3 混迷
奇妙な夢を見たと思った。
朝の光と共に、気ぜわしい小鳥のさえずりが窓から漏れてくる。眩しさと騒がしさで目が覚める。布団を跳ね除けて一瞬あれ?っと思った。
目の前に広がる畳の部屋が、いつも見慣れているはずなのに、違和感があるように感じたのだ。色褪せた畳も、杉の柱や天井も、枕元に置かれた文机にも特段変わったところはない。なのになんだか妙な感じがするのも、今しがたまで見ていた夢のせいかと思われた。頭がボーっとする。とりあえず顔を洗ってくることにした。
「ねえちゃまーっ、おはようございます」
ドタドタドタッというものすごい足音をたてて、妹が突進してくる。本人は直前でとまり、頭をペコリと下げるつもりだったようだが、いつも磨かれている廊下に足を滑らせ、そのまま激突した。頭を下げていたので、腹に頭突きを食らったような形だ。うっ、という呻き声をあげて、危うく倒れるところだったが、なんとか妹を抱き止める形でこらえた。
「ご、ごめんなさい……」
「大丈夫だけど、廊下は走らないようにね」
既に泣きそうなくらい目元をしかめている幼い妹を叱るわけにもいかず、優しく諭すに留めた。
母親がいないせいか、この子は姉に異常なほどなついている。おかげで良くないと思いながらも、ついつい甘やかしてしまう。年が離れているのもその一因ではあった。
姿勢を立て直して改めて妹を見たとき、おやと思った。
「あら、足袋。自分で履いたの?」
そこでやっと、どうして朝一で妹が駆けて来たのかを理解した。その小さな足を真っ白な足袋が覆っている。今までは自分では履けなかったから、手伝ってやっていた。幼い手では足袋の金具を留めるのは難しい。それが、今日は自分で履けた。それを見てもらいたくて、急いでやって来たのだろう。滑って激突したのは、足袋で踏ん張りが効かなかったせいだ。
「よくできたね。えらいよ」
視線を合わせて褒めてやりながら、申し訳なく思った。今日この子が張り切っているわけを思い出したからだ。
妹は今日から、自分と一緒に巫女の奉仕につくのだ。もちろん、初めてのことだから最初は一から教え、見よう見まねでしていくのだが、最終的には一人でこなせるようになってもらわなければならない。それも、そう遠くないうちに。
何せ自分は、ここを出ていくのだから。
「装束の着付けは後でするから、その前に朝ごはんにしよう」
「はぁい」
着付けには時間がかかる。もう少し早く起きるべきだった。
さっきよりは控えめにパタパタと駆けて去っていく妹の後ろ姿を見送っていたとき、再び違和感が脳裏をかすめた。めまいのような気持ち悪さで、妹の姿さえも霞んでくる。今まで当たり前のように接していたその妹こそが違和感の元だと気づいて、愕然とした。
そもそも自分に、妹など本当にいたのだろうか。考えを巡らそうとしても、頭の奥の方にもやがかかっているように、はっきりとしない。もし妹でないとしたら、自分をねえちゃまと呼びならすあの子は一体誰なのか。……いや、妹でないなどあり得ない。今までの記憶の中にも、確かに存在しているのだ。それなのに、自分に今まで妹がいたという実感がどうしても持てない。自分の中の矛盾に、しばし動けずにいた。
考えていても、埒があかないのだった。頭がぼんやりしているのは、きっとまだ目が覚めきっていないからだ。とにかく、顔を洗おう。洗面所に向かった。
廊下を歩く最中も、頭がガンガンと痛んできて気分が萎えた。風邪でもひいただろうかと、訝しげに思った。土間へ降りて勝手口をあけ、井戸の水を汲んだ。運んだ水を洗面所のたらいにあけ、正面の鏡を覗きこんだ。
戦慄とともに、背筋に寒気がビリビリと走った。そこに映った顔は、見慣れている自分の顔ではなかったのだ。
「……違う。これは、私じゃない」
急に今まで感じていた奇妙な違和感の大元と対峙することになった。その姿には、一片の馴染みも感じない。それが自分の姿であるはずがなかった。では、自分は一体何者なのか。
名前は?生年月日は?今の年齢は?……何一つわからなかった。
父の名前は?どんな顔をして、どういう性格の人間?妹の名前は?母の名前は?母は……いつ、何故亡くなった?……何も思い出せなかった。まるで、そんなものは初めから自分の記憶にはなかったように、考えても考えても空白なのだ。むしろ考えるほど、どんどんわからなくなっていくようだった。今まできちんと思い出せていたことさえ、本物ではないかのようにボロボロと崩れ去っていく。頭の中はますます混乱するばかりだ。
洗面所の前に、呆然と立ち尽くすしかなかった。鏡に映る己の正体が、それに繋がるすべてのことが、さっぱりわからないのだった。