2.現在 坂口祥瑞の視点
清水友礼という男のことは、俺にもよくわからない。
健康体のはずなのに妙に青白い肌をした、眼鏡の男。でもどうやら視力は悪くないらしい。なんで伊達眼鏡なんてしているんだと聞いた事もあるが、笑ってごまかされた。
趣味は読書。成績も全国順位で数えられるくらいによく、物静かで、人当たりがよい文化系完璧超人。噂では中学時代に教室で暴れて頭から血を吹いただの、同級生の女子に手を出して田舎に引っ越させただのという話もある。なんと無責任なうわさを立てられたものか。
同じクラス何故か俺のことを気に入ったらしく休み時間になると向こうの方から寄ってくる。そのくせ放課後になると一人でさっさと帰り、何をしているのかは知らない。
友礼という名前を最初に知った時、読み方のわからない俺は「ユーレイ?」と口にしてしまった。こいつは笑って「いいですね。じゃあ僕のあだ名はそれでいきましょう」などと言った。
本当に、変な奴だ。
そして、何より。俺を怖がらない。
本当に、変な奴だ。
「祥瑞! おきな」
部屋に入ってきた姉貴に布団を引っぺがされて、俺は文句を言いながら体を起こした。
時計を見た。そんな時間じゃないだろう。恨みがましく姉貴に口答えする。
「いや、まだ早いって」
「ったく、あんたは朝っぱらからそんな眼つきを悪くして。今日は補習ある日でしょが」
うっかり忘れていた。
冬休みに入る前から俺のクラスでは冬季補習が始まる。センター試験まで後1ケ月。それに向けての対策らしいが、随分と遅い取り組みである。俺でさえ、もう1ケ月前からはじめている。……まあ、友礼に誘われてだけれども。しかし
「なんで姉貴が俺の学校の用事を知ってんだよ」
「ユーレイ君が昨日教えてくれたのよ。どーせあんた忘れてるだろうからって。まったく、同じ受験生なのにどうしてこうも違うのかね」
そんな気を利かせなくてもいいのに。しかし時計を見て慌てれば時間ぎりぎり間に合うことがわかると、そうも言ってられなくなった。
「やっべ」
「祥瑞、朝飯」
時間がない。
「ったく、そんな年頃から朝食抜くなんて」
「姉貴が健全すぎんだよ」
そんな健全な姉貴に見送られて、俺は家を出た。
しばらく走ってみたが、寝起きの体にはきつく途中ですぐに諦めた。
前方を歩いている男を確認すると、遅刻しないことがわかったからだった。
「友礼」
声をかけると、そいつは振り返り、俺を見つける。
「おはようございます。祥瑞さん」
白いながらも活力はある肌をした細身の男が、笑顔でこちらを向いた。
「よう」
「早いですね。遅刻すると思っていたのに」
「誰かさんが手を回してくれたおかげでな。それにしても補習か、面倒だな」
「面倒ですね」
しかし、少しも面倒そうな顔をしていない。
「お前くらい頭がよかったら早起きってだけなんだろうな」
ぼやいてみたが、友礼は少し笑っただけだった。
「ああ、朝ごはん抜きましたね」
「なんでわかる」
「眼が、そんな感じです」
どいつもこいつも。
学校に着くと、玄関に人だかりができていた。
「なんだ?」
皆補習の為に早起きしている三年生だろうか。何をみんなで見ているのだろう?
「なんでしょうね」
隣の友礼がその人だかりに向けて一歩足を進めるのと、俺が背伸びして奥を覗き込もうとするのは同時で、そして
「友礼。行くな」
俺に、肩をぐいと掴まれたために足を止め、友礼はこちらを向く。何かを問おうとして、しかし、俺の顔を見ると、理解したのだろう。
「あまり、いいものがあるわけではないようですね」
「ああ、いいもんじゃない。お前も関わらないようにしよう」
すると、人ごみの中の一人が、振り向いた。そして、俺達を、というか、友礼を見た。
「あ、ユーレイ」
こいつは人気があるからなあ、などと思いながら、俺は友礼の顔を見た。いつも通りのにこやかな顔だった。
「おはようございます。これは、何があったのですか?」
するとそいつは表情を余計に暗くし、吐き捨てるように言った。
「猫が、死んでるんだよ」
友礼はあまり表情を変えず (笑みだけは消して)そうですか、と言った。
「あまり、いいものじゃありませんね。では遅刻しますし行きましょう」
おいおい、と思わずツッコミそうになった。
結構淡白な奴だなと思いながらも、しかしわかる。こいつは俺に気を遣ってくれている。つまり、あの人ごみの中には、猫の死体があると。確かに、そんなものを見に行こうなどと言うのはおかしい。しかし言い方と言うものがあるだろうに。
俺が何かを言うより前に、友礼は歩き出す。俺も、大して反論できるような材料があるわけでなく、ついて歩く。
しかし問題があった。
人ごみのできているのは、玄関靴箱の前。
俺が自分の靴を靴箱に入れて教室に向かって歩くには、どうしても人ごみの間を通らなければならない。
どっちにしろ、それを見ないと補習を受けることはできないのだ。
歩き出してからそれに思い至り、どうしようと思っていると、人ごみの横を通る。
見たくないのに、俺は気になって、見てしまう。
猫が、いた。
口に出したくないような死に方をした猫である。
俺は朝食を食ってなくてよかったと思った。
友礼はぴくりとも表情を変えず、行きましょうと言って俺を急かした。
そうだ、そんなじろじろと見るものじゃない。
友礼も、少し強引なくらいに俺を連れて行こうとした。俺がこういうことに敏感だから、気を遣ってくれて、歩いて
そして俺は猫の死体の前に舞い戻っていた。
遠巻きに眺めていた奴らが、俺を見て顔を青ざめた。
昔から、眼つきがひどく悪い。そんな奴が目の前に現れて、そして、自分達のしていることがばつが悪かったのか。誰も俺とも眼を合わせようとしなかった。
別にそれでよかった。
「祥瑞さん」
静かな声が、後ろからした。友礼は俺の気持ちをわかってくれたらしい。
眼の前にあった猫だったものは、それは無残な死に方をしていた。誰かがわざと傷つけて、学校に持ってこなければ、こんなところにはないというような死に方だった。
確かな形として悪意が残ったそれが、俺には耐えられない。
誰かがうわあと言った。
俺が、猫を拾い上げたからだろう。
「死体は雑菌だらけだから、直接触るのはよくないですよ」
友礼はまた見当違いなアドバイスをしてくれた。
俺は、猫を持って歩き出した。
人ごみが俺の行く方向に向かって割れる。後ろからは、友礼が二人分の鞄をもって歩いてきてくれた。
「目立つことを、しますよね。そんなの先生か誰かに任せたほうがいいのに」
そう言いながらも、少しも批判的でない声色であった。
「自己満足だよ」
「自己満足ですか」
「ああ」
「それでも、正しいことではないですか?」
そんなわけがない。
俺達は歩いた。とりあえず、埋めることのできそうな場所に運ぶ。
「やれやれ、これで補習は遅刻ですね」
しかしまた、批判的な声色ではなかった。
二人で歩いて、そして誰も見えなくなり誰にも聞こえないだろう場所まで来ると、友礼は言った。
「『邪まなもの』の仕業ですか?」
よくわからなかった。ただ、悪意を持って誰かがこんなことをしたのはわかる。そして、こんなものが多くの人の眼につくのはよくないと思ったからだ。
「……正しいことだと思いますよ」
都合よく、校庭の隅の木の下は、掘りやすそうな土だった。
「ああ、こんなところに勝手に死体を埋葬しようとしてますよ。僕達」
「うるさいな。だったら止めろよ」
「止めません」
何が楽しいのか、ニコニコと友礼はしていた。
「あの……」
誰かに呼ばれて、俺と友礼は同時にその方向を見た。
そこには、女の子が一人立っていた。いや、制服についた名札から、俺達と同級生なのだということはわかった。なんだ?
女の子は眼を泳がせて、何かを言おうとしては口ごもり、何回も何回も声を出そうとしては、失敗していた。何を緊張しているのだろう。
「なんだよ」
「ひっ」
ひっ……って。俺がそんなに怖いのか。
思わず友礼を見ると、俺の考えていることがわかるのか、ただ苦笑するだけだった。
女の子の方を見やると、同じように何かを伝えたくて必死になっている様子であった。
しかし相変わらず怯えたままである。
「友礼……」
助けを求めると、友礼は女の子の右手を見るように言った。
女の子は、右手にスコップを持っていた。
それはおそらく、地面を掘るための道具なのだろう。そう言えば、俺達はそんな道具の用意なんて考えてなかったな。などと考えて、俺は、女の子に声をかけた。
「あんた、手伝ってくれるのか」
「は、はい」
「そうかよ」
すると、肩をすくめる女の子。
俺は友礼に訊いた。
「俺って、そんな怖い眼つきか?」
友礼はにこりと笑った。
「ええ、とても邪まな眼をしていますよ」




