19 香澄
目を覚ましても、辺りは静かだった。鳥のさえずりくらい聞こえてもいいようなものだが、それすらもこの部屋までは届かない。
夢見の勤めを終えて、香澄は布団から身を起こした。「深奥の間」と呼ばれるこの六畳の和室には余分なものは何も置かれていない。三方は土壁で囲われており、出入り口の襖だけが外の世界との接点だ。香澄は布団をたたんで隅に寄せると、襖を開け放った。朝の清浄な空気が、暗い廊下の向こうから流れてくる。
掃除が済んでいる長い板張りの廊下をすたすた歩いて、香澄は自分の部屋に入った。寝汗で湿った巫女装束を脱いでしまうと、いくらか気分がましになる。本当はシャワーを浴びたかったが、時計を見て諦めた。今からでは学校に間に合わなくなってしまう。仕方なく常備している制汗シートで体を拭く。そして普段着を着てしまうと、朝食に向かった。
「おはようございます」
最初に声をかけたのは、世話人の女性だ。主に食事の世話をしてもらっている。食卓には既に父と義理の弟が席についていて、父に至っては食後のコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。香澄が座ると女性がご飯と汁物をよそってくれた。
「いただきます」
誰にともなくつぶやくと、それで初めて気づいたとでもいうように父が顔を上げた。
「おや、今日は学校に行くのかい」
とぼけたような口調で言う父に、香澄は低い声で返す。
「その、私が不良みたいな言い方やめてくれる?」
父はそれきり黙って新聞に目を戻した。
実際、香澄が夢見の役に着いてからは、学校に行けない日がちょくちょくあった。その性質上、途中で夢を中断して起きるというのが難しいからだ。夢見が籠る深奥の間に窓はなく、朝日を浴びることもできない。本当に朝に起きるには体内時計に頼るしかない。そもそも部屋が暗いのは、朝日で夢見の邪魔をしないためなのだ。
「ごちそうさま」
やはりつぶやくように言う香澄に、今度は父も黙ったままだった。
「行くよ、サク」
身支度をして、香澄は義弟に声をかけた。
「……まって」
ランドセルを慌てて担ぎ、香澄の後をよろよろと付いてくる。
井上 咲と香澄は血が繋がっていない。咲は父の再婚相手の連れ子だった。まだこの春小学生になったばかりで、朝は香澄が学校へ連れて行っている。一人っ子の香澄には、このいきなりできた弟とどう接したらいいのかわからなかった。それは咲にとっても同じのようで、ただ黙って後を付いてくる。
香澄は父に腹を立てていた。母が亡くなって間もないのにさっさと再婚を決めたこともだが、香澄の機嫌が悪いのも「ただの反抗期」と決めつけて遠巻きにしていることには余計に腹が立った。
そもそも、祖父が生きていれば賛成しなかったはずの再婚だった。香澄は一人っ子で、井上家の正当な後継者だった。しかし父が男の子を連れ子に持つ女性と再婚したことで、その咲が家を継ぐ可能性ができてしまった。もしそうなれば、次の夢見は井上家の血を継がない者がつとめることになる。そんなことは今までに一度もなく、可能かどうかさえ誰にもわからない。
しかし今香澄が考えるべきことは、目下自分が直面している夢見のことだった。学校に着いてからも、授業を受けている間もそのことが頭から離れない。それでも香澄が授業から取り残されることはない。夢見につくことはわかっていたので、その間に進むであろう分くらいは予習を済ませてあった。香澄が休みがちでも学校側に何も言われないのは、どんなに休んでも成績が落ちないからだ。
家に帰ると、世話人の女性がもう夕飯の準備を始めていた。父も新しい母もまだ仕事から帰ってきてはいない。香澄は一呼吸置いてから女性に告げた。
「私これからしばらく深奥の間に籠るから。お父さんたちにも伝えておいて」
女性は手を止めて目をぱちくりさせる。
「夕食は食べないのですか?」
「うん。少しでも早く夢見に入りたいの」
戸惑いの表情を浮かべる女性を残して、香澄は風呂場へ向かった。
夢見に入る前にはシャワーを浴びる。一応は「身を清める」意味合いだが、正式なものではない。それでも香澄は丁寧に体を洗った。俗世の拘りを削ぎ落とすつもりで洗った。
巫女装束を着こんで、奥へ行く前に和室に寄った。
そこには祖父が生前使っていたものが整理して置いてある。もちろん処分されたものも多いが、神事に関わるものは残されている。香澄はその中の一つに向き合って正座した。それは香澄にとって思い入れの深い祖父の形見だ。
ーーおじいちゃん、どうか夢の中でも見守ってて。
目を閉じて心の中で祈ると、意を決したように立ち上がり、その和室を後にした。
夕日も差さない暗い廊下の奥、さらに暗い小部屋が静かに巫女の到着を待ち構えていた。




