第10話「旦那様の職場見学」
「それで、どうしてお前がここに居る?」
社長室の扉を閉めるなり、オルレアンがアマレッティに笑顔で凄んだ。ひっと喉を鳴らして壁際まで一気に逃げたアマレッティは、オルレアンが手にしている教鞭を目にして頭を抱え、縮こまる。
「ど、どこからその鞭が……っ」
「常備してある、いつかここで使う事もあるだろうと思ってな」
「それも趣味ですか!?」
「趣味だ。良いから答えろ、どうしてお前がここに居る! 僕はお前に外出を許した覚えはないぞ……ラムの奴か!」
教鞭を目一杯折り曲げてぎりぎりと鳴らしながら、オルレアンがアマレッティの眼前にまで迫った。壁の奥に逃げようと足掻きながら、アマレッティはぶんぶんと首を横に振る。
「そ、外に出たのではありません……っ勉強に出たんですっ」
「ほう」
一瞬でオルレアンの憤怒の形相が冷たい笑顔に変化した。壁に縋ってへたり込んだアマレッティの頬を、教鞭の先が優しく撫でる。
「面白い言い訳だな……?」
「ひっ……ご、ごめんなさいオルレアン様、だってこれも勉強だってラムさんが……っカルトさんにオルレアン様を見てこいって言われて、私、つい」
「成る程、僕の調教が物足りないんだな。使用人に唆されあんな騒ぎを起こしてまで僕に構って欲しい訳だ、仕事でこのクソ忙しい時に……このアホレッティ、大人しく屋敷で留守番もできないのか!」
「わ、私の名前はアマレッ」
「クズレッティが良いのか! 返事は!」
「嬉しいですオルレアン様……っ」
毛皮の絨毯の上でさめざめとアマレッティは嘆く。オルレアンが両腕を組んで、アマレッティの悲嘆を見下ろした。
「僕が怒るのはいくら馬鹿なお前でも分かっていただろう。なのにどうして来た」
「わ……私、お仕事をなさってるオルレアン様を見てみたかったんです。だから会社に来たんです……っ!」
オルレアンが珍しく不意を突かれたように黙り込んだので、アマレッティはそのまま捲し立てた。
「そうしたら約束がないと会えないって言われて、悲しくて……ラムさん達は名前を名乗ればオルレアン様は会って下さる筈だって言って下さったけれど、それも自信がなくて……」
「……」
「でも、でも、オルレアン様がきて下さって本当に良かった……! わ、私、オルレアン様の妻だって言っても誰にも信じてもらえなくて、オルレアン様にも無視されるんじゃないかと思ったらもう、動けなかったんです……!」
「僕は妻の名前と顔を忘れる程、薄情な男じゃない」
溜め息混じりにそう告げたオルレアンに、アマレッティは涙で濡れた目を上げる。オルレアンは教鞭を一度、手の平で鳴らした。
「ひっ」
「受付で名乗ればそれで済む話だ。そんな簡単な事もできないとは……クズにも許される限度があると思い知りたいか?」
「お忙しいオルレアン様にお手間をとらせたアマレッティを、どうかお許し下さい……!」
深々とアマレッティは豪奢な絨毯に額を擦り付けて平伏す。アマレッティをいたぶっていたオルレアンは、つまらなさそうに横を向いた。
「まあいい、もう一ヶ月だ。そろそろ頃合いだとは思っていたし――今度は変な勘違いをしていないだろうな?」
「勘違い、ですか……?」
「僕は約束通り、お前を妻だと紹介したぞ」
「は、はい。しかと聞き届けました!」
平伏した格好のまま、アマレッティは破顔する。オルレアンは淡泊な表情でアマレッティを見下ろしていた。
「多少でも自信がついたなら、今度来る時は最初から堂々と振る舞え」
「こ……今度……それはまた来ても良い、という意味ですか? 私、ご迷惑をかけたのに」
「だから今度は迷惑をかけずにここまで辿り着け。できなかったら……分かるな?」
「わ、分かります分かりましたっ……!」
教鞭の先で顎を撫でられ、アマレッティは何度も頷く。オルレアンは満足した笑みを浮かべて、踵を返した。
「僕は仕事だ。大人しくそこら辺のソファにでも座っていろ。うるさくしたらまた天井から吊して回してやる」
「そ、それだけはお許しを……っ」
冗談ではない脅しにアマレッティは首を竦めて、オルレアンの大きな仕事机の前にある向かい合わせのソファにちょこんと腰を下ろす。ふかふかのソファのクッションが楽しくてしばらくにこにこしていたが、すぐにアマレッティは落ち着かなくなった。
(……ここでこうしていても、スパイはできないのでは……)
アマレッティはオルレアンのことをもっと知らなければならないのだ。
かりかりと、オルレアンが走らせるペンの音だけが響いている。こっそりアマレッティはその様子を窺った。子供とは思えない真剣な面差しに、胸がざわめく。
「……凄いです、オルレアン様」
「何がだ」
ペンを走らせる手を止めないまま、オルレアンは返事をしてくれた。
「お仕事です。叔父様にあんな風に言われても、めげずにいつも自信をもってらして」
「それだけの努力をしている」
「そ……そうですよね、失敗なんてありえなさそうです、オルレアン様なら」
「何を言っている。失敗くらい山のようにしたぞ。これからもするだろうな。だが失敗を怖がってる暇なんかない」
「え?」
意外な回答にアマレッティが目を瞬いている間に、オルレアンは仕上げた書類を避けた。
「叔父上の言う通り、僕は子供だ。だから結果を出さなければ誰もついてこない」
「そっそんな事はありません!」
淡々とペンを走らせ書類を作っているオルレアンが、灰青の目だけ持ち上げた。
「仕事ができなくったってオルレアン様はオルレアン様です! 勿論お仕事なさっている姿は格好いいですけれど、鞭を振るう怖いオルレアン様に違いはありませんでした!」
「……それは褒めているのか?」
「褒めています!」
アマレッティの迫力に押されたのか、オルレアンが珍しくそうかと相槌を返してくれた。
「でも、お仕事頑張りすぎないで下さいね。お姉様も昔、頑張りすぎて一度倒れられた事があるんです。私、とっても心配しました」
「自己管理がなってないな」
笑い飛ばしたオルレアンに、アマレッティは逆にきょとんとしてしまった。
「頑張ったら疲れるのは当たり前です。オルレアン様だってお仕事終わったら疲れるでしょう?」
「……。まあ、人間だからな」
「私、こう見えて子守歌とか看病は得意なんです。ずうっとお姉様のお側について、冷たい果物をあーんしたり、額のタオルを何度も交換したりしました。オルレアン様も熱を出したら私に任せて下さいね! そうだ、私のお気に入りのぬいぐるみをいっぱいお姉様に貸したりもしました。あったかくて寂しくないんですよ。オルレアン様にも」
「ぜっっっっったいにお前に僕の看病だけはさせない」
「どっどうしてですか!?」
「どうしてもこうしてもあるか! さっきから何なんだ、仕事の邪魔をするな! お前、仕事をしている僕を見たかったんじゃなかったのか……!?」
鬼気迫るオルレアンの迫力にアマレッティは三人掛けのソファの端まで逃げた。
「も、申し訳御座いませんっ私で何か手伝える事があれば手伝いますからっ」
「お前に仕事の手伝いなんかさせられ」
怒鳴り返そうとしていたオルレアンが、途中で黙り込んだ。ただ話題を変えたいが為に提案したアマレッティは、考え込むオルレアンに笑顔を強張らせる。
(ま……また何か、無茶な事を言われるのでは……!)
オルレアンが書類の底をとんとんと机に落として揃え、おもむろに口を開く。
「お前におあつらえ向きな仕事があったのを思い出した」
「えっ……それはまさか玉乗りとか空中ブランコとかでしょうかっ……」
「調教の候補に入れておいてやろう」
「いいえ無理です!」
「それは僕が決める。人が出入りする間はそれらしくしろ」
書類を置き、オルレアンは呼び鈴を鳴らした。アマレッティは慌てて背筋を伸ばし、表情を整えた。
「お前は僕の妻なんだからな」
豪華な椅子の肘掛けに頬杖を突いて、オルレアンがにやりと笑った。




