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1 社の隅で

 その日、赤池 翼が八幡神社の前を通りかかったのは、ほんの偶然のことだった。

 翼は犬が苦手だった。幼稚園のときに敷地に入ってきた野良犬にしつこく追いかけられたせいだ。今でこそ小さなチワワだとか、ミニチュアダックスとかには触れるようになったが、大きな犬はたとえリールにつながれていても思わず身がすくんでしまう。だからいつもの通学路も、犬を飼っている家を避けるように選んでいる。

 なのにその日は、出くわしてしまったのだ。

 前から大きなシェパードを連れた若婦人がこちらに向かって歩いてくる。思わず息を呑んだ。4年生になった今でも、やはり大型犬を見るとそれだけで背筋が寒くなる。それでも、なんとかがんばって普通にすれ違おうと思った。もう4年生なんだから、と自分に言い聞かせて……一歩、また一歩歩いていると、吠えてもいない犬の鳴き声が聞こえてくるようで、頭がくらくらしてくる。足が勝手に震え出す。冷や汗が出る。

 もうだめだ!……気がつくと、脇道へと逃げ込んでいた。

 その道は通学路としては使ったことのない道だった。街中に急に鬱蒼とした森が現れ、その奥に白い鳥居がのぞいている。八幡神社。夏祭りと初詣ぐらいにしか訪れないその神社は、人の気配もなく静かに佇んでいる。この奥で道は途切れているのだが、小さな用水路をまたぎ越してしまえば翼の家の裏手に出られる。学校からは通ってはいけないと言い渡されている裏道だが、今日だけは通ってしまうことにした。

 神社の前を通り過ぎようとしたとき、翼は思わず立ち止まった。鳥居の奥、社殿の階段の上に、誰かが座っている。よく見ると、それは見知った顔だった。

 井上 香澄。翼とは3年のときから同じクラスだ。物静かな性格で、あまり他のクラスメイトと話しをしない。というより、できないのだろう。香澄はクラスでいじめに遭っていた。ストレートの髪を肩辺りで切り揃え、銀縁のメガネをかけているおとなしい少女は、クラスの数名から気味が悪いと影口を叩かれ、やがてほぼ全員から無視されるようになった。翼もいじめるつもりはなかったが、なんとなくクラスの風潮に従ってしまっていた。故にどこか気まずい思いでその姿を見ていた。香澄は、自分の赤いランドセルを脇に置いて、本を無心に読みふけっている。その姿はあまりにも香澄らしくて、翼は思わず少し笑った。直後、翼はそのことを後悔した。

 香澄が、こちらに気づいたのだ。まずい、と思ったのだが、香澄は翼を見て微笑みかけてきた。翼もぎこちなく笑顔を返した。

 そのまま通り過ぎるのはあまりにも不自然な状況になってしまったので、翼は神社の中へ足を踏み入れた。

「こんな所で何してるの?」

 いきなり話しかけることも思い浮かばず、当たり障りのない質問が口から漏れた。すると香澄は目を見開いて驚いた表情をした。

「ここ、私んちだけど」

「え?」

「あ、そうか。知らないよね。驚いた?」

「う、うん」

 翼はぎこちなくうなずく。香澄が神社の子というのは、翼は覚えていないが、もしかしたらクラス替えがあった3年のはじめに自己紹介で言っていたのかもしれない。香澄が気を悪くしたのではないかと思ったが、当の本人は気にした様子もなく平然としている。なにしろ、こうして二人で話すのもほぼ初めてである。翼が思っていたイメージとは、香澄はちょっと違って見える。案外、内気なだけの女の子ではないのかもしれない。笑うと目元が下がり、無邪気さが強調される。よく見るとかわいい子だなと思う。

「あの、さ」

「うん?」

「……いつもごめん。クラスとかで無視して。私本当はそういうことするの嫌なんだけど……私、別に香澄ちゃんのこと変とか思わないし、その……うまく言えないけど」

「知ってるよ」

 つっかえながら話す翼の言葉を遮るように、香澄は明るく言った。その顔に浮かんだ笑みは、無邪気というよりも、どこか小悪魔的なイタズラっぽいものだった。香澄は自分の膝あたりに視線を落として続ける。

「翼ちゃんからは悪意を感じないから。それに今話してくれてるし」

 その言葉を聞いて、翼はホッとした。もしかしたら、友達になれるかも。そんなことを思ったとき、だが香澄は意外なことを告げた。

「もうすぐ転校するんだ、私」

「え?」

「だから、その前に……今日翼ちゃんと話せてよかった」

 香澄はふと真面目な顔つきになって翼の目を覗きこんだ。翼は一瞬ドキッとする。

「私、翼ちゃんのこと友達と思ってもいいかな」

「う、ん。もちろん」

 気圧されて詰まってしまったが、その申し出は嬉しく思った。目の前の無邪気でちょっと不思議な少女のことを、翼も気に入ったからだ。その返事に、香澄は再び笑顔を浮かべた。

「じゃあ、友達の証に……これあげる」

 香澄はランドセルのポケットから、なにか小さなものを取り出して、翼に差し出した。手を出して受け取ると、それは左右をくるりとひねって留めてある紙包み……いわゆる、キャンディ包みだった。翼は思わずきょとんとした。

「これ、キャンディだよね」

「そうだよ」

「……何故にキャンディ?」

「食べればわかるよ。あ、でも今はだめ」

 包みを開けようとしていた翼を香澄は慌てて留めた。そして、帰ってから食べてほしいという。

「翼ちゃんがこれを食べてくれたら、私が転校しても必ず何処かで会えるから」

「そうなの?」

 翼は自分の手に乗せられた包みを見つめた。友達の証としてもらうものが食べたらなくなってしまうものというのも変だなとは思ったが、一見どこにでもありそうなその小さなキャンディは、香澄からもらうものとしてはとても似つかわしいようにも思える。香澄が言ったことは不思議に思えたが、新しい友達ができたことが嬉しく、今は気にしないことにした。

「ありがとう」

 翼が言うと、香澄は嬉しそうに笑った。

 後から振り返れば、この日の出来事がすべての始まりだったとわかる。しかしこのときの翼には、これから自分に起こることなど想像できるはずもなかった。

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