御座いました。私、ラムと申します。家令を任されております。何か不便が御座いましたら私めに何なりと」
「あ……有り難う御座います」
「他の使用人も後でご紹介しましょう。私を含めて六人になります」
「ろ、六人!? たった六人ですか?」
到着した時に見上げた凸型の屋敷は、とても使用人六人では回しきれない広さを構えたものだった。アマレッティの驚きに、ラムはあくまで穏やかに答える。
「通いや日雇いなどの期間限定の使用人で十分な補充を行っておりますので、屋敷の管理についてはご安心下さい。ですがお抱えは六人です。屋敷の中は私と、女中のマリーとベリーという双子が主に担当しております。他に御者のラート、庭師のカルト、料理長にポワゾンという男達がお抱えの使用人として屋敷に住み込んでおります」
「まあ……でもとってもお屋敷は綺麗です」
そう言って、アマレッティは客間を見回す。
通された時から客間は暖炉で程良く温められていたし、整えられた庭が見える窓もしっかり磨き上げられている。テーブルに活けられた色取り取りの花は鮮やかだ。どこにも手抜きはない。
「皆さん、とっても優秀な方達なんですね」
「そう言って頂けると光栄です。とはいえ、いつまでお仕えできるか」
「え?」
「オルレアン様とお話は弾みましたか」
穏やかな笑みを浮かべたまま、ラムは話を変えてしまった。
(……お年だからとか、そういう事でしょうか?)
白髪交じりのラムの頭を一瞬だけ見て、アマレッティは大人しく答えた。
「はい。オルレアン様がとても気を遣って下さって……どういう方なのかまだ分からなくて、どきどきしてますけれど」
「オルレアン様のお人柄は奥様がこれから存分に思い知る事になると思いますよ」
「えっ思い知る……」
物騒な響きを伴う単語を反復したアマレッティに、ラムは頷き返した。
「ええ、思い知らされると思います」
「……そ、れは一体……!?」
「いけない、口がすぎてしまいました。では私はこれで」
「えっあの」
「奥様はここでお待ち下さいませ」
ラムは何も種明かしはせず、優雅に辞儀をして部屋から出て行ってしまった。
ぽつんと取り残されたアマレッティは、とりあえず食べかけのクレーム・ブリュレをスプーンですくう。
(……どうしましょう……)
クレーム・ブリュレを食べ終え、紅茶が冷め始めても、誰も帰ってくる様子はなかった。六人しか居ないという屋敷だ、人手が足りないのかもしれない――と考えて、アマレッティはぎゅっと拳を握った。
(こ……これはチャンスなのでは。そう、お手洗いを借りたくても誰も居なくて、迷子になってしまったと言えば……!)
そうと決まれば、行動は早い方がいい。
馬車の行方も気になる。まずは玄関に向かい会話を盗み聞きしようと、アマレッティは隅々まで絨毯が敷き詰められた客間を出た。