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8 始動

「失礼します、父上」

 夜更けにシノは父の居室を訪ねた。おそらくこれが最後の訪問になる。

「入りなさい」

 父の声は静かで、穏やかに響く。物腰は柔らかく、しかしその中に一本芯の通ったような強さを秘めている。しなやかな竹を思わせる人だ。父は書き物をしていた手を止め、向き合うように座り直す。

「いよいよ、明日出るのだね」

「はい。これ以上遅れては、私の行く意味を失います」

「苦労をかけるね」

「いえ……」

 思わぬねぎらいの言葉に、喉が詰まりそうになる。それを無理矢理飲み下す。

 この役目が女の子にしか果たせないものだということが、今この瞬間の二人の間に同じ苦悩をもたらしている。本当なら父もこんな年端もいかない娘を旅立たせるのは本意ではない。妹のサエも巫女として独り立ちさせるような状態ではない。心配事を挙げればいくらでも出てくる。しかしそれを言ってはいられない。父は少し表情を和らげる。

「お前のことは、あちらの宮司にもよくよく頼んである。だから着いてからのことは今は考えずに、無事に辿り着くことだけに専念なさい」

「はい」

 一番の心配事は、やはり旅の道中だ。決して易しい道程ではないし、大人の足でも2日かかりだ。そこを女の子が一人で旅せねばならないのだ。

「それではお前にこれを」

 文机の上に置かれた細長い紙包みは、表に「御社特使通行手形」と墨書きがされている。これは関所を通る際の身分証明であるが、実はもう一つ重要な役目を果たす。宿場にさえたどり着ければ、この手形を見せるだけで宿に泊めてもらうことができる。そうすることで大金を持ち歩く必要がなくなる。女子の一人旅をできるだけ安全に運ぶための策だ。

 シノはその紙包みを両手で受け取ると、しばらくそれに見入るように視線を落としていたが、やがて決然と目を上げて父と向き合った。そして自分を奮い立たせるために、敢えて宣言した。

「必ずや役目を果たします。行って参ります」

「気をつけて」

 父の目元は寂しげに曇っていた。

 翌朝は雨が降っていた。旅立ちの日和としては良いとは言えないが、贅沢を言っている場合ではない。

 シノは男物の旅装束を着込み、簑笠を被って雨の中を歩き出す。

 サエには詳しいことを話していない。まだこの状況を理解できる歳ではないし、わからないことを言って無駄に不安がらせるのは得策ではない。シノがいないことも、今だけのことだと思っているはずだ。

ーー本当に行くつもりなのか?

 胸の痛みと共に一瞬で甦って来たのは、幼馴染みに投げかけられた問いだった。それを言ったときの責めるような眼差しだった。こんな時に限って、後ろ髪を引くようなことを思い出すのだ。まるで自分を試すように。何かの力が働いて、この旅を阻止しようとしているかのように。

 そう考えると、何かがおかしいような気がしてくる。だが何がそう感じさせるのかがシノにはわからない。自分が不安だからそう思えるだけなのかもしれない。


「お世話になりました」

「行ってらっしゃいませ。道中お気をつけて」

 そんなシノの不安とは裏腹に、旅路は何一つ不都合なく進んだ。この宿場を出れば、あとはもう目的の大社を目指すだけだ。何も無ければ昼までには着けるだろう。宿を出ると快晴の空がシノを迎えた。

 目的地が近づくたび、心も体も軽くなっていく気がするのが不思議だった。疲れが溜まっていっておかしくないのに、むしろ付き物がとれたようにスッキリしている。ふと、シノはこの感覚を以前にも感じたことがあることを思い出した。ただそれがいつどういう状況だったのかは、思い出すことができなかった。

 そして。

 ついにたどり着いた。残るはこの長い石段のみ。白地に墨書きされたのぼり旗が両脇にひっそりと立てられている。周りには幹の太い立派な杉が林立している。その急な石段を登りきると、白く輝く大鳥居が目の前に現れる。しかしそんな大鳥居も目に入らぬほど、シノはその奥に立つ人物に目を奪われた。

 巫女装束を身に纏った少女。シノはその少女を別の世界で知っていた。

ーー香澄ちゃん。

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