4 目覚めの後で
気がつくと、翼はガバッと布団をはね除けていた。ひどく息が荒い。苦しいほどの動悸を押さえようと胸に手をあてながら、状況を確認しようと辺りを見回した。頭がクラクラするし、冷や汗もぐっしょりとかいている。だが、周りの状況が判明するにつれ、ハァ、ハァ、とついていた息も治まってきた。
「なんだ、夢、だったの?」
そこは間違いなく翼の部屋なのだった。今いるのが、自分のベッドの上だとわかる。机も、カーテンも、クローゼットも本棚も、何もかもが翼に馴染みの姿でそこにある。部屋はまだ暗く、宵のうちだと思われた。枕元の目覚まし時計を確認すると、夜中の3時を過ぎた頃だった。
夢だとわかってしまえば気持ちは落ち着いてきたが、先程まで味わっていた絶望と恐怖感がまだ肌を撫でているようで、どうにも気持ち悪かった。汗で濡れているせいもあるかもしれない。ベッドからのろのろと起き出すと、部屋の豆電球をつけて乾いたパジャマに着替えた。それだけでもスッキリするものだった。変な時間に起きてしまって目が冴えてしまったような気がしていたが、気持ち悪さが取り払われたことでまた眠気に襲われ、思っていたよりもずっと早く寝入っていた。
次に起きた時には完全に朝だった。二度目に寝入ってからは夢も見ないほどに爆睡し、寝不足という感じはなかった。しかし、
「おはよう」
「おはよう。……あら、翼どうしたの。クマなんてつけて」
「え、クマ?」
階下におりると、真っ先に母が指摘した。翼はそう言われて、今日はまだ自分の顔を見ていないことに気がついた。なんとなく、洗面所に向かう前にダイニングの方に足が向いていたのだ。よってまだ起きてから鏡を見ていない。自分にクマができているとは思わなかった。
どの道顔を洗わねばならず、引き返して洗面所に向かう。ちらと昨夜見た夢が脳裏をかすった。あの時は、洗面所の鏡を見たことで、背筋が凍る思いをしたのだ。その嫌な感触がまだうっすらと残っており、翼はちょっと息を詰めた。今は目が覚めていて、現実だとはわかっているが、もしあれと同じことが起こったとしたら、それこそパニックを起こしてしまうと思った。
勇気を出して迷いを振り切り、洗面所のドアを思いきり開けた。
「……本当だ」
すぐに鏡に映った自分の顔が見えた。それはいつも見慣れている自分の顔だ。それでやっと冷静にいつもの自分と比較することができた。母が言うように、確かに目の下に黒いクマがある。
顔を洗って食卓につくと、母が素早く言った。
「昨日そんなに遅くまで起きていたの?まさか、ケータイでゲームとかやってるんじゃないでしょうね」
「やらないよ。第一私のあれでどうしたらゲームができるのよ」
「そんなのわかんないじゃない。今のはハイテクだって言うし」
「ハイテクでもできないってば。心配しすぎだよ」
翼が持っているのは、オーソドックスな子どもケータイだ。ネットの接続などは制限されていて、夜9時以降は自分で勝手に使えないようロックがかかる。それがケータイを買う時の条件だった。クラスメイトにはスマホを持っている子もいるがそれは一部の子であり、大多数は翼のような子どもケータイだった。メールはできるので、それでも十分だった。そんなわけで、母も本当にそんなことをしているとは思っていないようではあった。ただ、昨日渡した保護者だよりにケータイのことが書いてあったので、話のネタにしたのだろう。
「そしたら、具合でも悪いの?今日学校休む?」
極端な母なのだった。
「大丈夫だよ。どこも辛くないし。寝不足でもないし」
昨夜の夢と夜中に起きたことは、なかなか言えるものではなかった。言ってもただの夢であり、翼に実害がある物事でもない。
結局翼はいつも通り通学した。翼のクラス、4年2組はいつもと同じようににぎやかだった。だが、全くもっていつもと一緒というわけでもなかった。香澄が、まだ来ていない。
物静かで、目立たない香澄は他のクラスメイトの話に加わることはないが、だいたいつも翼よりは早く登校している。なのに今日はもう始業の時間が近いというのに、その姿がない。他の子たちは気にする素振りも見せない。普段から無視をしている生徒がいなかろうと、それを気にかける者などいない。今香澄のことを気にしているのは翼だけのようだ。今その姿を探すのは、朝一番に話をしたかったからだ。
昨日あの神社で話したこと、そしてそこでもらったあのキャンディのこと。ちゃんと確かめたいと思っていたのだ。もしかしたら、昨日見た夢も、何か関係があっただろうかという考えもあった。夢のなかで翼はどこかの神社の巫女になっていたからだ。
だが、翼のそんな思いとは裏腹に、結局香澄が来ないままホームルームが始まった。担任の沢口先生が出席簿を読み上げる。
「赤池 翼」
「はい」
「上田 雪人」
「はい」
……え?
平然と出席確認は続く。しかしおかしいのだ。出席順で翼の後に来るのは、井上 香澄だ。なのに沢口先生はその香澄の名前を呼ばなかった。まるで何事もなかったように。クラスメイトも全く気にしていない。翼だけが困惑していた。どういうことだろうと考えているうちに、香澄が言ったことを思い出した。
ーーもうすぐ転校するんだ、私。
まさかとは思ったが、それしか思い当たらなかった。つまり、香澄は人知れずもう転校してしまったということ。何のあいさつもなく、しかも急すぎるが、もしかしたらそうしなければならない理由があったのかもしれない。
結局、この日以降も香澄が学校へ来ることはなかった。