邂逅
2040年4月8日日曜日16時45分
その日の天和帝国大学院は春の穏やかな陽気に包まれていた。
日付は4月8日日曜日。
4月9日に執り行われる入学式前日。
全寮制のこの学院では帰省した学生の帰寮日であり、新入生の入寮日である。
そのことも影響してか広大な学院の一画。
学院生寮区画と呼ばれる各科の敷地では異様なまでの盛り上がりを見せていた。
主に彼らが楽しんでいるのは花見。
寮の南方に位置する庭園では、斜陽に照らされた八重咲きの天和桜が咲き誇っている。
時期を計ったかのように毎年この日に花を咲かせる天和桜は新入生を祝福する花。
薄紅色の花弁が幾重にも渡る大輪の花をつけ、鼻翼をくるぐる甘い匂いには、精神を安定させる作用があると言われていた。
その中でもこの時間帯。
夕陽に照らされて昼桜とも夜桜とも異なる風韻に富んだ姿は人の心を惹き付けて止まない。
そうは言っても、開け放たれた窓の向こうにある外界には目もくれない少女の姿もあった。
一科の学院生千人弱を収容する4棟の寮がある区画。
その傍らに併設された、比較的小さな建物の一室で、忙しなく時計を眺めている少女。
肩ほどまでの短く整えられた暗褐色のくせっ毛。
およそ150糎程の小さな体躯。
顔立ちは整っているが、童顔のせいもあってか可愛らしい印象の方が強い。
少女の名前は二宮|彩華
(あやか)。
7千人程の学生がいるこの学院の中で、わずか5人しかいない女子の1人だった。
そして部屋の中にはもう1人。
時計の置いてある入口側の対極。
丁度彩華からは死角となっている窓の傍。
骨董品であろう趣のある椅子に座り窓の外の桜を眺めていた。
腰まで伸びる手入れの行き届いた艶やかな黒髪。
肌理細やかな白い肌。
光に弱いのか黒眼鏡をかけていて、その瞳を見ることはできないが、均斉のとれた目鼻立ちをしている。
窓の近くにいるにも関わらず、深窓の令嬢という雰囲気を醸し出していた。
名は志波なつき。
所属は三科であるが、彩華と同室で生活を送ることになっている。
そんな同居人に対して、なつきは話しかけた。
「天和では心に余裕が持てないと大成できませんよ」
「えっ!?」
彩華は思わず口に出してしまった驚きと共に身体を翻す。
「そういえば挨拶がまだでしたね。はじめまして、三科の新入生、志波なつきです。これからよろしくお願いします」
なつきは徐に立ち上がると、黒眼鏡を外し一礼した。
隠されていた瞳ははっきりとした二重で、澄んだ中にも力強さがある。
所作はどれひとつを取っても洗練されていて気品に満ち、声も少し低いものの、その発音は明瞭で耳に心地良く響く。
彩華は息も忘れて魅入ってしまっていた。
「僕の顔に何かついていますか?」
なつきは冗談混じりに二の句を継げる。
じっくりと見られること。
初対面の相手と二人きりの空間で沈黙が続くこと。
双方ともいい気はしない。
現状を打開するためにも、この質問は意味のあるもの。
その思惑通り彩華は我に返った。
「申し訳ございません。少々動揺してしまいました。私は本日から同居させていただく一科の新入生の二宮彩華です。不束者ではございますが、どうぞよろしくお願い致します」
彩華も自己紹介を済ませ頭を下げる。
しかしその言葉も所作も緊張しているのか固さが抜けない。
そして沈黙。
決して雰囲気が悪いというわけではない。
しかし初対面特有のぎこちなさが常につきまとっていた。
「ひとまず座りましょうか」
「そう……ですね」
なつきの提案により二人が向かい合う形で机につく。
机上にはいつの間に用意したのか二人分の湯飲みと魔法瓶が置いてある。
「緑茶と紅茶、後は珈琲が用意できますがご所望はありますか?」
「緑茶をお願いします」
「わかりました」
なつきは手慣れた動きでお茶を注ぐ。
先程まではなかったはずの急須を使っていたが、きっと存在を見落としていたのであろう。
「お待たせしました。お茶請けも用意できますが……夕食の時間も近いですし今は控えておきましょうか」
「はい。いただきます」
室内にはお茶を啜る小さな音だけが響く。
そしてお互いに一息ついた所で、今度は彩華から会話を切り出した。
「不躾な質問で申し訳ないのですが、志波さんはいつからこの部屋にいらっしゃったのでしょうか?」
「最初に話しかける10分ほど前からですね。10時頃には一度来ていたのですが、急務が入り退席したためお出迎えもできなくてすみませんね」
「こちらこそ入室されたことに全く気がつかずお出迎えできませんでしたし気になさらないでください」
彩華は少し首を傾げた。
疑問を解消するための質問で、より疑問が深まってしまったためだ。
しかしこれ以上踏み込んだことを尋ねてもいいものかどうか。
彼女の中で葛藤が生まれていた。
「仕事を終えた時には定時に間に合う時間ではなく、少々荒業を使いましたからね」
「荒業……ですか?」
なつきはどう説明したものかと少し逡巡し、
「言葉で説明するよりも、実演した方が分かりやすいかもしれませんね」
と呟き、背広の胸についたかくしから半透明の結晶を取り出した。
「これは友人が開発した転送石と呼ばれるものの試作品です。名前の通り対象物を指定した座標に転送することができる一品です」
なつきはそのまま左手に転送石を握ったまま、右手で空を切る。
右手の軌道上では一瞬だけ蜃気楼のような空気の歪みが起きる。
彩華が瞳を大きくした時には腕章が現れていた。
「まるで……手品のようですね」
「確かにそうですね」
最新の科学という意味では種も仕掛けもある。
あるのだが、なつきはその表現が壺に入ったのか一度笑いを堪えた。
「これが世間に普及したら奇術師も商売あがったりでしょうね」
「誰もが皆奇術師になってしまいますからね」
ようやく彩華に笑みがこぼれた。
なつきもそれを見て安堵の表情を浮かべる。
「口惜しいですが、そろそろ時間ですね。続きはまた後でということにして講堂に移動しましょうか」
「そうですね。続きはまた後で」
時刻は17時を回ろうとしている。
流石に入寮日早々から入寮式に遅刻は許されない。
差し迫った時間を前に二人は心持ち早足で部屋を出ていく。
人気がなくなり、静けさに包まれた室内。
その中ではこれもまた静かに開け放たれた窓がひとりでに閉まっていった。