Ⅳ
「俺の事は忘れろ。メノウの事も忘れろ。全て忘れて日常に戻れ」
「戻れる訳ないじゃないですか……。彼女が、居ない世界で……!」
「魔法が解ければ、今までの非現実的な事は夢を見ていたと思い込む。先程の様にな。今は非日常でも、いずれ夢から覚められる日が来る」
クローは淡々と語る。
「その日まで待てないから、私はこうして……!」
「しつこいぞ。俺がやれる事は何もない、出ていけ」
「……。い、嫌です」
間を置いて、アルバートは強い口調で拒否をした。
「出て行け」
「お願いします。どうか、助言だけでも頂きたいのです」
「待てばいい。出て行け」
「ずっと待っていました! これ以上は、気が狂いそうなんです……。どうか……!」
アルバートは引き下がらない。声が震えながらもクローの前から立ち去ろうとしなかった。クローの殺気は、クローの断りを拒否する毎に強くなっていく。視線で人を殺せるなら、きっとアルバートはもう彼の刺す様な視線で射殺される所だろう。
「……」
不意に、刺す様な視線も殺気も収まる。
もしや受け入れてくれたのかと、アルバートが顔を上げた時、
「愚かだな」
罵倒している訳でもなく、嘲笑している訳でもなく、だからと同情している訳でもなく。
それは哀れんでいる様な、それでいて呆れている様な、何処か気の抜けた声だった。
「出て行け」
クローはもう一度言った。
「出て行かなければ、次は町ごと追い出す。――出て行け」
冗談で言っているのではない。彼のヴァイオレットの目は本気だった。取りつく島もない。
クローの冷たく、全てを拒絶する物言いに、アルバートは失意のまま時計塔を後にした。
『アルバート様、雲行きが怪しくなってしまいましたね。お屋敷に戻りましょうか』
時計塔の外は、いつの間にか雨が降っていた。バケツをひっくり返した様な、激しい雨だった。たった今、突然降ったのだろう、鞄や布を頭の上に乗せ、町人達は建物の中へと走り込んでいっている。
アルバートは体を打ち付ける雨も気にせず、重い足取りで路地を歩いた。今は何時だろうか。ふと後ろを振り返る。時計塔の短針はローマ数字の六を指そうとしていた。今から馬車を捕まえて隣町に帰れるか、微妙な頃合いである。
隣町と【ニル】を往復してくれる馬車は少なく、交通の便が悪い。陸の孤島、と言うべきか。周辺の町から孤立している町だった。アルバートの住む隣町から行くのも、かなり時間がかかった。
帰る気力が湧かない。また今すぐ休みたい反面、駆け出したい衝動に駆られた。疲れているのだろう。太陽は見えないが、日は既に沈み始めている筈だ。動いてくれるかわからない馬車を探すより、ホテルを取る方がいいだろう。しかし、どこにあるだろうか。
観光に乏しい田舎町だ。あるとしたら一軒だと思われる。見付けるのは骨が折れそうだ。
服が水を含んで重くなる。金髪が濡れて顔に張り付く。頭が痛い。吐き気がする。体が冷える。足が重い。
これから、どうしたら――
「アルバートさん、風邪ひきますよ?」
不意に背後から声をかけられ、頭上にフリルが付いた白い傘を掲げられた。淵はピンクで彩られている。
振り返ればいつの間にか、メノウが朗らかな笑みをこちらに向けて立っていた。
「すみません、本当。クローさんは悪い人じゃないんですけど……。ただやっぱり、変人で」
「……いえ、気にしていません」
「気にしてなかったら、そんな虚ろな目をして雨に打たれてないでしょう。あ、そうそうアルバートさん。今から帰るのは大変ですよね? ホテルは取りましたか?」
「それが、まだ……」
「あっはっはっ。なら僕の家に泊まりますか? 案内しますよ」
メノウはけらけらと笑うと、アルバートからの返事を聞かないまま手を引き、歩き始めた。彼はクローの同居人とは違うのだろうか。それさえ考える気力もないアルバートは、ただされるがままメノウの後に続く。
時計塔の正面、大通りを進んだ右の角にある、メノウの家。それは二階建てのカントリーハウスだった。屋根も他の家では赤が多い中、淡いピンク色をしていて、外壁は白く塗られている。煉瓦造りの家が多い周りの家と比べると、大分浮いていた。
玄関前の階段を上がり、中に入る。メノウの家の中は、女児向けの玩具ドールハウスそのものだった。
リヴィングもそれは変わらない。可愛らしいデザインの草花が描かれたれた壁紙。そこに飾られた、淡く柔らかいタッチで描かれた、ロココの時代の画家 《フランソワ・ブーシェ》の絵画【クピド (詩の寓意)】。そのレプリカ。
最近特出してきたアール・ヌーボーを彷彿させる、花弁を模したモダンなデザインのテーブルランプ。テーブルクロスは薔薇の刺繍がされ、端にはレース状の透かし模様が施されている。椅子や机の足は猫脚、ロココ調と、絵画含め他の調度品もロココ様式が最も多い様だった。
惜しみなく、少女趣味を徹底されたこの部屋は、初見では誰しも家主は女性と思うだろう。
「アルバートさん。ダージリンとアッサムどちらがお好きですか? ロイヤルミルクティーも用意出来ますよ?」
洒落た花模様が施された陶器のカップを持つ家主、メノウはれっきとした男だが。
「いや、あの……。寝る場所さえ貸してくだされば私は……」
「遠慮しないっ」
「……じゃあ、ダージリンで」
「わかりました、用意しますね。ではその間、アルバートさんは着替えてください。髪も拭いて」
白塗りのクロゼットから取り出した、衣類とタオルをアルバートへ渡し、メノウはキッチンへと向かって行った。
渡された衣類のシャツはやはりと言うか、フリルが施されている。そしてアルバートにはサイズがやや小さく、体が少し締め付けられた。案外華奢らしい。実は乳房が小さく体格が男寄りというだけで、性別は女ではないだろうか。顔は中性的なのだし。
怪訝に思っていると、左手にポットとカップが、右手に三段重ねのティースタンドが乗ったトレイを持ったメノウがリヴィングに現れる。
皿の上にはサンドイッチ、ホウレン草やベーコンのキッシュ(パイ)、ケーキと簡単な食事が盛られていた。
「お待たせしました。濡れた服はここで乾かしましょうか」
トレイをテーブルに置き、ロープを壁のフックにかけると、メノウはアルバートが脱いだ服をピンチ(選択バサミ)を用いて干す。
次いでメノウは暖炉に火を灯した。白塗りの部屋が淡いオレンジ色に染まる。ちなみに、暖炉の上には幾つかのフランス人形が飾られていた。
「やや。アルバートさん、立っていないで座りましょう。簡単な物で悪いですが、食事も用意しましたし」
背中を押され、アルバートは白塗りのリボンバックチェアへ腰を下ろした。その向かいの席にメノウも腰掛ける。
「……メノウさん。一つ訊きたいんですが」
「はい何です?」
「クローディオさんは本当に、魔法を解く事が出来るんですか?」
「出来ますよ」
メノウはあっけらかんと断言した。
「《結界》を強制的に破り、中に居座る魔法使いをやっつけ、魔法を解く。これを出来る方は、僕の知る限りクローさんだけです」
メノウはポットを手にカップに紅茶を注ぐと、角砂糖とミルクを入れスプーンで混ぜる。
「《魔法》は解けると全てが元に戻る。魔法にかかっていた間の記憶は夢として処理される。人によっては綺麗に忘れてしまいます。しかし唯一、魔法が解けても戻らない物があります」
小首を傾げ、「何だと思いますか?」と問い掛けるメノウ。だがアルバートにはわからなかった。
「《時間》ですよ」
アンバーの目が暖炉の灯りを受け、怪しく光る。
「尤も、これは結界の中のみの話ですが。結界の外は基本的に強い魔法は扱えないので、そんな事は起きないんです」
メノウはキッシュのピースを一つ摘み、端をかじる。カリッと小気味のいい音が聞こえた。
「結界の中は時間の流れが違うんです。東洋のお伽話、知っていますか? 【浦島太郎】でしたか。《ワシントン・アーヴィング》さんが書かれた【リップ・ヴァン・ウィンクル】でもいいですね」
メノウが例に挙げた物語は、何方も主人公にとっては短い時間を過ごしただけだが、世間ではいつの間にか大幅に時間が過ぎ去っていて、自分だけ取り残された話だった。
アルバートは【うらしまたろう】は知らないが、ワシントン・アーヴィング作の【スケッチ・ブック】ならば読んだ事がある。そしてその中に綴られた、《時代遅れ》の代名詞【リップ・ヴァン・ウィンクル】も。
「あっ、グリム童話にもありましたね。《ミリー 、天使に出会った女の子の話》」
「えーっと、《時間に置き去りにされる》。それが魔法の痕跡ですか?」
「結界の中の人間は、結界に入った時の状態で体の時間が止まるんです。結界の中で何ヶ月過ごそうとも、老いたつもりでいても外に出れば元通り。長い夢を見ていた様な感覚に陥る。しかし周りを見れば、長い年月が経っているという訳です」
「それは……怖いですね。あっ、なら魔法が解けない限り不老不死でいられるんですか?」
「ある意味そうですね。逆に結界の中の時間が早い場合もあります。この場合、外に出るとあまり時間が経っていない結果になる」
アルバートはカップを手に、ダージリンの紅茶を一口飲んだ。芳醇な香りが鼻腔を擽る。
「ただ魔法使い自身、結界を作った本人の時間は止まりません。幾ら魔法で若く取り繕っていても、体は結界の外と同じように老けますから、どんなに長時間魔法を使おうと、流石に百年も経てば魔法使い自身が亡くなり解けます」
「ひゃ、百年……!」
確かに、稀だが人間は百年近く生きる事もある。しかし百年など到底待てない。仮に待てたとしても、戻ってくる人間と自分の歳はかけ離れてしまう事となる。それは困る。やはり待つのではなく、直ぐにでも魔法を解きにかかった方がいいのではないか。