第1話「十一歳の旦那様」
親愛なるお姉様へ
お姉様、お元気ですか。アマレッティはヴァロア公爵領に到着しました! 今、憧れのヴァロアスイーツ直営店のカフェでこのお手紙を書いています。直営店カフェ限定のケーキの乗ったパフェを注文しました! ヴァロア公爵領に来たら絶対にこれを食べるって決めていたんです。月替わりで一日二十品限定なの、朝から並んで整理券を頂きました。
ヴァロア公爵はもう、本当に本当に凄いのです! お菓子の国は本当にあるんですよ、お姉様。いつかお姉様と一緒にここでお茶をしたいです。
王都を離れてもう半月、最初はお姉様に会いたくて寂しくて馬車の中で何度も泣いたけれどもう大丈夫です。パフェを食べたら立派にスパイをしてみせます。ここに来る途中、お姫様が隣国にスパイをしに行くお話を読みました。どきどきハラハラの素敵なお話です。あんな風に格好良く私も頑張ります。十一歳の子供なら大丈夫怖くない!って言い聞かせてます。
お姉様も頑張ってお金を返すんだもの。アマレッティだって頑張ります。
ただ、お菓子につられてしまわないかが心配です……だって相手はヴァロアスイーツなんです。しかも直営店のカフェには限定のパフェだけじゃなく、月に一度だけ、プリン・ア・ラ・モードっていう幻のメニューが出るそうなんです……! さっきお隣の人がそうお話してました。プリンとアイスクリームと果物、クリームも乗ったとっても豪華なものだって……しかもしかも、毎回限定のアクセサリーがついているんです! いつメニューになるのかも分からないんだそうです。
もしそのプリン・ア・ラ・モードを食べさせてやるから正体をみせろって言われたら私、どうしたらいいんでしょうか。そこだけが本当に心配です。想像しただけで負けそうです。
もうそろそろパフェがくると思うので、おしまいにします。またヴァロア公爵家のお屋敷に着いたらすぐお手紙しますね。お姉様もお手紙して下さい。
急いで王都を出たせいで挨拶できなかったチェルト君、ヴァリエ騎士団長にも宜しくお伝え下さい。
そうです、これは重要な作戦を書いたお手紙なので、読んだ後は燃やして下さい(でも燃やされると悲しいです)
丸い円の形をして一番上に飾られたスフレチーズケーキを、ベリーソースのかかったクリームと一緒にパフェスプーンで口に運ぶ。
ふわっとしたスフレの食感と重くないよう配慮された程良いクリームの甘みが、ベリーソースの上品な酸味と一緒に口の中に溶けて広がった。
「……!!」
美味しいという言葉を口に出すのも勿体ない。ホットケーキの焼き加減を忠実に再現した椅子のクッションの上でアマレッティは悶える。テーブルも椅子と同じくホットケーキを象っているのだろう。縁を柔らかい色味で囲み中央を濃い焦げ茶の木材で作られたテーブルに、ばんばんと手を叩き付けたくなる衝動を目を閉じてどうにか堪えた。
(何て幸せなんでしょう……!)
カフェのオープンテラス、柔らかい秋の日差しの下に席をもらったアマレッティの眼前には、お菓子の国があった。
プレーンとカカオのクッキーを交互に敷き詰めたような煉瓦の道。そこに等間隔に並ぶ街灯のランプは、秋空につんとそっぽを向いた生クリームの形をしていた。夜、内側から火を灯されればバタークリームのように柔らかい色合いが浮かび上がるのだろう。その街灯の下、大通りに面する住居区の壁はすべてワッフルに似せて煉瓦が組み立てられていた。
そして住居区と共にずらりと並ぶ菓子店は、板チョコレートを型にした扉やビスケットの吊り看板で賑やかに客を呼び込んでいる。
「噂には聞いていましたけれど、これがお菓子の国なのですね……!」
建物から大通り、ベンチまで全てのディティールが菓子を模している。ヴァロア公爵領がお菓子の国と謳われるのが一目で納得できる光景だった。
勿論、建物だけではない。大通りに面して並ぶ菓子店は高級感溢れる名店から素朴さを大切にする人気店まで揃っており、その味が他に随を許さないこその謳い文句である。
(ああ、あそこはかの有名なタルト・タタンのお店です……! あっちはティラミスならばここと言われている――まあ冬季限定商品ですって! どうしましょう、買っても怒られないでしょうか。あのヴァロアスイーツがこんなにたくさん……!)
自分は本当にヴァロア公爵領に辿り着いたのだ。その事を実感しながらアマレッティはパフェを綺麗に食べ終えた。アイスクリームで冷えた身体が、秋風に身震いした。日が沈めばもう寒くなる冬支度の季節だ。羊毛で織られたもこもこの外套を頭から被って、名残惜しみながら席を立った。
馬車を随分待たせてしまっている。何より、早くヴァロア公爵邸に向かわねばならない。
ブッシュ・ド・ノエルのベンチでクレープを頬張っている母子を羨ましく思いつつ、アマレッティは会計に向かう。会計係の店員が代金を読み上げ、アマレッティは大きなリボンと小さな真珠をあしらったお気に入りのバックの中をまさぐった。
(あら? あらら? ハンカチ、お手紙セット……お財布がないです……馬車に置き忘れたんでしょうか)
首を巡らせて、アマレッティは馬車がある筈の店外を見る。そして硬直した。
店の前には、白鳥型のシュークリームの模型が飾られている噴水広場がある。その噴水前に停まっている筈の馬車がない。
「お客様。どうされましたか」
はっと、アマレッティは店員に向き合う。
少ないながら持参金も一緒に詰め込まれたアマレッティの馬車は、一台きりだ。内密に輿入れしなければならないという姉の言いつけで、アマレッティの輿入れは貴族のお忍び旅行のように簡素だった。そのたった一台の馬車がない。そもそも今、噴水前に馬車は一台も止まっていないので、アマレッティの馬車がないのは明白だった。
財布も馬車もない。財布は置き忘れたのだとしてもどうして馬車まで――だが今の問題はそこではない。アマレッティにお金がない事が問題なのだ。
食事をしてその代金を払わない。それを人は食い逃げと言う。
アマレッティの頭の中は一気に真っ白に染まった。
「あっ、あの、あのっ違うんですこれは……お財布が、その……馬車がっ」
「お客様?」
「お金がない訳じゃないんです!」
涙目で主張したアマレッティに店員は目を瞬いた後で、素早く他の店員と目配せした。
その仕草がますますアマレッティを焦らせる。
「わ、私、怪しい者ではありません……!」
「落ち着いて下さいお客様。何かご事情がおありなら、別室でお伺いしますので……お困りならご家族に連絡致しますが」
「えっ……その、私……」
姉の顔が咄嗟に浮かんだが、姉は既に半月分ほど遠い場所に居る。他に頼れるのは婚家のヴァロア家だが、今、名前を出せば第一印象が悪くなるなんてものでは済まない。そしてメディシスという権威ある名前を出す事もアマレッティにはできなかった。
また言われてしまう――これだから『期待外れのアマレッティ』はと。
思わず後退ったアマレッティを店員が鋭い目で牽制した。
「ご、ごめんなさい違うんです……っ」
「でしたら、その」
「お待たせてすみません、アマレッティ」
名前を呼ばれたアマレッティは、半泣きで振り向いた。
男の子が一人、すらりと上品に立っていた。
夜の帳が降りた黒髪と深い灰青の瞳、品のある秀麗な顔立ち――それでいて頬や唇の形はふっくらと子供らしく愛らしい。銀のカフスが並んだ黒のテールコートは、一目で高級品だと分かる。
まるで黒猫みたいだと、アマレッティは思った。
歩き方一つにも気品を備えた、誰にも飼われない黒猫だ。
「会議が長引いてしまったんです。退屈だったでしょう。ああ、勿論ここのお支払いは結構ですよ。僕がもちます」
男の子は黒と白のタイルが交互に混ざった床の上を、膝小僧の出ている足でアマレッティに向かって真っ直ぐに歩いてきた。
「えっ? あ、あの……私……?」
「オーナーのお知り合いでしたか」
「ああ。さあ、こちらへ」
アマレッティの手を取った男の子は、そのまま店の外へ繋がる扉を押す。客の出入りを報せる為の鈴が、済んだ音を鳴らした。
「あっあの、お会計がまだ……!」
「大丈夫です、僕の店ですから」
「ええっ?」
慌てているのはアマレッティだけだ。アマレッティを鋭く見張っていた店員もいってらっしゃいませと頭を下げている。
(ど……どうなってるんでしょう……? でも、助けて下さったんだわ……何て優しい男の子なんでしょう……!)
アマレッティは噴水の前まで辿り着いた所で、勢いよく頭を下げた。はらりと外套が頭から落ち、胡桃色の髪が零れ出る。
「あ、有り難う御座いました……! すみません、私、お財布も馬車もなくなってしまって吃驚して……」
「馬車がなくなった?」
「は、はい。お店の前で待って頂いていたんです……どこにいってしまったんでしょう」
改めて周囲を見渡してみても、やはりアマレッティが乗ってきたメディシス王家の紋章が刻印された馬車は見当たらない。
「馬車は御者に盗まれたんでしょうね」
「ええっそんな……それは違います、とってもいい人でした。ここで待っていて下さるってお約束したんです。き、きっと私がお待たせしすぎたから……私がまた何か失敗してしまったんです……!」
馬車がなければヴァロア公爵邸に辿り着く事もままならない。ほんの少しと言い訳してパフェを食べていた罰だろうか。アマレッティの蜂蜜色の目がたちまち潤む。
そこにすっと、四つ折りに畳まれた白いハンカチが差し出された。
「災難でしたね」
心遣いに慰められ、アマレッティは礼を言いハンカチを受け取る。目の縁を押さえている間に、男の子の静かな物腰はアマレッティに伝染し、不思議と気分を落ち着かせた。
(いけません、こんな事で挫けては……!)
頑張ると決めたのだ。きゅっと唇を引き締めてから、アマレッティは男の子に向けて笑顔を作り直した。
「ご親切にして頂いて有り難う御座いました。後からになりますけれど、お代金はちゃんとお支払いしたいし、お礼もしたいです……どうか、お名前を教えて下さい」
ハンカチを返しながらアマレッティは尋ねる。すると男の子は灰青の涼しい瞳を細めて、笑った。
「僕の顔をご存知ないのも無理はない。急な話でしたからね――ようこそ、僕の花嫁。僕がオルレアン・ヴァロアです」
名乗られた名前をアマレッティは脳内で繰り返す。繰り返して思わず叫んだ。
「え……ええっ!? だって――あの、お姉様の言ってらした、子供の……!?」
初めて見るオルレアンの立ち振る舞いは、姉の罵倒からアマレッティが勝手に思い描いていた人物像とは全く似ても似つかない。
(こ、こんなに優しい男の子がですか……!?)
ぱくぱくと空気を食べるアマレッティの驚いた顔が面白かったのか、オルレアンは悪戯っぽい目つきでアマレッティの両手を取った。
「子供はお嫌いですか」
「いっ……いえっただ、その」
「ですが嫌だと言われてももう遅い。逃がしませんよ――ヴァロア公爵領に足を踏み入れた以上、貴方は僕の妻だ」
灰青の目を伏せて、オルレアンはアマレッティの手に唇を近づけた。
指先への小さなキスにかあっとアマレッティの頬が火照る。十一歳の子供とは思えぬ色付いた所作だった。
(ど、どうしましょうどうしましょう、私、大人なのに……!)
面食らってあわあわしているアマレッティに微笑んだオルレアンは、屋敷に案内しますと、チョコレートソースをかけられたような可愛らしい辻馬車を捕まえてくれた。