苦悩
「──あー!」
彩華の的を射ない質問に3人とも頭を捻っていた中で、稜希が唐突に声をあげた。
「稜希、今度はどうしたのよ……」
「ねぇ、さーやんと一緒に前夜祭回ってきていい?」
尋ねる稜希は満面の笑み。
相反して悠翔は頭を抑える素振りを見せる。
そして純と視線を交差させた後、溜め息混じりの言葉を返した。
「はぁ……いいわよ。彩華さん一人だけだと祭りを見て回るには心細いでしょうし、護衛を兼ねる意味でも誰か一人付き添うべきよね。ただ、貴女が暴走する事だけはしないでちょうだいね」
「分かってるよー、はるりん!」
「稜希! だからはるりんと呼ぶのは──」
しかし、その声は虚しく響く。
当の稜希はというと、馬の尻尾のような髪を左右に揺らし、意気揚々と部屋を出ていっていた。
「残念、あの馬鹿ならもう出て行ったぜ」
「はぁ……まったく」
「しっかし、はるりんも苦労が絶えないな」
「純!」
追い討ちをかける純の軽口。
それに悠翔は一層と顔を紅く染めると、声を荒げて机を叩く。
世界随一の経済力を持つ独立行政特区。
ここ天和の次期当主として注目を浴びる才女もまだ齢17。
些細な冗談を受け流せるようになるには、もう少し修練が必要なようだ。
その一方で純は、何事もなかったかのように2人分のお茶を用意する。
本来、年齢だけを見れば逆なのだが、端から見ると兄と妹のように見えることであろう。
「ほら、そろそろ落ち着けよ」
「はぁ……誰よせいよ──あっちゅ!」
もくもくと湯気を上げるお茶を躊躇なく飲み干そうとした悠翔はその熱さに思わず声を上げてしまった。
いや、躊躇がないというには語弊があるかもしれない。
そもそも温度を気にかけていなかった。
故に突然の熱さに驚き、湯呑みから手を離してしまったわけで。
「それは自業自得だ」
純は今にも溜め息をつきそうな表情を浮かべているが、それも今に始まったことではないのであろう。
手近にあった布巾で長机の上を広がっていくお茶を拭き取ると、割れた湯呑みを新聞紙に包んで処分を済ませる。
その途中、ずっと悠翔から恨めしそうに睨まれていたが、一切、気にかけることはない。
少しも怪我や火傷の心配をしていないその様子も相まって、冷酷さの片鱗を感じさせた。
「──それで、今日の議題は?」
純は不満気な視線を投げかけるだけで、言葉を発しようとしない悠翔に問いかける。
されど視線は動かず。
沈黙。
静かだからこそ微かに聞こえてくる祭の喧騒と、純が座り直すために椅子を引く音がなるだけ。
2人の視線が交錯する事1分弱。
悠翔が視線を外した。
「……特に決めていないわ」
「そうか。それなら話は戻るが、悠翔はあの志波って子のことどう思っている?」
「志波さんね……私個人としては是非一科会に欲しいと思っているわ。今日の話をした感じだと入ってくれそうにないのだけれど。それがどうかしたのかしら?」
「いや、どうにもきな臭い気がしてな」
不穏な響きに頭を上げた悠翔の表情は既に真剣そのもの。
まだ見習いとは言えど、政に携わる人間としては聞き逃せない言葉であろう。
「これに関しては杞憂で済めばいいんだが、志波なつきの経歴に関しては知っているか?」
「いいえ、調べてはいないわね。三科の学生で彩華さんの同居人ということくらいかしら」
「選挙用にと情報を集めていて分かったことだが、彼女の入学試験での順位は最下位。出自に関してはどうこう言いたくはないが、名前も聞いたことのない学校を出ている。佐伯さんみたいな事もあるから一概には言えないけどな」
悠翔は指を唇にあて思考を巡らせる。
邪推はすべきではない。
そう分かっていても、思い返すとその言動一つ一つがどこか怪しいと感じてしまうのは人の悲しい性であろう。
頭の中を巡る記憶。
記憶は記憶であり記録ではない。
脳内で事実に脚色が加えられた主観の世界では、到底真実には辿り着けるわけもなく。
「あれだけの知識がありながらも最下位。本当に何か引っ掛かるわね……」
「三科の入学試験の仕組みなんて知らないから、俺達とは同じ定規では測れないけどな。それと引っ掛かると言えばあの顔もそうなんだよな」
「顔?」
「初対面のはずなのに、どこかであの顔を見た覚えがある」
「それは既視感のようなものでしょう」
既視感。
この手のもやもやは拭えないことが一番の恐怖である。
もし本当に純がなつきに会ったことがあるならば──
「確かに思い込みかもしれないな。それよりも問題は三科の首席入学者の方だ」
「佐伯 淡雪の同居人でしょ。確かに女子寮に男子がいるのは問題よね……」
「それもそれで問題なんだが、俺が言いたいのはそこじゃない。その大上 凍夜の功績値が入学早々から──45,000ある」
「な、何かの……間違い、よね?」
悠翔は目を見開き、一縷の希望に縋るように聞き直す。
「正真正銘の事実のようだ。所属は特別技術開発局。その上序列持ち」
「──2人で功績値10万……そんなのどうしたらいいのよ! 私たち3人でようやく佐伯淡雪の牙城を崩せるかどうかの瀬戸際。本格的に二科を手中に納めなければ勝ち目がないじゃない!」
悠翔は昨年の選挙を思い出す。
例年通りであれば、量よりも質で選挙を戦う一科が総力的に優勢を保ち、一科会の会長が学生議会の代表を兼任していた。
しかし、去年は淡雪の圧倒的な功績値により票数は拮抗。
最終的には二科の票の取り込みで決戦が行われ、わずかの差で悠翔が敗北したわけで。
「あぁ、思い出すだけで虫酸が走るわ! 結局は胸じゃない! 男なんていつもそう。代表選は人気投票じゃないのよ!」
「手腕は問題ないから人気だけとも言い切れないけどな」
「何か言ったかしら?」
「何も。ま、俺の方でも選挙対策は考えておくわ」
君子危うきに近寄らず。
危険であると誰もが感じるであろう悠翔の不機嫌な表情に、純は退室を余儀なくされた。
そして彼女一人だけが取り残された一科会室では悲痛な叫びが漏れる。
「私は負けるわけにはいかないのよ……」
次期当主としての重圧。
目の前に立ち塞がる大きな壁。
不甲斐ない自分に怒りを込めて机を叩く。
無意味だと分かっていても叩かずにはいられないのであろう。
辛酸を嘗め続けた日々に終わりを告げられそうにはないが、それでも彼女の夜は更けていった。