逃亡奴隷
逃亡奴隷
思えば運が良かった。
夜の森でモンスターに襲われなかった。
それだけじゃない。獣や毒を持つ動物にも出会わなかった。
長く女冒険者の後ろをついて回っていたので、モンスターや獣の痕跡は分かる。だが、それでも襲われる時には襲われる。
何かの力が働いているんじゃないかとさえ感じた。まるで生かされている様だと。
自分の頭がおかしくなったんじゃないかという意識もある。
しかし、ハッキリと感じる。今生きているし、これからも生きていきたい。
生きていくためなら何でもできる気がしてきた。
・
この世界はどれぐらいの文明レベルなんだろうか。
僕は割りと田舎の生まれではある。中学生になった時政令指定都市に引っ越したけれど、田舎でも都市でも、道路はアスファルトだった。
この街道は幅こそ広いが、なんとなく掘り返された土でできている。
僕が隠れている森の端から街道までは、雑草の草むらを挟んでおよそ200m先というところだろうか。僕の足で駆出してどれぐらいかかるだろうか。見通しは良いし、馬車もそんなに速度があるわけじゃない。多分間に合うだろう。
街道にはちらほらと人が通る。
多くは馬車だ。
大きな商隊はダメだ。護衛付きなんて論外。狙っているのは……
小さな馬車が通り掛かる。
護衛は無し。
御者は老人だった。珍しい。だが、あの服なら納得だ。
これまでの経験から、御者は若い男が主だった。武装しているのが多い。睨みを効かせるためだ。
だが、あの馬車は年寄りがやっている。小さな幌馬車には何が積んであるだろうか。僅かに樽が見えた。あれでは乗っているのもせいぜい1人か2人だろう。
もう丸2日以上経っている。お腹も減ったし、体力も限界が近い。これから一仕事あるのに、限界ギリギリまで待っていてはそのまま野垂れ死んでしまう。
僕はフラフラと馬車の前に出て、手を振った。
流石に警戒された。
だが、爺さんは俺を拾ってくれた。
都合が良い。修道服を着た年寄りに、小さな荷馬車。しかも同行者は居なかった。すぐ隣の街から来たらしい。
修道士は襲われない。
教会騎士達が地の果てまで追ってくるからだ。同時に修道士と身を偽る事も死罪。彼らは守られた存在だ。
そもそも、こうやって一人で街の外に出る様な修道士は金目の物なんてもっていない。そういう貴重品を運ぶ時は財力にモノを言わせて大きな馬車に徹底した護衛や教会騎士付きで運んで来る。
「すみません。森の中で賊に襲われまして。私の主人達が皆殺しにされてしまいました。なんとか街に戻りたいのですが、私の足はご覧の通りで、森の中を逃げまわっていたために、もう体力も残っていません。どうか同行させてもらえないでしょうか」
僕は土下座して頼み込んだ。
「そうですか。つらい目に遭われたのですね。乗りなさい」
爺さんが優しく微笑んだ。
この世界にはいくつかの宗教と教会、それに従う騎士達が居た。
もちろん腐った連中もいるが、この爺さんの様に神の教えに従ってまっとうに生きている人もいる。むしろ、そういった敬虔な信者の方が多い。集金ピラミッドの底辺だから当然だ。
この馬車が運んでいたのは、教会で作られたワイン2樽だった。あとは、爺さんの携帯食や水。そして、ボロボロの樽に突っ込まれた剣、短剣、槍、弓矢などの武器。手入れもされていない。用心のために備え付けているだけだろう。
爺さんは、自分の食料を僕に分け与えてくれた。
すぐに食事をしたら胃がびっくりするから、水だけもらった。美味しかった。
体中に水が染み渡って行くのを感じる。
感情が震えて、涙がこぼれた。
「おやおや。つらい目にあったんだね。奴隷なんてこの世から無くなれば良いのに」
奴隷制に反対の宗教も、奴隷制に賛成の宗教もある。また、同じ宗教でも奴隷制の是非で派閥があったりする。
この爺さんは奴隷制反対派の人らしい。
「すみません…… 僕」
「いいんだよ。ほら、ゆっくり飲みなさい」
人に襲われないとしても、モンスターに襲われる可能性はあるため、街道のこんなど真ん中で馬車を路傍に停めるなんて危険極まりないのだが。
しかし、爺さんは本当に良い人で、まずは僕の体の手当が先だと馬車を停めてしまった。
「すまないねぇ。半日街道を移動するだけだから、さすがに傷薬は用意してなかったんだ」
森の中を走っている内に、体中擦り傷だらけになっていた。露出が多い粗末な服では茂みの中を走るだけでも危険だ。
「この足の傷は…… 街に戻ったらちゃんと診てもらうんだよ」
爺さんが手拭いを水で濡らして、僕の体を拭いてくれた。傷に染みたけど、垢や泥が拭き取られて気持ちよかった。
僕の足の傷はじくじくした痛みがあるものの、傷自体はかさぶたに覆われている。足枷に付いている乾燥した血液がパラパラと落ちた。
「まったく……どうして同じ人間にこんな酷い事を……」
爺さんはぶつくさと言いながら、僕の体を拭いていく。よく見れば目が少し潤んでいる。僕のために泣いてくれている。
僕もさらに涙をこぼした。
心臓が激しく鼓動し、感情が悲鳴を上げている。
爺さんが僕の体を拭き終え、
「よし、じゃあ街に急ぐぞ」
と、立ち上がって、御者席に戻ろうと振り返った。
僕は爺さんに飛びついた。
爺さんは、フガッと喉を鳴らす。
僕の手枷の鎖は長い。両手を肩幅より外まで広げられる程だ。
首を締め上げるには十分だった。
鎖を爺さんの首に巻き付けて、両腕を自分の胸の前でクロスさせる。
あんなに悩んだのに、いざこの時になってみると、一体どこからこんなに力が出ているのか不思議なぐらい僕の腕は強く爺さんの首を締め上げていた。
手枷が手首に食い込む。痛い。頭が熱くて上手く考えれられない。
爺さんは激しく暴れた。当然だ。年寄りだからって死にたくないだろう。
僕は暴れる爺さんをずるずると後ろに引っ張っていく。なんとか引きずり倒したいのだが上手くいかない。
首を締めあげて、引っ張っている。これで本当にやれるのか心配になってきた。
いっそあの武器を取ってやったほうがいいんじゃないだろうかと馬車に備え付けられた武器へ視線が泳ぐ。
駄目だ。取りに行く時に隙ができる。爺さんだからって侮っちゃいけない。
爺さんの首に掛けた鎖をぐいぐい引っ張って僕は後退していく。
と、足が抜けて、馬車から落ちた。
焦った。
だが、爺さんも倒れて、丁度首から上が馬車の後ろから飛び出ていた。
僕は目一杯体重をかけて、爺さんの首に巻かれた鎖を引く。
下に、もっと下に。馬車から突き出た爺さんの首に鎖がずぶずぶと食い込んでいく。
鎖を下に引っ張る僕の姿は、土下座の様だった。
爺さんと出会った時と同じ格好で、僕は爺さんの首を締めた。
・
僕が死体を処理している間、他の馬車が通りかからなかったのは行幸だ。
僕は幸運補正がかかっているのかもしれない。
爺さんの死体を森に隠した後ならまだ、用を足していたと言い訳できる。
だが、爺さんの死体を森まで引きずっていくところを見られたらアウトだった。
森に入ってから爺さんの死体を切り刻む頃には感情の高ぶりはおさまっていた。これからの事を冷静に考えながら、槍でざくざくと爺さんの死体を刺し、剣でざくざくと爺さんの死体を切った。
僕は修道服を着た。これで死罪確定だ。バレればだが。
それに、どうせ逃亡奴隷は死罪だ。2回殺される事はない。人生は1度きりなのだから。
修道服を纏ってみると、改めて思う。これ絶対他の奴もやってるだろ。バレてないだけだ。
僕は爺さんの形見の食料をゆっくり食べた。
たまに通る馬車から声を掛けられたが、それとなく返事をして見送った。
修道服を着たのはただの時間稼ぎだったが、その時間稼ぎの間に目撃者ができてしまった。早くここから去らないと。
馬車の御者はできる。街中での奴隷の仕事の1つでもあるため、仕込まれた。
向きを変え、街道を正反対へ進む。この馬車が来た道を戻っていく。その先には、僕が奴隷として暮らしていたのとは別の街がある。
御者の訓練中、馬は賢い動物だと感心したものだが、元のご主人様が殺されて、その殺した人間にこうやって従う辺りは間抜けに感じる。
まずは街に辿り着く必要がある。
城郭が見えてくる頃には夕方になっていた。
食事にも時間がかかったし、途中で武器や荷物を隠したりワインを捨てたり修道服を燃やすのに時間がかかってしまった。
とにかく、暗くなる前に辿りつけて良かった。
・
「なに? 本当か?」
「はい。僕を逃がして修道士様が……」
僕は顔を伏せた。
門兵の前で膝を付き、頭を垂れる。
僕は冒険者達と同行して森の中に入ったが、そこで盗賊に襲われた。冒険者は全滅。僕は命からがら逃げてきて、たまたま通りかかった修道士様に助けられた。
しかし、盗賊が追ってきたため、僅かな武器を手に修道士様が立ちふさがって僕を逃がしてくれた。
修道士様のいいつけて、ワインの樽は盗賊達の足止めのために捨ててきた。
そしてなんとかこの街に辿り着いて、門兵に助けを求めた。
そういう事にした。
「そうか。もう夜だ。確認は明日になるだろう」
「奴隷という事は…… お金も持ってないか。よし、その馬車を教会に返して、一晩泊めてもらえ。あそこは奴隷制反対派の教会だから大丈夫だろう」
その辺の路傍を借りるつもりだったが、思ったより上手く事が運んだ。
もう十分に暗くなっていたので、僕は立ち上がって、馬を引いて教会に向かった。
教会では若い修道士が一人留守番をしていた。10歳にもなっていない様な子供だった。
「そうですか…… お父様はお亡くなりに……」
本当の父親ではないが、教会に預けられた子供達は目上を兄、さらに上を父と呼ぶらしい。
小さな修道士は僕の前で泣いた。ボロボロと大粒の涙を溢してわんわん泣いた。
僕もつられて涙がこぼれた。これは一体何の涙なのだろうか。
小さな教会はかなり古くてボロボロだったが、あの女冒険者達のホームにあった僕の寝床よりもずっとマシなベッドを貸してもらえた。
元々はあの爺さんの寝室だったらしい。
僕は教会の中を散策して、礼拝堂にあった何かのシンボルを失敬した。ねじくれたY字型のモノだ。それを2つ。
それぞれに鎖を巻いて捻った。キシキシと金属が擦れる音がして、鎖の輪曲がって開く。
時間がかかったが何とか両手首と両足首を繋ぐ鎖を破壊することができた。
奴隷の質によるが、魔法も使えない、身体強化も使えない、おまけにガリガリの僕に上等な鉄が使われるわけがなかった。鎖自体も細い。
ずっとこの鎖を砕く事を考えていた。
とはいえ、手枷足枷の破壊は逃亡奴隷とみなされて処刑だ。考えるだけで今まで実行した事はない。
こんなに簡単だったのか。
足の繋を先に砕き、次は腕だ。捻るのが難しかったが、足の繋と同様、砕けた。
僕は両手を大きく広げた。
「痛ッ」
肩と背中が悲鳴を上げる。
だが、心地良い。
背中を反らして、大きく背伸びをした。背中がギシギシと軋んで痛みが増す。
涙が零れた。
ちぎれた鎖が腕と足から垂れている。
この手枷足枷は手首と足首に鎖を巻きつけて、閉じたものだ。
楔が二本あれば捻って外せるだろうが、この教会のシンボルは大小どちらも鎖の輪より太かった。引っ掛けて捻ろうにも僕の手首の骨が先に砕けてしまいそうだ。
どこかで丁度良いサイズの鉄棒を見つけなければならない。
いや、まずはこの教会で、ロープと何か書くものを探さなければ。
・
「報告を」
「はい。確認しましたところ、確かに奴隷は途中で馬車を下りて森の中に入っていったそうです」
「そうか…… 修道士様の方はどうか」
「はい。死体を見つけました。酷い有様で…… 所持品も全てありませんでした。ワインの樽も盗っていったみたいです」
「うむ……」
朝早く、調査に兵を出した。
それから教会に使いを出すと、少年の躯がぶら下がっていたという。
床には書き置きと、お金の入った袋が置いてあった。
商人にも確認をとった。
夜中、酒場から宿に帰る途中、教会の少年と奴隷が連れ立って現れ、奴隷を街から連れ出す様に頼んだらしい。
その時は服も着替えていて、商人もそれが奴隷だとは気付かなかった。ただの同行願いと思ったそうだ。お金を渡され、商人はこれを承諾した。
それから宿屋に着くまで奴隷は商人とともに居たが、ぶつぶつと何かを言い始た。罪がどうとか、命がどうとか、そういう事を言っていたらしい。
それから奴隷は教会に戻った。
そして未明、出発の準備をしている商人の元に戻ってきて、今度は一言も喋らなかった。
そのまま夜明けとともに、商人の連れとして街を出た。
「商人が嘘をついている可能性は?」
「無いでしょうね。奴隷と知ってから大慌てで金を返してきました。金をもらって奴隷の逃亡を助けたとあっちゃ重罪ですからね。あの商人、青い顔で何度も謝ってましたよ」
そうか……
武器も持たず森に入ったとなれば、モンスターに食われて探すのは困難だろう。
お金も返されていた。見たところ盗まれたものもこれと言って無さそうだった。覚悟を決めていた様だ。
「奴隷の捜索はしなくていい。冒険者全滅の件を隣町に伝えろ」
冒険者6人に襲いかかって全滅させる程の盗賊団だ。規模は20か30……いや、もっといるかもしれない。
厄介な事になった。
衛兵長の頭の中から奴隷の事は消えていた。
そもそも顔も憶えていない。
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誠実さには力が宿る。人に淀みなく答えれば、それは人の心に信用を生む。
嘘かどうかなど関係ない。重要なのは相手が信じるかどうかだ。
人は情報量が多い状況に直面すると信じたいものを信じる様になる。
精神的に追いつめられていたり、パニックになったりすると、平常時には信じられない事も信じてしまう。
僕は街の城郭近くまで戻って来ていた。隠れてしばらく様子を伺っていたが、この街の衛兵は僕を探す事はしない様だ。
はっきりとは断定できないが、おおむねアレを信じた。
門兵と話す時にはわざと顔を伏せて覚えられない様にしたし、膝をついて足の指も見られない様にした。暗くなって移動したから僕の顔を憶えている奴はいないだろう。御者席に乗って目立つ事もしなかった。
お金も返したし、何も盗まなかった。そういう誠実な態度が、真面目な奴を騙す重要なポイントだ。
僕は隠していた荷物をとってきた。
爺さんの携帯食の残りと、剣、短剣、槍、そしてナイフ。
これで鎖が砕けないかと思ったが、大切な武器がダメになりそうな事はさすがにできなかった。それに自分の体を傷付ける恐れもある。
鎖が重いのはそのままだが、もう両手両足は繋がっていない。以前よりもずっと体が動かせる。まずはこれで十分だろう。
僕の身体能力では強力なモンスターと戦えない。ゴブリンなら倒した事があるけど、オークが出てきたらまず無理だ。
人間に見つかるのもまずい。
隠れて、ひたすら隠れて遠く離れなければならない。
幸運だ。僕は幸運に恵まれている。
こんなにも上手くいくなんて。
自分で判断して進む事が、こんなに心躍るものだったなんて。
体は疲れている。手足は重い。鎖がじゃらじゃらと引きずられる。しかし、腕も足も十分動く。
いける。どこまででもいける。
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書き置きのみを残すことをお許し下さい。
少年の勧めによって、私は逃げようとしました。
しかし、逃亡奴隷は死罪、それに加担した者も重い罪を負います。
私が少年の善意に甘えては、少年が苦しい目に遭ってしまう。
修道士様が私の命を救って下さったというのに、その命で少年を危険に晒すことはできない。
少年から頂いた荷物の中には、路銀まで用意されていました。
慎ましやかな生活の中、僅かな蓄えまでも僕のために出してくれた、そんな少年のためにも、僕はやはり逃げる事はできない。
そう思い、教会に戻ったのですが、少年はすでに事切れておりました。
思えば、修道士様が亡くなられた事を伝えた時から様子がおかしかった。
私の罪はもはや償えるものではありません。
私のせいで2つの命が天に召されてしまいました。
私は彼らに謝罪しに向かいます。
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城郭が遠くに見える。
ふと、少年の事を思い出した。
僕が泣き叫んで懇願すると、少年はしぶしぶながらも逃亡に手を貸してくれた。
元々奴隷制反対派の教会だ。教育が行き届いていたんだろう。
だが、子供だった。
精神的に甘すぎたし、肉体的に弱すぎた。
それだけだ。
僕はもう街を振り返らなかった。
森と茂みに隠れながら、街道の脇を進む。