第26話「旦那様と誘拐犯」
――アマレッティ、約束よ。
幼い自分が、姉の胸の中でまだ泣いている。
怖い。皆が怒っているのに、どうして良いか分からない。全ての感情と疑問を涙にして泣いている。
――貴方の立場が危ないわ。お姉様は心配なのよ。だから約束して頂戴。もう二度と、人前で剣を振るわないで。
何だって良かった。
もう二度と、悲しい目に遭わないで済むなら。頑張ってみたけれど駄目だった現実を思い知るくらいなら――また失敗するくらいなら。
だから泣いている子供は、姉と小指を絡めてその意味も考えず約束を交わす。それは、自分を守ってくれるおまじないだ。
でもねと、十六歳になったアマレッティは、何かを捨てた子供に教える。
(失敗を怖がらずに、たった一人で頑張っている子供だっているんです……)
春になると王宮に巣を作りに来る小鳥の囀りが聞こえる。ぼんやりと目を開いたアマレッティは、窓から差し込む日の光を思わずシーツで防ごうとして、がばっとシーツごと起き上がる。
「オルレアン様!?」
居ない。ベッドの横にも、仕事をしていた机の前にも。
ほんの半年前まで暮らしていた部屋に、アマレッティは裸足で降り立つ。
「どこに行かれたのでしょう、まさかお仕事……でもそれなら、何か伝言くらい……」
ぱたぱたとアマレッティは小走りで、オルレアンが仕事をしていた自分の机へ向かう。その途中で、オルレアンが使っていたペンが床に転がっている事に気付いた。
それを拾い上げたアマレッティは、少し書類がばらけた机の上に置こうと視線を動かした。
――オルレアンは預かった。返して欲しければ、王宮の一番端にある奥の廃園に来い。誰かに報せたらオルレアンの命はない。
「なっななななななな!?」
わなわなと震える手で、アマレッティは机の一番上にあった脅迫状を取り、もう一度読む。
何度読んでも文面は同じだった。
「おっ……オルレアン様!!」
悲鳴を上げたアマレッティは転がるようにして寝間着のまま部屋を飛び出す。
ひらりと、机の上から脅迫状が春の風に吹かれて落ちた。
馬鹿を相手にすると頭痛が起きるという症状には随分慣れてきたつもりだったが、まだまだ馬鹿の世界は広いようだ。
天井をなくした支柱に縄で括り付けられ、更に後ろで両手首を縛られた念入りな格好で、オルレアンは石畳の上に座らされていた。
小鳥が歌う木漏れ日の向こうに、晴れ渡った青い空が見える。太陽がゆっくりと真上に向かう前の、長閑な春の朝が眩しい。
「……日がしっかり昇ってから誘拐する馬鹿がどこに居る。わざわざこっちは徹夜で待ってやったのに……」
「? 何を言う、夜は眠る時間だ! そうだろう、ヴァリエ」
「その通りで御座います坊ちゃま! 斬新な作戦に私は感動しております……!」
「ふはは、もっと僕を褒めて良いぞ!」
言葉の無駄遣いをしてしまった自分に、オルレアンは乾いた笑みを浮かべた。石膏でできた腰掛け椅子に座って、チェルトが高杯に盛られた林檎を取って囓る。
「羨ましいか? お前は朝ご飯を食べていないだろう! 頼むなら分けてやっていいぞ」
無視するとチェルトは泣き出しそうな顔になった。
「な、何だその態度は。お前、誘拐されたんだぞこの僕に! 何かこう、命乞いとかないのか!」
「……」
「無視するなぁ!」
涙目の馬鹿は放って、オルレアンは両手首を擦るように動かしてみる――が、びくりとも動かなかった。支柱と身体をまとめて縛り付ける縄にも、緩みはない。
(自力での脱出は無理か)
無駄な労力は払わない。体力は温存しておくに限る。何せ、徹夜明けだ。
完璧に日が昇り、今日は何も仕掛けてこないかと眠ろうとした所で、オルレアンは誘拐された。誘拐したのは、チェルトの杯にせっせと水を注いでいるヴァリエだった。アマレッティの部屋の前に居る筈の見張りは居なかった。買収でもしたのだろう。
しかし、この城で起こっている出来事ならばレジーナがいずれ把握する。そうすれば、レジーナは手を打たざるを得ない。知らぬ振りをしたくても、オルレアンが誘拐された場所が王宮である以上、女王として知らなかったではすまないからだ。
(まさか兵士に取り囲まれてこの馬鹿が犯罪者として掴まって、振り出しか)
指輪の行方が分からないのなら、指輪を持っている相手に持ってきてもらえばいい。
それがオルレアンの取った策だった。人の出入りが多い博覧祭、使用人も連れずにいれば相手は何らかの尻尾を見せるだろう。その読みは外れていなかった――相手がとてつもない馬鹿だったという悲しい事実を除いて。
「まさか第二王女の花婿で賓客扱いの僕を白昼堂々王城内で誘拐するとはな……で、どうするんだ。拷問でもするのか」
「おっ何だようやく怖くなってきたか!」
「感謝しろ、チェルト坊ちゃまは優しい御方だ。拷問などなさらない!」
「分かっているじゃないかヴァリエ。拷問なんて馬鹿のする事だ、世の中必要なのは頭さ」
「お前が言うな低脳」
こめかみをとんとんと指で叩いたチェルトに思わずオルレアンは突っ込んだ。チェルトが顔を真っ赤にする。
「て、て、低脳だと!?」
「坊ちゃま、挑発に乗ってはなりません! こ奴は所詮見ての通り、動くこともできない動物以下の存在……!」
「そ、そうかそうだな! ようしお前に僕のすごさを見せてやる!」
馬鹿のすごさはもうお腹いっぱい見せて頂いたと、無視しようとしたオルレアンの灰青の目が見開かれた。演技ではないオルレアンの驚愕に、チェルトが満足して喜ぶ。
「ふふふ。お前が欲しいのはこれだろう。これが僕が六年前の博覧祭で手に入れた、ヴァロア家の指輪だ!」
チェルトが目の前に突き出した指輪を、オルレアンは凝視する。当主の指輪は、二つ、夫婦用として対に作られている。鷲が翼を広げた形で夫用のものに左翼を、妻用のものに右翼が純金に刻印されているのだ。現にオルレアンが持っていた指輪には左翼の刻印が彫られていた。
(右翼だ――間違いない)
まだまだ自分は馬鹿のすごさを見せてもらっていなかった。例え指輪の持ち主が分かったとしても、肝心の指輪の保管場所が分からないのが難題なのだ――それをわざわざ持ってきて頂いて、これ程有り難い事はない。
「くくく……そうか、僕は運が良いな」
「な、何だ? いきなり笑い出して」
「いや失礼した。お前に敬意を払いたくなったんだ、チェルト君」
「そ、そうか?」
ぱっとチェルトの顔が喜色満面に染まる。
操りやすい馬鹿だ――どうしてあの口八丁手八丁なレジーナがこの男から指輪の在処を聞き出さなかったのか、不思議なくらいだった。余程、妹を狙う邪な態度が気に入らなかったのか。
(――待て)
油断して緩みかけた警戒を、オルレアンは取り戻す。確かにレジーナは妹を溺愛している。だが国の中枢を担っているあの女が、そんな甘さだけで判断を狂わせるだろうか。
何かあるのだ。オルレアンが直感的に見たのはヴァリエだった。長身の、チェルトに仕えているという凄腕の騎士。
そういえば、馬車を盗んで御者を殺し、オルレアンの書斎を探って放火したのは、メディシス王国にいまだしつこく残っている革命軍だった。
(ヴァロア公爵家がメディシス王家に資金を貸したのはもう随分前だ。革命が終わって三年、今になって嫌がらせをしてきた理由があるとすれば――指輪)
チェルトが革命軍の一員ではあり得ない。
あの革命は、身分の平等を訴えてなされたものだ。貴族や王族、特権階級身分を憎むあの集団が、王族であるチェルトを受け入れる事はまずあり得ない。
(――だとすれば)
オルレアンは慎重に、馬鹿にかける言葉を選ぶ。
「……ライバルである僕に指輪はここだと見せるのは、とても勇気がいることだ」
「そ……そうだろう! 僕は、すごいんだ」
「ああ。両親が死んで、指輪の持ち主がヴァロア公爵になるチャンスが生まれてもう一年が過ぎた。このゲームで僕の相手が有利な点は、指輪の持ち主が僕だと最初から分かってる所だ。にも関わらず全く動きがないのは、相手は指輪について何も知らないのか、知っていて動けない腑抜けかと思ったが――」
チェルトは後者だ。一瞬泳いだ視線がそう物語っている。
柱に背を預け、オルレアンは朗々と心地良い声で語る。
「どうやら違ったようだ。是非、その指輪をどうやって手に入れたのか、今まで誰がどこに保管していたのか、聞かせてもらえないか。調べても分からなかったものでね」
「ふふん。これはな、六年前の博覧祭での優勝賞品だったんだ! 優勝賞品を何にするか話し合ってる王様とレジーナの話を盗み聞きして、僕はこれを手に入れるって決めた。アマレッティの替え玉がバレたせいで一度は失敗しそうになったけど、ヴァリエが僕への忠誠の証としてくれたんだぞ、良いだろう。そして今日この日まで、僕が一人で守り続けてきたんだ!」
胸を張るチェルトに、オルレアンは確認する。
「じゃあヴァリエとやらは指輪の意味を知らずお前に献上したのか。そして今の今まで指輪の在処はお前しか知らなかったんだな」
「ああ、ずっと隠したままだった! レジーナにだってバレなかったんだぞ。けど、今日は僕がヴァロア公爵になる日だから、さっき土の中から掘り返した! 大変だったんだぞ!」
「土の中……」
「オルレアン様! オルレアン様、ご無事ですか!! アマレッティです! 一人で来ました、誰にも言ってません。だからオルレアン様を返して下さい……!」
オルレアンは痛感する。
まだまだ自分は馬鹿のすごさを分かっていない。




